明治記念大磯邸園 | 近代日本の歴史を感じるレトロ建築の魅力

「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」の外観。青い芝生の庭と日本式の木造建築の邸宅。

日本の風土や文化が生み出す独自の美意識を体現する、数々の名建築が国内各地に存在します。神奈川県大磯町にある「明治記念大磯邸園」には、レトロな雰囲気漂う歴史的に貴重な邸宅が複数保存されています。建築様式、装飾などと共に、その歴史的な価値から多くの注目を集めています。この記事では、その華麗な外観や内装を始め、魅力的な歴史背景に迫ります。

「政界の奥座敷」の歴史と大磯レトロ建築のノスタルジックな世界

「政界の奥座敷」として知られる、神奈川県の大磯には、数々のレトロな建築物が残っています。その中でも、「明治記念大磯邸園」内にある歴史的な建築物と美しい庭園は特に魅力的です。大磯の歴史や邸宅の特徴に迫りながら、その魅力をご紹介します。

栄華を極めた「政界の奥座敷」 神奈川県大磯町『明治記念大磯邸園』

明治期以降の総理大臣経験者や政財界の重鎮たちの邸宅跡や邸宅を保存している「明治記念大磯邸園」入口の門。

「伊藤博文」─この方の名前は日本人なら一度は聞いたことがありますよね。かつては千円札に肖像画が描かれていた日本の初代内閣総理大臣です。

神奈川県大磯町の国道1号線に面した地域には、明治期より伊藤博文をはじめとして多くの内閣総理大臣経験者や政財界の重鎮などが屋敷や別荘を構えていたことから、大磯は「政界の奥座敷」と呼ばれていました。まさに日本の近現代史や政治史が好きな方にはたまらないエリアですよね。

平成30年(2018)が明治元年(1868)から起算して満150年に当たることを記念して、国が行った明治文化を残す国の取り組み「明治150年」の一環として、「政界の奥座敷」と呼ばれたこの地を「明治記念大磯邸園」として整備を進めています。

明治以降の日本の近代化に功績を遺した「伊藤博文」・「大隈重信」・「陸奥宗光」・「西園寺公望」・「池田成彬」らをはじめとして、彼らと親交があった人物たちの邸宅や別邸などを整備・保存する活動が続けられています。

この取り組みは明治以降の近代化に尽力し、活躍した人物たちの功績を後世に遺すため、歴史的な建物群や緑地を一体的に保存・活用することを目的としています。国土交通省が神奈川県と大磯市と連携して整備を進めており、全面開園は令和5年(2023)を予定しています。

アクセス

最寄り駅:JR東海道線「大磯駅」下車 徒歩15分程度
全面開園にむけ整備中(令和4年12月現在)。建物は修復中のため庭園散策のみが可能となっています。
開園範囲は旧大隈重信別邸・旧古河別邸と陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸の庭園のみ。建物内の見学は現在できません。

「旧滄浪閣(伊藤博文邸跡・旧李王家別邸)」、「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」、「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」は大磯町指定有形文化財に指定されています。

「西園寺公望別邸跡・旧池田成彬」は「大正昭和期の近代名建築(日本建築学会)」と「かながわの建築物100選」に選ばれています。

明治記念大磯邸園」の歴史的価値と海水浴文化の幕開け

相模湾に面した大磯は、温暖な気候と海と山などの景色の素晴らしさから、明治以降の政治家や実業家、文化人の別荘地や療養地として人気を博していました。邸宅では多くの政治家や実業家、文化人が憩い、交流したといいます。

明治記念大磯邸園の見どころの1つは、明治期の政界の中心人物たちゆかりの邸宅や庭園などが保存されていることです。

関東大震災によって倒壊、大破した建物はその後改築されていますが、改築後は往年の姿をよくとどめており、貴重な歴史的建築物として認定されています。

「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」「陸奥宗光別邸・旧古河別邸」などの建築物は改築された「跡地」ではなく、住居や書斎、来賓の応接室などとして実際に使用されていたものが現在も残っており、希少な価値があります。

また、大磯の海や気候を生かし、周辺の自然風景と庭の景観が一体となったつくりの庭園も見事です。四季の移ろいごとに異なる表情を見せてくれます。

「大磯海水浴富士遠景図」という明治後期に描かれた浮世絵。富士山が見える大磯海岸で海水浴を楽しむ着物や当時の水着を着た人々が描かれている。

ではなぜ、政界の奥座敷と呼ばれるほど多くの政界の主要人物が大磯に集まって邸宅や別荘を築いたのでしょうか。

明治時代の神奈川は、西洋文化の窓口として近代化に向けたさまざまな取り組みが行われていた場所でもありました。当時の西洋医学では海水浴が先端治療とされていたことから、医師であり政治家でもあった「松本順」が療養を目的として明治18年(1885)に大磯に海水浴場を開設しました。

こうして日本初の海水浴場、大磯海岸海水浴場が誕生しました。

その後、医療として伝わった海水浴はレジャーへと変わり、大磯にはバカンスで訪れる客も多くなり、別荘はますます増えていきました。さらに東海道新幹線の大磯駅が開業したことで、大磯は別荘地として急速に発展しました。

大磯の別荘数は明治30年(1897)には100戸ほどでしたが、明治末期には170戸、大正10年(1921)には200戸を超えました。

明治41年(1908)には「避暑地百選(日本新聞社主催)」で明治の避暑地第一位に選ばれるほど、大磯は大人気のリゾート地となったのでした。

文明開花の影響を受けたさまざまな建築様式の変化が楽しめる

明治記念大磯邸園のもう1つの見どころは、明治・大正・昭和期のさまざまな時代に建てられたレトロな近代建築や別荘の数々を見られることです。日本の伝統的な和風建築、和風と洋風の建築様式が融合した和洋折衷の建築、本格的な英国風洋館などが保存されています。

明治初期以降は、ヨーロッパやアメリカなどの西洋文化を取り入れる風潮があり、都市部を中心に、江戸時代までの伝統的な生活が変化していきました。 これはのちに「文明開花」と呼ばれ、ガス灯やランプ、コンクリートやレンガ造りの洋風建築が建てられるようになりました。

「明治記念大磯邸園」では、「旧滄浪閣(伊藤博文邸跡・旧李王家別邸)」は和室と洋室を併せ持つ和洋折衷建築で、「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」は日本の茶室をもとにした和風建築、「西園寺公望別邸跡・旧池田成彬邸」は西洋の様式を取り入れた本格的な洋風建築になっています。

旧滄浪閣(伊藤博文邸跡・旧李王家別邸)」 初代首相・伊藤博文の邸宅跡 

旧滄浪閣)」とは?

旧滄浪閣(伊藤博文邸跡・旧李王家別邸)」は、もともとは「伊藤博文」が明治29年(1896)に別邸として建てた屋敷の跡で、1897年からは本邸としてこちらで暮らしていました。「滄浪閣(そうろうかく)」という名前は最初に建てられた際に、伊藤博文によって命名されました。
伊藤博文亡き後、建物は伊藤家と家族ぐるみで親交があった「李王家」に大正10年(1921)に譲られ、彼らの別邸として使用されましたが「滄浪閣」の名前はそのまま受け継がれました。

「李王家」とは、李成桂(太祖)が1392年に朝鮮王位に就いたのに始まり、以降518年にわたって李氏朝鮮王家として続いた一族のこと。1910年の韓国併合でその地位を失い、日本の王公族に転じて皇族に準じる待遇を受けたが、第二次世界大戦後の日本国憲法施行に伴ってその身分を失い、サンフランシスコ平和条約発効後は日本国籍からも離脱した。

昭和26年(1951)には民間企業の西武鉄道が購入し、昭和29 年(1954)〜平成19年(2007)までは「大磯プリンスホテル別館」として営業していました。

伊藤博文とは

日本の初代、第5代、第7代、第10代の内閣総理大臣「伊藤博文」のモノクロ顔写真。

伊藤博文(いとうひろぶみ)(1841~1909 山口県出身)は長州藩(山口県)の下級武士の出身で、日本の最初の内閣総理大臣です。いまだに歴代最年少記録の44歳という若さで総理大臣に就任しました。
総理大臣経験は初代・第5代・第7代・第10代の計4回で、内閣制度や憲法を日本で初めてつくった人物でもあります。

旧滄浪閣──建築様式の移り変わりとまつわるエピソード

伊藤博文時代の滄浪閣は、住居用として使用された和館と来賓の接待室など公的に使用された洋館とで成り立っていましたが、大正12年(1923)の関東大震災により倒壊したため、李王家によって大正15年(1926)に建て直されました。

現在の建物はそのときに再建されたもので、かつて和館と洋館で分かれていた建物はシンメトリックな外観の洋室と和室を併せ持つ和洋折衷建築に変わりました。

「伊藤博文邸跡・旧李王家別邸」の外観。外壁がミントグリーンと白で塗装された和洋折衷の木造邸宅。
現存する旧滄浪閣。砂糖菓子のような色合いと和洋折衷のフォルムが可愛らしい!

白にミントグリーンを合わせた外装がなんともオシャレで、まるで海外の砂糖菓子を思わせるような色使いと三角屋根の外観はメルヘンチックな可愛らしさが溢れています。

庭園には伊藤博文が崇拝する4人(岩倉具視・三条実美・大久保利通・木戸孝允)を祀った四賢堂や熱心な園芸家であった伊藤博文夫人が建てた温室が設置されていましたが、「大磯プリンスホテル別館」として営業していた時に駐車場として整備されたため、今では伊藤博文時代に植えられた松「多行松(たぎょうしょう)」や歴史を感じる古い灯篭などが残されるのみです。
なお、四賢堂は吉田茂邸(現神奈川県立大磯城山公園)に移築されています。

旧滄浪閣(伊藤博文邸跡・旧李王家別邸)は平成20年(2008)11月、大磯町指定有形文化財に指定されました。

「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」大隈重信の面影残る海浜別荘建築

「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」とは

旧大隈重信別邸・旧古河別邸の木造日本建築と雪景色。庭と屋根に雪が積もっている様子。
雪化粧をした旧大隈重信別邸・旧古河別邸 冬ならではの光景

旧大隈重信別邸・旧古河別邸」は明治30年(1897)以前に建てられた建物を大隈重信が明治30年(1897)に購入してリフォームし、別荘として利用していた屋敷です。
明治34年(1901)には陸奥宗光と友好関係にあった実業家・古河市兵衛家(古河財閥創業者)に譲られましたが、大隈が使っていた時代の「神代の間」や「富士の間」など、主な住居部分は建てられた当時の形で残っています。

大隈重信とは

日本の第8代、第17代の内閣総理大臣であり、早稲田大学の創設者「大隈重信」のモノクロ顔写真

大隈重信(おおくましげのぶ)(1838~1922 佐賀県出身)は明治・大正時代の政治家です。伊藤博文が総理大臣のときに外務大臣などに就任した後、第8代、第17代の計2回、内閣総理大臣を務めました。さらに憲政党を結成、日本初の政党内閣を組織しました。また、現在の「早稲田大学」にあたる「東京専門学校」を創設しました。

旧大隈重信別邸・旧古河別邸─建築様式の移り変わりとまつわるエピソード

建物は改築されてはいるものの、大隈重信が書斎として使用していた「神代の間」や、社交家の大隈がよく宴を開いていたと言われる「富士の間」など主要な居宅部分は往時の姿を留めており、大磯が別荘地として最も栄えた時代の海浜別荘建築として貴重な歴史的遺産です。

神代の間」は書斎と寝室の二部屋から成り立っており、大隈が書斎として使っていました。
天井や引き戸には「神代杉」という貴重な杉が使われていることから「神代の間」と呼ばれています。
神代杉とは水中・土中・火山灰などに埋まった状態で長い年月を経過し掘り起こされた杉のことで、茶色〜青黒く変化した色調の独特の渋い風合いが特徴です。木目が細かく、磨くと光沢が出て美しいことから工芸品などに使われます。
神代の間のガラス戸には格子柄の木枠が施されています。

「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」の外観。青い芝生の庭と日本式の木造建築の邸宅。
大隈重信が書斎として使用した「神代の間」外観。
「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」で見られる大隈重信の書斎として使用された和室。
「神代の間」内装。その名の通り、貴重な「神代杉」が使用されている

富士の間」は、社交家だった大隈が客人を招いてよく宴会を開いていたと言われる応接室で、ほぼ全面ガラス戸のため、明るく開放的な空間になっています。

「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」の外観。庭に面している部分がガラス戸の日本式の木造建築の邸宅。
大隈氏が応接室として使用した「富士の間」外観。木造建築は大隈氏の時代のまま残っている
「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」で見られる大隈氏がかつて宴会を開いていた和室。天井にはぼんぼり型のペンダントライト。ガラス戸から外の庭先の松の木が見えている。
「富士の間」内観。ここで大隈氏が多くの客人と宴会を開いていた

中庭を挟んだところには9〜6畳ほどの部屋もあります。ここは大隈の書斎として利用されていたほか、家族や使用人たちの部屋としても使われていたそうです。

和洋折衷式の庭園は古河邸時代の庭がほとんど残っていると考えられており、芝生やツツジが植えられているほか、冬から春先にかけては白梅が、春には花桃が咲き誇ります。

「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」の庭にある白梅の木。5枚咲きの小さな白い花が咲いている。
白梅(冬〜春)
「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」の庭で見られる花桃の木。5枚咲きの小さな白い花が咲いている。
花桃(春)

庭園は邸宅からなだらかに下って大磯の海岸につながっており、海沿いの松林や相模湾などを借景とした設計となっています。

また、庭先には大柄だった大隈が身体を縮めて入浴したと言われている小さな五右衛門風呂が設置されています。

旧大隈重信別邸・旧古河別邸は令和2年(2020)8月、大磯町指定有形文化財に指定されました。

「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」茶室を取り入れた建物と日本庭園 古き良き日本の伝統建築

「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」とは

「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」の外観。日本式の木造建築の邸宅。
「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」外観

陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」は陸奥宗光の病気療養のために別邸として建てられた屋敷跡です。

明治27年(1894)に大磯に土地を購入し、明治29年(1896)に別邸を建築しました。陸奥が亡くなったあとは古河家の養子となった次男・潤吉が譲り受け、古河家の別邸となりました。

陸奥宗光とは

第二次伊藤博文内閣時に外務大臣を務めた「陸奥宗光」のモノクロ顔写真

陸奥宗光(むつむねみつ)(1844~1897 和歌山県出身)は明治時代の政治家です。外交官や、第二次伊藤博文内閣のときの外務大臣を務めました。不平等条約である治外法権の撤廃に尽力した人物です。

陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸─建築様式の移り変わりとまつわるエピソード

「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」の外観。数奇屋(茶室)風の日本の建築様式で建てられた木造の邸宅。
「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」外観(和室側)

陸奥の時代の建物は大正12年(1923)の関東大震災で一部倒壊したため、昭和5年 (1930) に古河家の3代目当主の古河虎之助が現在の建物に再建しました。
改築された際に「聴漁荘」と名付けられ、格子戸の玄関にはその名を書いた扁額が掛けられています。

「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」の格子戸の玄関上に掛けてある扁額。白字で「聴漁荘」と書かれている。

古河虎之助によって再建された建物は、旧陸奥別邸を手本に「数奇屋」という茶室風の日本の建築様式で建てられた木造建築で、シックで洗練された清閑な佇まいです。

「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」の和室。数奇屋(茶室)風につくられている。天井にはぼんぼり型のペンダントライト。
「数寄屋」という茶室をもとにして作られた和室(内装)

庭園は海に向かって配置され、斜面地形を生かした「滝石組」(たきいしぐみと書いて、たきいわぐみと読む)のある日本庭園です。

滝石組」とは、滝をつくるために滝周辺に配置する石組みのこと、または石だけで滝の水が流れ落ちている様子を表現する石組みのことです。陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸の邸園の滝石組みは、後者になります。実際に水は流れていないのに、石の置き方でまるでそこに滝があるように見えるというのが不思議です。
そのほか、鹿威し(ししおどし)も設置されており非常に風情があります。

「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」の日本庭園にあるししおどし。
「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」の日本庭園にある鹿威し

井戸からの流れに沿ってツツジなどが植えられており、広い庭園内を一周しながら植物を鑑賞する「回遊式庭園」のつくりになっています。また、バラ園や果樹園も配置されています。

「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」の日本庭園にあるバラ園。濃いピンクのバラの花が多く咲いている。
「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」の日本庭園にある果樹園で見られる、黄色の柑橘類の実った木。

冬には可憐なピンク色の椿が花盛りを迎え、異なる品種が植えられていることから咲き方や花びらの違いを見比べて楽しむことができます。冬から春先にかけては白梅が開花し、春にはハクモクレンが咲き誇ります。

陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸は令和2年(2020)8月、大磯町指定有形文化財に指定されました。

「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」の日本庭園にある椿の木。花の中心が濃いピンク、全体は薄ピンク色をした椿の花。
椿①
「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」の日本庭園にある椿の花。バラのような花びらをした薄ピンクの花。
椿②
「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」の日本庭園にある鹿威しと白梅。
白梅(冬〜春)
「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」の日本庭園にあるハクモクレンの木。白く大きな縦長の花が上向きに咲いている。
ハクモクレン(春)

「西園寺公望別邸跡・旧池田成彬邸」 本格的な英国風の洋館

「西園寺公望別邸跡・旧池田成彬邸」とは

西園寺公望別邸跡・旧池田成彬邸」は西園寺公望が別邸として建てた屋敷跡です。

西園寺は、伊藤博文の紹介で明治32年(1899)に滄浪閣の西隣に別邸を建築し、大正6年 (1917) に、池田成彬が西園寺から譲り受けました。
滄浪閣の隣に位置することから「隣荘」と名づけられました。

西園寺公望とは

日本の第12代、第14代の内閣総理大臣「西園寺公望」のモノクロ顔写真

西園寺公望(さいおんじきんもち)は公卿(明治維新以前の位の高い貴族)の出身で、明治時代〜昭和時代前期の政治家です。オーストリア、ドイツ、ベルギーなどの駐在公使を務めました。帰国後は、第二次・第三次伊藤博文内閣の時代や第二次松方正義内閣の時代に、外務大臣や文部大臣などに就任しています。その後、第12代、14代の計2回、内閣総理大臣を務めました。西園寺は明治最後の内閣総理大臣となりました。

また、西園寺氏は最後の元老(天皇を補佐し、政策の決定や後継の総理大臣選びに重要な影響力を持った役職の政治家)として、大正末期〜昭和初期にかけて、後継の総理大臣を推薦しました。

池田成彬とは

第14代日本銀行総裁であり、 立命館大学の創設者「池田成彬」のモノクロ顔写真

池田成彬(いけだせいひん/いけだしげあき)は実業家、政治家です。

慶応義塾大学に通い、在学中に渡米して5年間ハーバード大学にも留学しています。昭和13年(1938)に大蔵大臣(現在の財務大臣)と商工大臣(現在の経済産業大臣)を兼任しました。第14代日本銀行総裁でもありました。また、 現在の「立命館大学」にあたる「私塾立命館」を創立しました。

西園寺公望別邸跡・旧池田成彬邸─建築様式の移り変わりとまつわるエピソード

西園寺の時代の建物は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊したため、昭和7年 (1932) に池田が現在の建物に再建しました。
頑丈な鉄筋コンクリート造り (一部木造) で、西洋の生活様式をとり入れた本格的な英国風の洋館になっています。

「西園寺公望別邸跡・旧池田成彬邸」の外観のモノクロ写真。三角屋根や煙突を持つ英国風の洋館。
関東大震災で倒壊した西園寺邸の建物を洋館として再建した池田邸

茶室風の日本の建築様式「数奇屋」で建てられた「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」とは対照的に、池田が建てた邸宅は英国風の本格的洋館となっています。

再建後も間取りなどの改変はなく、洋館の主屋、車庫やポンプ室、門を含めてほとんどが竣工時の姿をとどめています。

庭園は建物にあわせた洋風のつくりとなっており、ツタやヒマラヤスギ、柑橘類などが植えられています。

西園寺公望別邸跡・旧池田成彬邸は「大正昭和期の近代名建築(日本建築学会)」に選定され、また「かながわの建築物100選」にも選定されています。

歴史を感じるレトロ建築を堪能しよう

「明治記念大磯邸園」はいかがでしたでしょうか?日本の伝統的な建築様式で茶室風に建てられた「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」や、昭和期に本格的な洋館で建てられた「西園寺公望別邸跡・旧池田成彬邸」など、建築の特色が出ている邸宅ばかりで、建てられた時代の流行、住んでいた人や建てた人のこだわりや個性、好みの様式が強く反映されているように思われました。

明治記念大磯邸園の邸宅は1ヶ所にあるため、一度で複数の建築を比較することができ、建築様式の違いがよくわかります。

私たちの今にもつながってくる、日本の近代化に向けて尽力した人物たちに想いを馳せながら、明治ハイカラ・大正モダン・昭和レトロのお気に入りの建築を見つけてみてはいかがでしょうか。

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Y2
新人ライターのY2です。趣味は美術展・展覧会巡り、カラオケでストレスを発散することなどです。日本の特に好きなところは、伝統文化とサブカルチャー、どちらも喧嘩することなく共存しているところです。
なかなか日の目を見ないような物・こと・人を見るとつい推したり応援したくなる性分なので、日本のあまり知られていない良さ・隠れた魅力を伝えられたらなと思います。また、伝統工芸品や、素晴らしい日本の文化を未来に残す手助けもできればいいなと思っています。よろしくお願いします…!