日本の刀剣文化は、古代から続く伝統的な芸術であり、その美しさは世界的に有名です。しかし、明治時代初期に布かれた廃刀令によって、日本人は刀を腰に差して街を闊歩することはできなくなりました。
現在では所有するだけでも警察の許可が必要になっています。それでも、その刃の美しさは観る者を魅了し、日本刀の展覧会があるとたくさんのファンが押しかけるほどで、海外でもその強さと美しさは大変な人気を誇っています。
本記事では、有名な刀工の話を中心に、刀剣の歴史や技術、そして日本の文化における刀剣の役割について解説します。
過去の記事を編集し再公開しました。最終更新日: [2023/05/09]
日本刀の歴史的背景
日本刀は単なる武器ではなく、芸術品として日本の歴史・文化に深く根付いています。歴史上、刀は人を斬る道具であり、時には権力の象徴として扱われてきました。
天皇位の象徴である「三種の神器」の中にも、天叢雲剣(あまむらくものつるぎ、別名:草薙剣、くさなぎのつるぎ)という刀が含まれています。
現在にも伝わる日本刀の多くは、武士の台頭が始まった平安時代以降に作られたもので、以降鎌倉時代、室町時代を経て、戦国時代には各地に名工と呼ばれる人たちが生まれています。
山城国(現京都府)の来派(来国光、来国俊など)や吉光、備前国(現岡山県)の長船派、相模国(現神奈川県)の正宗や貞宗、伊勢国(現三重県)の村正などが特に有名ですが、そうした名工たちと肩を並べる存在に美濃国、関の刀工たちがいます。
日本刀の聖地・美濃国、関の名工たち
関は、現在の岐阜県関市です。現在でも関(Seki)市の名物と言えば、やっぱり刃物なのです。
ドイツのゾーリンゲン(Solingen)、イギリスのシェフィールド(Sheffield)と並ぶ、「刃物の世界の3S」と呼ばれ、その切れ味と品質の高さは世界的に有名です。
関の刀は切れ味のよさだけではなく頑丈さが売りであったため、日本刀から包丁、ハサミなどの庶民が日常で使う刃物に転じても好評を博しました。このため刃物を作ることを産業として残すことができました。
明治時代に入ると関の刃物は日本にとって数少ない輸出品となり、日本が誇る名産品として世界的に有名になりました。
現在でも関の包丁などは、一生モノとして愛用されています。
余談ですが、この関市、日本の人口重心があるというのをご存知ですか?
人口重心とは、
ある地域に住む人々の居住地点からなる図形の重臣である。物理的に説明すれば、その地域に住んでいる全ての人が同じ体重を持つと仮定して、その地域を支えることができる重心となる。(Wikipediaより)
簡単に例えるなら、シーソーの支点を関市にすれば、ちょうど日本の東西で人口数的に釣り合うポイントということです。
関市の観光情報については、こちら:多言語観光情報サイト「Guidoor(ガイドア)」|関市をご覧ください。
関の名工・「之定」(ノサダ) 和泉守兼定
関の刀工、和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)は室町時代後期に活躍したといわれています。兼定の作った刀は戦国時代に入るとその切れ味の良さから多くの武将達の愛刀になり、「之定(ノサダ)」の別称を持っていました。
中でも織田信長配下の猛将森長可(ながよし)は十文字槍の穂先に「人間無骨」(にんげんむこつ)と彫った兼定を使っていました。
これはこの切れ味抜群の槍の前には、人間の骨など無いも同然という意味がありました。
森長可以外にも細川幽斎、忠興親子などもこの之定を愛用していたそうです。
なぜ「ノサダ」と呼ばれるのか?
多くの刀には柄に覆われる根元の部分に製造者が自分の名前を入れています。これを「銘」といいます。
兼定も銘を刻んだのですが、定の字をウ冠に之(の)と刻んだように見えるため、「之定(ノサダ)」と呼ばれるようになったといわれています。
会津に行った兼定
和泉守兼定の二代後の古川兼定は会津の戦国大名蘆名(あしな)氏に招かれ、会津の地で刀工になります。
戦国時代が終わると会津の領主は蒲生氏、上杉氏、加藤氏、会津松平氏と変遷していきますが、兼定は会津の刀工として栄えました。
土方歳三と和泉守兼定
幕末の京都で治安取締りの任に当たっていた新選組副長土方歳三(ひじかたとしぞう)の愛用した刀の一振りが和泉守兼定です。
ちなみにこの刀は現在にも伝えられており、土方歳三の縁者が運営している「土方歳三資料館」(東京都日野市)に収蔵されています。(ただし常設展示品ではありません)
司馬遼太郎の名作小説『燃えよ剣』で、土方歳三は「之定」を目の不自由な老人から手に入れ愛刀としたことになっていますが、これは事実ではありません。
土方の和泉守兼定は会津に行った11代目兼定の作といわれています。
名刀として知られていた「之定」を演出上盛り込むことで、土方の剣に神秘性やドラマ性を付加したのでしょう。
関の名工その2.「関の孫六」~孫六兼元
孫六兼元(まごろくかねもと)も和泉守兼定と並ぶ関の刀工の一人です。「関の孫六」とも呼ばれる兼元の作品は、切れ味の良い実用的な刀として武将達に愛用されたといわれています。
孫六と和泉守兼定は同門で学び、親しい間柄であったといわれています。
江戸時代と名刀
戦国時代が終わると刀の需要は減少したものの、武士の世の中は続いたため刀工たちも引き続き必要とされ、その技術も高くなりました。
名物・業物(わざもの)と言われた名刀は美術品として将軍家や大名によって所有され、中には災害や戦火などによって失われたものもありますが、何点かは現代にも残され国宝や重要文化財に指定されています。
徳川家と妖刀村正
村正(ムラマサ)は徳川氏に代々不幸をもたらした刀として知られていますが、どうやらこれは後世の人間が事実をあげつらって、村正は妖刀であると断定してそれを世間に流布したことが原因となっています。
徳川家康の祖父が村正で殺されたとか、家康の長男信康が村正で切腹して介錯されたなどの事実は確かにあります。
しかしこの当時村正及びその一派の刀剣は三河では標準的に使われており、徳川家康はむしろ切れ味鋭い村正を好んでいたといわれています。
そして幕末になると討幕の志士たちが、徳川が忌み嫌う刀ということで村正を好んで佩用していたそうです。また明治の大宰相伊藤博文も村正を好み熱心に収集していました。
まとめ:日本人と日本刀
現在国宝に指定されている工芸品は約250点ありますが、そのほぼ半数が日本刀によって占められています。これは武士の時代が長く続いたことが根底にあると思われます。
静岡県三島市の佐野美術館には、国宝の「薙刀 銘 備前国長船住人長光造(なぎなた めい びぜんのくにおさふねじゅうにんながみつぞう)」をはじめ数点の重要文化財の刀剣や、本多平八郎忠勝の愛槍で天下三名槍の一つ「蜻蛉切(とんぼきり)」の穂先などが収蔵されています。
なぜこのように多くの名刀が残されたのか?そこには武士のステータスである刀に対する畏敬の念があったからではないでしょうか。
鎌倉時代から江戸時代まで約800年の武士の世は刀が支えていたといったら大袈裟かもしれません。しかし戦乱が絶えた江戸時代においても、刀は「武士の魂」であり続けたのです。
現在でも日本刀の刀工はおり、昔ながらの製法で生産は続いています。このような伝統は「ものづくり日本」で、いつまでも続いてほしいものです。
1966年に開館した佐野美術館は、実業家である佐野隆一(1889〜1977)が収集したコレクションを基に設立されました。日本の古代木造建築の特徴を取り入れつつ、現代的な要素を加えた端正な外観を誇る美術館です。常設展示されている日本刀の名品をはじめ、約2,500点の日本・東洋の美術品が収蔵されています。
さらに、敷地内には「隆泉苑」という美しい日本庭園が併設されており、入場は無料です。この庭園には国の登録有形文化財に指定された日本家屋や表門があり、美術館主催の茶会や講演会など、多様な芸術教育の普及活動の場としても活用されています。
住所:静岡県三島市中田町1-43
多言語観光情報サイト「Guidoor(ガイドア)」|佐野美術館
執筆:Ju
ガチ勢で草
日経クロステックの記者が言ってました。軸受国富論のことを。
日本刀、カッコイイです。
レジリエンス(強靭)ですね。
日本の生産性をたかめる視点として、製造業においては熱処理をして強度を高める鋼が重要であるかという視点が大切だと思います。熱処理前は強度が低く加工の自由度が高く、熱処理後はその形状を保持したまま高い強度で耐久性能しめすマルテンサイト。この熱処理前後の強度増幅能力は地上の全物質群のなかでもダントツであることが産業の生産性を支えているものづくりの原点なのです。
プロテリアルのSLD-MAGICは折れず、曲がらず、よく切れると3拍子そろった高性能特殊鋼だと評判で水素エンジン車やマルチマテリアル関係の先端分野で脚光を浴びているようですが、なんか日本刀の理想を思い出してしまいます。