杉原千畝「命のビザ」発給の舞台リトアニアへ 第二次世界大戦が迫る欧州(3)

杉原千畝がユダヤ人を救った「命のビザ」発給の舞台リトアニアへ

欧州リトアニアの街並み。

杉原千畝(すぎはらちうね)がおよそ6000人ものユダヤ人の命を救う「命のビザ」を発給した欧州リトアニアへついに赴任する。

第二次世界大戦の開戦を直前に控え、緊迫の度合いを深めるヨーロッパで、杉原は如何にしてユダヤ人たちの命を救えたのでしょうか。

欧州地図。リトアニアの位置が強調されている。
世界地図とリトアニア

出典:NuclearVacuum, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

「杉原千畝」外交官として第二次世界大戦が迫る欧州へ赴任

武器を持ち背中を向けて歩いている兵士の様子。

満州から帰国した杉原千畝は外務省に復職。
1936年(昭和11年)、モスクワ大使館赴任を任命されるが、ソ連がペルソナ・ノン・グラータを発動して杉原の入国を拒否。

ペルソナ・ノン・グラータとは?

外交団員の一員となるには外交官になる必要があり、外交官になるには派遣国にそう認められると同様に、接受国にもそう認めてもらわねばならない。接受国から受け入れを認められた場合は「アグレマン」(仏: agrément)がされるが、逆に拒否されることもある。この外交官待遇拒否が「ペルソナ・ノン・グラータ」である。

この拒否はいつ何時でも一方的に発動でき、またその理由を提示する義務はないが提示してもよい。接受国はいずれかの者がその領域に到着する前においても、対象外交官がペルソナ・ノン・グラータであることを明らかにすることができる。ペルソナ・ノン・グラータの通告を受けた場合には、派遣国は状況に応じて対象者の「本国へ召還又は外交官任務終了」をしなければならない。

対象の外交官に対し、接受国外務省から駐在公館を通じて、「あなたは我が国に駐在する外交官に相応しくないので本国へお帰り下さい。もしくは外交官任務を終了して下さい」と正式に通告することで発動されることが多い。派遣国が「ペルソナ・ノン・グラータ」発動後に対象外交官の「本国へ召還又は外交官任務終了」の履行義務を拒否した場合又は相当な期間内に行わなかった場合には、接受国は対象者の外交官待遇を拒否して一般市民として拘束できる。

「ペルソナ・ノン・グラータ」は接受国が有する唯一の拒否手段であり、これ以外の手段(強制送還、身柄拘束)を用いて外交官の非行を制裁することはできない。
また、本来は入国が当然に許可されるべき要人であっても、経歴や言動などが相手国に問題視された場合には到着地国際空港の制限区域から出場することが認められず、帰国を求められる。この措置をも指す。

Wikipediaより)

他国の外交官の入国を拒否するという通達はまさに異例中の異例のことであったが、その理由は北満州鉄道譲渡交渉の時に杉原千畝が見せつけた外交官としての手腕をソ連が恐れたためだと考えられている。

1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、次いで1939年(昭和14年)いよいよ運命の地、リトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。

杉原千畝のソ連との外交での活躍についてはこちら

2件のコメント

戦時中にも拘らず、3にんもの心ある偉大な人物が現れて、尊い命を救えたのに、

なぜ現在のウクライナの人々を、救えないのかもどかしいです

ニコラス、ウイントンの「未来は子供たちしか変えられない」という言葉は重いです

大変興味深く読ませて頂きました。時代が変わった今でも当時のような状況はあります。只々残念と同時に人間の愚かさを強く感じます。だからこそシンドラさん、杉原さんが取り上げらると思います。

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