ナチスドイツからユダヤ人を救った杉原千畝と『シンドラー』とは?(2)

何がシンドラーにユダヤ人救出を決心させたのか?

ポーランド、クラクフのゲットーの様子を写したモノクロ写真。子どもや女性が両手を上げている。

1939年10月、ポーランドへやってきたシンドラーは、まず最初にナチスが没収した元々ユダヤ人が所有していた、落ちぶれたホーロー容器工場を買い取る。

シンドラーは、後に深い友情で結ばれることになるユダヤ系ポーランド人会計士イツァーク・シュテルンの助言を受けながら、闇商売で資産を拡大。

ドイツ軍の厨房用品を製造するなどして急激な成長を遂げた彼の工場は、わずか3カ月で250人のポーランド人労働者を使うようになり、その中には7人のユダヤ人労働者も含まれていた。

シンドラーの工場は1942年末までに、巨大なホーロー容器工場から軍需工場に成長していった。

広大な敷地に800人近い労働者が働いており、その中にはクラクフ・ゲットーのユダヤ人370人もいた。

「ユダヤ人救済」というシンドラーのナチス党政権への抵抗は、イデオロギー的な理由からではなかった。

彼は無力なユダヤ人住民たちに対するナチスの非道に異を唱えたのだ。

シンドラーが行動を起こす契機となったのが、1943年(昭和18年)のクラクフ・ゲットーの解体である。

ゲットーにいたユダヤ人たちはプワシュフ収容所に送られることになったが、ここには残虐非道なサディストとして悪名高いアーモン・ゲートが所長として赴任していた。

クラクフ・プワシュフ収容所に赴任していたアーモン・ゲートのモノクロ写真。

身長192cm、体重120kgの巨漢であったゲートは、すぐにサディスティックな性向を示し始めた。

毎朝狙撃銃で囚人を無差別に撃ち殺し、ロルフとラルフと名付けた2頭の飼い犬の訓練と称してユダヤ人を生きたまま噛み殺させることを日課としていたという。

ゲートに直接殺害された囚人は500人以上にのぼるといわれ、そのため「プワショフの屠殺人」というあだ名をつけられた。

シンドラー自身もナチスの党員であり大儲けを企んで占領下のポーランドにやって来たため、当初は金儲けにしか興味がなかったが、収容所での筆舌に尽くし難い蛮行を目の当たりにし、ついにユダヤ人を救い出すことを決意するのである。

ユダヤ人の頼みの綱「シンドラーのリスト」作成まで

絶滅収容所の外観を写したモノクロ写真。

シンドラーのユダヤ人救済において大きな助けとなったのは、彼の工場が“軍需工場”としてドイツ軍司令部からも認められていたことが挙げられる。

これにより、シンドラーは経済面で大きな利益のある契約を締結出来ただけでなく、人道面でも彼の工場で働くユダヤ人たちが絶滅収容所(※)へ移送される危険が迫った時に、工場の生産ラインに不可欠な人員だと主張することで、子供や大学生を熟練の金属工と称して従業員リストを作成し、ガス室送りから救うことが出来たのである。

これがかの有名な「シンドラーのリスト」である。

(※絶滅収容所とは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ヘウムノ強制収容所、ベウゼツ強制収容所、ルブリン強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所、以上6つの強制収容所を指す言葉)

1件のコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


ABOUT US
Guidoor Media 編集部
Guidoor Media編集部は、日本の文化や観光に特化したWebメディアです。日本の文化や歴史、観光地情報、アート、ファッション、食、エンターテインメントなど、幅広いトピックを扱っています。 私たちの使命は、多様な読者に向けて、分かりやすく、楽しく、日本の魅力を発信し、多くの人々に楽しんでいただくことを目指しています。 私たち編集部は、海外在住のライターや、さまざまなバックグラウンドを持つクリエイターが集結しています。専門知識と熱意を持って、世界中の人々に日本の魅力を伝えるために日々努めています。