渋沢栄一とはどういう人物だったのか? / 近代日本のインバウンド観光戦略

渋沢栄一

吉沢 亮さん主演のNHK大河ドラマ「青天を衝け」(2021年)は、 幕末から明治を駆け抜けた 渋沢栄一(しぶさわ えいいち)の物語です。

明治期に約500もの企業を創設、「日本資本主義の父」といわれ、2024年度から新しい1万円札の顔にもなる渋沢栄一という人物の生涯が、NHK大河ドラマでどのように描かれていくのか楽しみですね。

渋沢栄一の一万円札見本(2024年度発行予定)

画像出展:財務省

実はこの渋沢栄一、近代日本のインバウンド観光を創始した人物であったということをご存じでしょうか?

インバウンド外交 (海外の要人・賓客の訪日) による諸外国との不平等条約の改正を目指す明治政府の意向を受け、帝国ホテルの建設に携わったほか、インバウンド誘致のための民間組織も設立しているのです。

ところが渋沢栄一の人生を振り返ると、もともと彼は攘夷、すなわち外国人は殺戮すべき、という思想の持ち主でした。

攘夷思想の持ち主が180度方向転換、大いに海外から外国人を受け入れる体制を構築するという、この思考の柔軟さこそ欧米列強の植民地に陥ることなく、近代化を成し遂げた日本人の強さで、それを体現した人物が渋沢栄一だったのではないでしょうか。

ここでは渋沢栄一が創始した近代日本のインバウンド観光への取り組みを通じて、彼の本質に迫ってみたいと思います。

渋沢栄一の略歴

渋沢栄一のモノクロ写真。

画像出展:Wikipedia

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)
1840年3月16日 – 1931年11月11日(天保11年2月13日 – 昭和6年11月11日)

江戸時代末期から明治期にかけ、日本の近代化に大きく貢献

渋沢 栄一は、天保11年2月13日(1840年3月16日)埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれ、後にその実力を買われ武士となります。

明治維新後、民間経済人として活躍、「日本資本主義の父」と称され、生涯に約500もの多種多様な企業の設立と育成に係わり、約600の社会公共事業、慈善活動などの支援に尽力しました。

1931(昭和6)年11月11日、91歳でその生涯を閉じました。

1,渋沢栄一のインバウンド観光戦略とは

震災復興院委員のメンバーのモノクロ写真。左から渋沢栄一、伊東巳代治、加藤高明。

(左から渋沢栄一、伊東巳代治、加藤高明)

画像出展:Wikipedia

幕末のペリー来航を受けた日米和親条約(1854年)そして日米修好通商条約(1858年)を皮切りに欧米列強と締結した通商条約は、どれも「治外法権」「関税自主権がない」といった内容で、権利において日本には不平等なものでした。

*治外法権とは外国人が滞在国の裁判権に服さない権利、関税自主権とは自主的に関税制度を定め運営する権利(これが持てない)で、どちらも日本にとって不利なもの。

近代的な国家を目指し富国強兵を進める明治政府にとって、これらの不平等条約の改正は至上命題でした。

渋沢栄一と井上馨 明治時代のインバウンド外交

外務卿(現外務大臣)井上馨は1883年(明治16年) に鹿鳴館を建設、欧米列強との不平等条約改正を目的とした鹿鳴館外交を展開します。

欧化政策に抗う国粋的雰囲気が国内に色濃く残る中、西洋風の社交場として建設された鹿鳴館には批判も向けられましたが、当時の日本には海外要人や国賓を迎え入れる迎賓館などの施設がなく、鹿鳴館で行われる海外要人の接待は条約改正を働きかけるためにも外交の面で重要な役割を担っていました。

井上馨は長州藩(現山口県)藩士出身、明治政府では外務卿、農商務大臣、内務大臣など要職を歴任した人物です。

明治政府は、幕末の雄藩で維新を推進した薩摩藩(現鹿児島県)、長州藩、土佐藩(現高知県)、肥前藩(現佐賀県)、いわゆる薩長土肥4藩からの人材を主要な官職につけていました。

渋沢栄一が大蔵省勤務時代の上司が井上馨であり、二人には浅からぬ縁がありました。

このことは後でふれます。

渋沢栄一と帝国ホテル 民間組織「喜賓会」

明治時代の帝国ホテルの様子。

画像出展:Wikipedia

鹿鳴館外交の成果もあり徐々に来日する外国人が増え、賓客を迎えるにふさわしい宿泊施設の整備が急務となりました。
そこで建設されたのが帝国ホテルであり、井上馨が建設の主役に抜擢した人物こそ渋沢栄一でした。

明治期帝国ホテルの絵。

画像出展:Wikipedia

帝国ホテルは1890年(明治23年)に完成(東京都千代田区内幸町)、隣接する鹿鳴館(この段階では華族会館)に代わりインバウンドの直接的な受け皿としての機能を発揮していきます。

帝国ホテルは渋沢栄一らをオーナーに1888年(明治21年)設立した有限責任帝国ホテル会社が建設、その後、経営権は変遷を重ね、現代では筆頭株主である三井不動産を中心に経営を行っています。

帝国ホテル建設と同時に海外からの要人誘致 (インバウンド)を推進するため、1893年(明治26年)に渋沢栄一は民間組織「喜賓会」(きひんかい)を設立し、各種施策を展開していきます。

渋沢栄一をトップに当時のホテル・鉄道経営者を構成メンバーとする喜賓会は、具体的にインバウンド客の誘致、斡旋、そのための宣伝など、現在行われている海外向け観光事業同様の役割を担いました。

こうした事業の目的の第一は不平等条約改正に向けた要人の接待外交ですが、さらにはインバウンド客が日本国内のホテル・鉄道を利用することによる外貨獲得を目指すという要素もありました。

渋沢栄一の戦略が功を奏し、さらには1894年~1895年の日清戦争での勝利を受け、不平等条約は改正され治外法権などを撤廃することに成功しました。

(治外法権でのトラブルを避けるための)訪日外国人の日本国内での行動規制は緩和が図られ、旅行なども自由となったことで、さらなるインバウンドの増加につながる、という好循環が生まれていきます。

渋沢栄一がつくった喜賓会こそ、いまの政府観光局あるいは、JTB(日本交通公社)の前身とも言われる組織でした(1912年設立の任意組織ジャパン・ツーリスト・ビューローを経て今のJTBへ)。

2,渋沢栄一とはどのような人物だったのか

ステッキを持った渋沢栄一のモノクロ写真(1915年のニューヨーク市にて)

画像出展:Wikipedia

渋沢栄一とは、一体どのような人物だったのでしょうか?その人生を簡単に振り返ってみましょう。

渋沢栄一は1840(天保11)年、武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の農家の家に生まれます。

農家といっても渋沢家は藍玉づくりと養蚕を兼業する富農の家でした。

藍玉とはタデ科植物の藍からつくる染料で、地域は武州藍染の原料供給地だったのです。

血洗島村とは恐ろしげな名前ですが(平安時代の合戦由来など地元伝説諸説あり)、利根川を通じて江戸の文化や経済がいち早く伝わる情報の拠点でもあり、こうした環境の中、すぐれた資質をもつ渋沢栄一は育ちます。

18歳で結婚(1858年)するものの、若い血を抑えることができなかった彼は江戸に出て当時著名な儒学者の門下生となり、同時に北辰一刀流の道場に入門、剣術修行のかたわら勤皇志士と交友を結びます。

その影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、結果的に中止となりますが倒幕(横浜での外国人殺戮含む)計画を企画するといった血気あふれる行動も起こしています(1863年(文久3年))。

その後、渋沢栄一の運命を大きく変える出会いがありました。

「渋沢栄一」一橋慶喜に仕え農民から武士になる

江戸遊学時に交際のあった一橋家家臣の推挙で、一橋慶喜に仕えることになりました。

*一橋家とは、江戸中期、将軍家より分立した徳川御三卿の一つ(将軍の後継対策、ほかは田安・清水家)。

一橋慶喜は、徳川御三家の一つである水戸徳川家(ほかは尾張・紀州)から一橋家の養子となり、徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)となり、朝廷へ政権返上、江戸城明け渡しを行う人物です。

渋沢栄一はこの士官により武士の立場を得ることとなり、主君の慶喜が将軍となると江戸幕府の幕臣となります(1866年(慶応2年))。

1867年にはパリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・徳川昭武(とくがわあきたけ・後の水戸徳川家11代当主)の随員としてフランスへ渡航。

パリ万博の視察と同時に、2年近くにもわたり西欧の先進的な産業・軍事などを目のあたりにして大きな刺激を受けるのです。

ところがこの渡欧中、驚天動地の出来事が起こります。

大政奉還です。

大政奉還から明治時代の渋沢栄一

主君であった慶喜が天皇に徳川政権を返上したとの知らせを受け、急遽帰国した渋沢栄一は、駿府(現静岡県)に謹慎していた慶喜と面会、一度は彼のもとで一生を送ろうと考えます。

ところが明治新政府は渋沢栄一の能力とフランスで学んだ知識に目をつけ、彼に大蔵省への入省を要請します。

彼に白羽の矢を立てた人物は大隈重信でした。

大隈の強い働き掛けを受け渋沢は新政府の大蔵省に入省。

そして大蔵官僚として租税・貨幣制度改革などにおいて辣腕を振るうこととなりました(1869年~1873年)。

大隈重信は、佐賀藩士出身で、当時は大蔵大輔(おおくらたいふ・現財務省事務次官)、その後、大蔵卿(おおくらきょう・現財務大臣、大蔵大輔の上位)、外務大臣、農商務大臣などを歴任、1898年(明治31年)と1914年(大正3年)の2度総理大臣を務めています。

現在では早稲田大学の創始者としても有名ですね。

大隈重信の後任として大蔵大輔の任に就いたのが、渋沢栄一の直属の上司であった井上馨でした。

ところが1873年(明治6年)、予算編成を巡って、井上馨は、大久保利通(薩摩藩士出身、初代内務卿、新政府の実質的権力者)や大隈重信と対立、渋沢栄一は井上とともに政府を去ります。

大久保、大隈が近代化(学校など各種施設建設)に必要だとして財源無視の積極財政であったのに対し、井上馨と渋沢栄一は緊縮財政を主張、この対立が二人の下野の理由です。

しかしながら井上馨はこの後、政界に復帰し、1885年(明治18年)の第1次伊藤博文内閣では、外務大臣に就任しています。

この井上外務大臣時代のインバウンド外交を在野の立場で受けたのが渋沢栄一でした。

退官後の渋沢栄一とその晩年

晩年の渋沢栄一と家族のモノクロ写真。

晩年の渋沢栄一(中央)と家族

画像出展:Wikipedia

退官後の渋沢栄一はその後も、あくまで民間人として活躍しました。
渋沢栄一が関わった事業・会社は、明治6年(1873年)に第一国立銀行(現・みずほ銀行)への頭取就任を皮切りに、

東京瓦斯
東京海上保険(現・東京海上日動火災保険)
王子製紙(現・王子ホールディングス、日本製紙)
田園都市(現・東急)
秩父セメント(現・太平洋セメント)
帝国ホテル
上武鉄道(現・秩父鉄道)
京阪電気鉄道
東京株式取引所(現・東京証券取引所)
ジャパン・ブリュワリー(現・キリンホールディングス)
札幌麦酒(現・サッポロホールディングス)
東洋紡績(現・東洋紡)
日本製糖・明治製糖(現・大日本明治製糖)

など

金融・交通・通信・商工業・鉱業・農林水産事業など多種多様な企業設立に関わり、その数は500以上といわれています。

社会事業、慈善活動にも積極的に取り組み、例えば社会福祉事業の先駆となった養育院(現・東京都健康長寿医療センター)初代院長になるなど、同分野でも600もの事業を立ち上げています。

渋沢栄一の思想・原動力とは何だったのか?

城の前に桜が美しく咲いている様子。

これほどの企業・組織をつくりあげた渋沢栄一の思想・原動力は何だったのでしょうか?

彼は、「論語」(儒教)思想に基づく倫理(道徳)ある経済を唱えた人でした(著書「論語と算盤」)。

良く比較される、同時代を生きた三菱財閥の岩崎弥太郎は、才能ある者が経営と資本を支配、自らの財閥構築に向け営利追求に邁進しています。

渋沢栄一はというと、財閥路線とは異なり、自らが経営の主導権をすべて握ろうとせず、非財閥系の株式会社設立に関わり続けた人物でした。

当時はまだ江戸時代の儒教にもとづく身分制度(士農工商)を受けた、「士」の「商」に対する差別感覚が残っており、明治政府高官と政商の癒着もたびたび発生していました。

こうした環境の中で渋沢栄一は在野にありながら「日本を良くしたい」という純粋な願いを持ち、癒着などとは一線を画する稀有な存在であったのです。

各種事業に倫理は必要としながらも渋沢は一方、冷徹な「算盤勘定が必要」だというリアリストの面も兼ね備えた人物でした。

だからこそ彼がかかわった500もの企業や600もの社会事業の多くが現在も(彼の理念を受け継ぎ)継続しているのです。

インバウンド観光へのアプローチも、渋沢栄一がまずは国のため、不平等条約を改正したいと強く願う思いから起こした事業でしたが、そのアプローチは現代にまで続くこととなりました。

3,日本初のインバウンド観光戦略の結果と今に続く渋沢栄一

雷門の観光客たちの様子。人でごった返している。

渋沢栄一による各種施策の成果もあり、1870年代に5000人いた在留外国人は徐々に増え、1890年に1万人を超え、1906年(明治39年)には2万人に近づきました。

入国者数調査(運輸省外客統計年報)の始まった1912年頃からはさらに増加、1930年代には4万人を突破。

1902年(明治35年)の朝日新聞ではインバウンド客を1年で1万人と想定、その経済効果は総額2000万円(現在の貨幣価値に換算すると4000億円程度)という記録もあります。

外貨獲得の効果は確実に出ていました。

現代のインバウンド観光市場は、直近では4.5兆円程度(2018年の訪日外国人旅行消費額)。日本の輸出産業の中では自動車(11兆円)、化学製品(7兆円)に次いで3位とされています。

渋沢栄一が始めたインバウンド観光の成果は、このように現代にまで受け継がれているのです。

渋沢栄一は不平等条約改正のためインバウンド戦略を実践したのですが、そこは「論語と算盤」の渋沢栄一だけあって算盤をしっかりと実践、条約改正と同時に、外貨獲得を成立させていました。

渋沢栄一が導入・構築したインバウンド観光は現代にまで引き継がれ、 現代の年間訪日客3000万人達成にまで到達することができたのです。

渋沢栄一の経済思想はというと、一見すると二律背反とも言える、倫理(道徳・高い志)と経済(企業経営)を両立させるものでした。

弱肉強食の新自由主義的発想(経済思想)がますます蔓延し、そこには倫理・道徳などを無視した手段を選ばない(?)経済方針・企業経営が存在、そのため格差は広がるばかりの流れにあるような気もします。

いまの私たちが渋沢栄一の挑戦に学ぶべきものは多いのではないでしょうか。

※参照

「戦前における日本の国際観光政策に関する基礎的分析」

「観光の環境誌1」

5件のコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


ABOUT US
Guidoor Media 編集部
Guidoor Media編集部は、日本の文化や観光に特化したWebメディアです。日本の文化や歴史、観光地情報、アート、ファッション、食、エンターテインメントなど、幅広いトピックを扱っています。 私たちの使命は、多様な読者に向けて、分かりやすく、楽しく、日本の魅力を発信し、多くの人々に楽しんでいただくことを目指しています。 私たち編集部は、海外在住のライターや、さまざまなバックグラウンドを持つクリエイターが集結しています。専門知識と熱意を持って、世界中の人々に日本の魅力を伝えるために日々努めています。