深大寺の魅力と歴史 – 東京調布市の奈良時代からの祈りと癒しのお寺

深大寺の外観

日本の深大寺(Jindai-ji Temple)というお寺をご存知でしょうか?

東京都調布市──深緑の木々と豊かな湧水に恵まれたまちの一角に、そのお寺はあります。

奈良時代から続くこの歴史ある寺院は、都会の喧騒から逃れ、心の平和を求める人々にとっての名所です。調布市の自然豊かな風景に囲まれた深大寺は、四季折々の美しい景色と共に、訪れる人々に癒しと安らぎを提供しています。

深大寺の歴史:調布市の時を超えた祈りの地

深大寺での壮大な護摩祈願の儀式。燃え上がる火柱が厳かに祈りの空間を照らす、総領たちの祈願の様子を捉えています。

奈良時代の聖武天皇の頃、733年の天平期に創建されたといわれ、東京都では浅草寺に次いで2番目に古いというたいへん由緒あるお寺です。

733年というと、日本最古の歴史書である「古事記(712年完成)」や「日本書紀(720年完成)が編纂されたすぐあとの時期であり、「国生み」や「因幡の白兎」など、日本を代表する神話が人々に広く浸透していった頃ということになるでしょうか。

いにしえの時代から修行者や近隣住民などの篤い信仰を集め、現代においても国内各地から多くの参拝者が訪れています。

深大寺の境内で開催される有名な「日本三大だるま市」。参拝客と無数のダルマが並ぶ活気ある風景

毎年3月上旬には「厄除元三大師大祭」が盛大に催され、境内では「日本三大だるま市」として有名なだるま市も開かれています。

深大寺のイベント情報についてはこちら「深大寺公式Webサイト:年中行事について」

もちろん、お正月の初詣や節分の豆まき、5月の薪能など、年間を通して多くの参拝者が参詣されており、風情ある古寺での心落ち着くひと時を過ごされているようです。

江戸名所図会 3巻に描かれている、江戸時代当時の深大寺とその周辺の図。深大寺正面には茶屋らしき家屋がすでに立ち並んでいるのがわかる。

江戸時代の終わり頃に描かれた深大寺。建物の様式や、石塔、植物などの配置の様子から、たいへん格調高い祈りの空間であったことが伺えます。

『江戸名所図会 3巻』斎藤長秋編 長谷川雪旦画 1834年(天保5年)~1836年(天保7年)発行

深大寺山門前に立つ「深大寺そば」ののぼり。

調布という場所が生み出した名高い白い蕎麦──「深大寺蕎麦」をここで味わうという方も多く、四季を愛でながら和の食文化を堪能できる場所としても人々を惹きつけています。

古来より人々の篤い信仰を集め、心の拠り所として存在してきた深大寺──。

特筆されるその歴史をすこし辿っていくと、先人たちの願いや現代社会においても大切となることが垣間見えてくるかもしれません。

深大寺公式Webサイトは「深大寺公式Webサイト」

深大寺の起こり──水神への誓いから

天平時代の創建から1300年ほどが経過していることになる深大寺。

その起こりについて今日に伝えているのが、寺に残されている「縁起」※であり、詳しい由来を知ることができます。

※深大寺が所蔵する最古の史料であり、「真名縁起」といわれています。江戸時代、1646年の大火によって焼失し、1650年に57代目の住職が古老の記憶を頼りに書き上げたものとされています。

深大寺がまだこの地に創建される前のこと。

柏江里(かしわえのさと)という所に右近(うこん)という狩猟好きな長者がおり、虎という美しい女性と夫婦になったといいます。

虎から殺生をやめるようにと諫められ、右近がその通りに狩猟をやめると1人の娘が誕生し、成長していきます。

やがて福満(ふくまん)という男性が現れ、この娘を慕いますが、右近夫婦は2人の仲を快く思わず、池に浮かんでいる島に娘を連れて行き、会えなくしてしまいました。

福満は毎日池を訪れ、娘に会えないことを嘆いていましたが、唐の三蔵法師の話──天竺への旅の途中、川を渡れずにいたところ、天が哀れみ「深沙大王(じんじゃだいおう)」という水神が成就させたという話──を思い出し、娘に会えるよう一心に深沙大王に祈ります。

島に渡ることができれば、この地の鎮守として大切に祀っていくと誓うと、池から大きな亀が現れ、福満はその大亀の背に乗って島へと渡り、娘との再会を果たすことができました。

右近夫婦はこの霊験あらたかな水神の話を聞き、ようやく娘の婚姻を許します。

時は流れて、福満と娘との間に生まれた男子が成長すると、仏門に入って唐へと渡り、法相宗(ほっそうしゅう)の学を修めて無事郷里に戻ってきます。そうして父親の福満の誓いの通り、この地に深沙大王を祀りました──。

この人、満功上人(まんくうしょうにん)こそが深大寺の創建者であり、深大寺という寺の名称も、じつは水神である深沙大王を由来としていることが寺の「縁起」では示されています。

このように深大寺は、「深沙大王への誓い」を出発点としており、水神への畏敬の念を信仰の土台として、現代まで修験僧やこの地の人々によって大切に守り伝えられてきたということになります。

そこではきっと、真実の恋を実らせたたいへんロマンチックな話も、大いに人々に支持されてきたのではないでしょうか。

もう一つ興味深いのは、こうした深大寺の由来に関する話の中に、島という存在や、島に向けて懸命に渡ろうとしていく内容が含まれていることであり、広く知られる日本の神話、「国生み」や「因幡の白兎」との共通性がみられることです。白兎のように大失敗をしていないのは、神話がしっかりと教訓とされていたからでしょうか──。

では、創建後から現在までの深大寺の歩みについて、各時代の重要人物や、たいへん有名なな仏像とともにすこし辿ってみることにしたいと思います。

平安時代、反乱が治まり天台宗のお寺に

創建から130年ちかくが経過した平安時代、860年頃に、京都の比叡山から1人の修験僧、恵亮和尚(えりょう おしょう)という人が清和天皇の勅命を受けて深大寺に入られます。

この頃、武蔵の国司であった蔵宗(くらむね)が反乱を起こし、その降伏を祈念するためでした。

その後、反乱は鎮まり、朝廷は大きな功績があるとして、近隣の七つの村とともに深大寺を恵亮和尚に与えました。

これを契機として深大寺は天台宗のお寺となり、東国一の密教の修行道場として繁栄していくことになります。

深大寺の「開山堂」の美しい外観。歴史と伝統を感じさせる建物の佇まい

深大寺の開創1250年を記念し、1983年(昭和五十八年)に建立された「開山堂」の中には、満功上人の像とともに恵亮和尚の像も祀られています。

つまり、創建者とともに大切に祀られているということであり、いかにこの出来事が大きく、恵亮和尚という人が卓越した存在であったかがうかがい知れるかと思います。

鎌倉時代、巨大な座像が現れる

深大寺の秘仏、元三大師像のイメージ図。
秘仏・元三大師像/画像はイメージです。

それから300年余りが過ぎ、鎌倉時代の頃になると、慈恵大師良源(じえだいし りょうげん)という人の像が祀られたと、お寺の「縁起」には記されています。

良源大僧正は、驚くことにいくつもの呼び名がみられます。

正月三日が命日であることから「元三大師(がんざんだいし)」と呼ばれていますし、天台宗の座主として荒廃していた京都の比叡山を復興させたことから、「比叡山中興の祖」ともいわれています。さらに、日本で初めて「おみくじ」を作った人として「おみくじの祖」とも称されています。

こうしたいくつもの名称からは、当時の並外れた良源大僧正の活躍の様子をうかがうことができますが、生前にいくつもの奇跡を起こしたことでもよく知られ、「元三大師像」が本州の近畿・中部・関東地方を中心に、各地の天台宗のお寺に大切に祀られるようになりました。

なかでも、深大寺に安置されている元三大師像は、2m近くもあるという巨大な座像であり、古い時代の僧の像としては国内最大であるといわれています。

深大寺公式Webサイト:日本最大厄除け大師に元三大師像のお姿が掲載されています。)

また、運慶・快慶が制作したことでも知られる、奈良の東大寺南大門の金剛力士像と同じく、鎌倉時代の迫力のある作風が深大寺の元三大師像にも認められるといい、長い間秘仏とされてきました。

なぜ巨大な大師像が出現したのか気になるところですが、ご想像の通り、深大寺と当時の鎌倉幕府との強いつながりがあったためとされており、初代将軍の源頼朝をはじめ、代々の将軍の子どもや甥などが、寺務を総括する「別当」といわれる職を務めていたといわれています。

加えて、鎌倉時代はご承知の通り、二度にわたって大陸からの蒙古(もうこ)の襲来があり、いわゆる「元寇(げんこう)」を見据えて大きな元三大師像を深大寺に安置し、国運を守るという重要な意味合いがあったということがいわれています。

「縁起」によると、当時は鎌倉武士による寺領の略奪なども起きていたといい、東国有数の由緒ある深大寺といえども、厳しい社会情勢に絶えず翻弄されていた様子も捉えられてきます──。

ここまでの深大寺の歩みからは、武蔵野という一地域の信仰の要としてだけではなく、国レベルのたいへん重要な政治的役割があったこと、そして深大寺を拠点として類まれなる活躍者の存在があったことなどが特徴としてよく見えてきます。

一般の人々にとっての深大寺の存在についてもたいへん興味持たれるところですが。

室町時代、文能の僧が登場

深大寺の本尊、宝冠阿弥陀如来像のイメージ図。美しい宝冠をまとった黄金色の如来像。
宝冠阿弥陀如来像 / 画像はイメージです。

さて、つぎの室町時代に入ると、深大寺には文筆に優れた「長辨(じょうべん)」という僧が登場してきます。

たいへん知識や教養の高い人であったとされ、深大寺はもとより、近隣の社寺や豪族たちの勧進(寺院の建立・修繕に際して、費用の奉納を説いていく)や寄進、祈願などを引き受けられ、筆を振るわれていたようです。

それらを集めた『私案抄』といわれる文集が残されており、1571年の比叡山延暦寺焼き討ち後の大規模な再建の際に、参考にされたということです。

長辨によってしたためられた当時の貴重な書はまだほかにもみられ、たいへん意外な場所に残されていました。

じつは鎌倉時代に制作されたという、深大寺本堂のご本尊である金色の「阿弥陀如来像」であり、像の内部に墨で書かれた長辨の書が収められていました。

深大寺公式Webサイト:深大寺の文化財に宝冠阿弥陀如来像のお姿が掲載されています。)

そこにはかなり具体的な内容──長辨が1436年に像の補修をしたこと、深大寺の第五十二代住職となったこと、また当時には修行道場として「常行堂」というお堂が深大寺に存在していたこと──が記載され、いわば後世の人々へのメッセージ・記録が丁寧に残されていました。

こうした室町時代の深大寺の様子からは、寺院内部で堅実な実務活動がなされていたことがうかがい知れるところですが、もう一つ、この時代も外部者との密接な関係性が構築されており、寺院の存続が図られている点も特筆されるように思います。

大火に見舞われ、多くの建物が焼失してしまった際には、世田谷の吉良家が寺領を寄進しており、無事に再興が果たされていきます。

また、深大寺には北条家による朱印状も現存しているといい、存続基盤としての寺領がしっかり確約されていたようです。

どのような時も深大寺を支持する近隣の有力豪族たちの存在があり、深大寺が存続してきた重要な要素としてあったことが残されている資料から捉えられてきます。

それは安土・桃山時代を経て江戸時代に入ってからも同様であったといえ、初代将軍である徳川家康からも領地の寄進を受け、この時には五十石の所領地が与えられています。

深大寺は40以上の寺を擁する大寺となり、東国の要の寺院として、広く人々の篤い信仰を集めていくことになります。

江戸時代、信仰の隆盛と幕末期の大火

深大寺での祈祷の様子。僧侶たちと参拝者たちが一緒に祈りを捧げる厳かな光景です。

江戸時代の元三大師を中心とする華やかな深大寺信仰を象徴しているのが、「出開帳(でがいちょう)」です。

「出開帳」とは、本堂に祀られている本尊などを他所に運んで、多くの人々が直接拝観できるようにすることであり、江戸時代の後期には、1765年と1816年の2回、半世紀ほどを空けて両国で執り行われています。もちろん、巨大な元三大師像の出開帳でした。

つまり、江戸時代の深大寺信仰が、名高い修験僧の道場としてだけではなく、一般者にとっての信仰ともなり、人々に祈りと癒しの場所を与えていく、裾野の広い信仰形態となっていったということがいえるかもしれません。

この出開帳の時には、巨大な大師の座像が上野の寛永寺の門をなかなかくぐれなかったというエピソードが残されており、鎌倉時代から武蔵野の人々に平安を与えてきた名高い像の迫力を目の当たりにし、当時の江戸の人々の驚きがいかばかりのものであったのか想像されるところです。

出開帳のみならず、深大寺においても毎月3日と18日はとくに参拝者で賑わい、門前には市も立っていたといわれています。

時代を越えても元三大師という人の魅力は尽きず、人々にとっては厳しい身分制度のある社会から一瞬解かれる、特別な祈りと癒しの場所として支持されてきたのではないでしょうか──。

ですが幕末となる1865年(慶応元年)に、深大寺はまたもや大火に見舞われ、重要な本堂までもが被害を受けてしまいます。寺の宝とされてきた仏像は幸いにも難を逃れて無事でしたが、建造物は山門と線香を焚くための常香楼を残してほとんど消失することとなりました。

そのような深大寺存続の危機に瀕しながらも、2年後の1867年には元三大師堂がまず再建されており、人々の篤い大師信仰をよく物語っているともいわれています。

ただし、本堂の再建については、そのずっと後のこととなります。

深大寺、近代期から現代まで──白鳳仏の奇跡的な国宝指定

国宝に指定されている深大寺の白鳳仏、銅造釈迦如来倚像。椅子に座った姿勢の美しい古代仏像です。
銅造釈迦如来倚像 / See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

いにしえの時代から大切に守り伝えられてきた深大寺ですが、本堂のない状態が半世紀あまりもつづき、その再建がようやく実現したのは、大正時代の1919年(大正8年)のことでした。

1922年(大正10年)の秋には、復興してまもない深大寺を昭和天皇が訪れておられます。

また、本堂の再建前となる1913年(大正2年)には、大火のあと、長く釈迦堂に仮安置されていた白鳳仏の「釈迦如来椅像(しゃかにょらいいぞう)」※が旧国宝に指定され、東国随一の古仏として全国的に知られるようになります。

※椅像とは、椅子に座った姿勢の像をいいます。

天平時代の前、白鳳時代に制作されたというこの釈迦如来椅像は、それまで長く本堂に安置されていましたが、大火に見舞われ、駆けつけた近隣住民が建物から救出して池へと移し、難を逃れたといいます。美しい銅像の右手の指先が欠けているのは、この時の避難の際によるものとされています。

その後、釈迦如来椅像は、本堂よりも先に修復された元三大師堂の須弥壇(しゅみだん:ご本尊を安置する一段高い場所)の中に、仮の状態で置かれていました。

そしていつしか、明治維新後の社会の混乱のなかで、関東で最古といわれるたいへん希少な仏像ですが、忘れられた存在となっていました。

明治の末、1909年に、考古学者の柴田常恵という人が、偶然にも須弥壇におかれた像を発見し、44年ぶりにその所在が確認されることとなりました。

発見当時は本堂の再建がままならず、その再建資金にしていくとの話が具体化しており、売却の危機にあったということですが、幸いにも売却はまぬがれ、発見の4年後、(旧)国宝指定となりました。

しかし、ここから現在の国宝指定へと容易に至った訳ではありませんでした。

第二次世界大戦後、1950年に施行された「文化財保護法」によって、国内全ての国宝がひとまず重要文化財となり、そこから新しく国宝指定がなされていくというプロセスにおいて、深大寺の釈迦如来椅像についてはなかなか指定がなされませんでした。

というのも、たいへん古い白鳳時代の三仏の一つとされつつも、像の伝来についてほとんど明らかではなかったからです。

ですがまたもや偶然が重なり、釈迦如来椅像も白鳳三仏の一つであることが判明し、国宝指定されていくことになります。

2015年、香薬師像という、やはり白鳳三仏の一つで所在不明であった像の右手が奇跡的に発見され、科学的な銅の成分分析から当時のもので本物と判明したのですが、ちょうどその時、イタリアで開催された「日本仏像展」から日本に戻った深大寺の釈迦如来椅像も、すぐさま東京文化財研究所へと移され、同様の調査がなされて確定しました。

そして2017年、国の文化審議会を経て「国宝指定」を受け、現在に至っています。

(参考リンク:調布市公式ページ:深大寺白鳳仏が国宝(美術工芸品・彫刻)指定

深大寺の長い歴史が語りかけているもの

奈良時代から人々の篤い信仰を集め、長い時代にわたって心の拠り所となってきた深大寺──。

その歩みについて、活躍者や希少な仏像とともに主な時代を辿っていくと、懸命に守られてきた祈りの空間の意味や先人たちの願い、現代社会においても大切となることがよく見えてくるように思われます。

自然豊かな、柔らかな空間に身を置くと、悠久の時の流れと地域社会が交差するところで、共存の世界、社会の一員であることがよく感じられてきます。

各時代の人々の願いも、じつはその先にある繁栄や平安ではないかという気がしてきます。

人々が懸命に守り伝えてきた祈りの空間の意味について、いまも変わらず調布の地に建つ深大寺は、現代の私たちに静かに語りかけているようです。

深大寺:時代を超えた祈りと癒しの地、東京調布市の歴史と自然の交錯点を訪れよう

緑豊かな深大寺の表参道。茶店でくつろぐ人々や和菓子を売る店主、賑やかに行き交う人々の風景が広がります。

東京都調布市の深大寺は、歴史と自然が交錯する美しい場所です。奈良時代からの祈りと癒しの寺院として、今も多くの人々に愛されています。

一度訪れば、その深い歴史と美しい建築、そして自然に魅了されること間違いなしです。

ぜひ一度、このいにしえの時代からの祈りと癒しのお寺に足を運ばれてみてはいかがでしたでしょうか?

日々時間に追われる生活の中で見失いつつあるものを、もしかして見つけられるかもしれません。

深大寺へのアクセス

深大寺へのアクセス情報はGuidoor「深大寺」をご確認ください。

参考文献

📕深大寺公式ウェブサイト
📕石川源助著. 多摩川と深大寺. 広文館,1921年
📕貴田正子. 深大寺の白鳳仏──武蔵野にもたらされた奇跡の国宝. 春秋社,2021年

💻観光ナビ 調布市観光協会公式サイト

ライター:Reiko Yoshi
編集:Taro

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