言わずと知れた国産ジーンズの発祥地 “岡山県倉敷市児島地区”

風にたなびくジーンズ
児島ジーンズストリートの様子。選択紐が家屋と家屋の間に繋がれていて、デニムが9本つるされていて美しい太陽が輝いている。まるで鯉のぼりのようなジーンズの様子。
参照:倉敷市観光課

スーパーで買い物をする際、意外と日本人が気にしているのは価格だけではなく「国産(メイドインジャパン)かどうか」という視点だそうです。

確かに同じ価格で国産と外国産のものがあったら、迷わず国産を選んでしまうという人も多いのではないでしょうか。

市場、またはスーパーマーケットの青果コーナー。カラフルな野菜や果物が美しく並べられている。
参照:ODAN

もしかすると私たちは、気付かぬうちに国産という響きに信頼を寄せているのかもしれません。

ではファッションにおいて「国産」を意識したことがある人は、どのくらいいるのでしょうか?

児島ジーンズストリートのオブジェ。児島ジーンズストリートはこちらですというデニムの青色の看板の上にジーンズがまるで一歩踏み出しているかのようなオブジェが乗っている。
参照:倉敷市観光課

実はファッション界においても、ジャパンクオリティは日本国内だけでなく海外から見ても高い評価を得ているのです。

その代表格の一つが「ジーンズ」(デニム生地を使ったパンツ)。

国産ジーンズの発祥地が“岡山県倉敷市児島”であることは、ジーンズ愛好家の中では、今や広く知られています。

何故児島=ジーンズの街になったのか、歴史を辿りながら紐解いていきましょう。

“米が作れないなら綿を栽培しよう!”逆境をチャンスに変えた児島の歴史

両手で土を目一杯すくっている白黒写真
参照:ODAN

現在の岡山県倉敷市児島は、奈良時代にはまだ瀬戸内海に浮かぶ島の一つでした。

このことは日本最古の歴史書「古事記」にも記されています。

瀬戸内のちょうど中ほどに位置していた児島は、当時四国や西国との交通上の重要拠点でした。

その後、時代は流れ、江戸時代に入ると、国力増強を図る組織的な新田開発が進み、児島も干拓が行われ、陸続きの「児島半島」となりました。

ふわふわの白い綿花がたくさんテーブルの上に並べられている
参照:ODAN

しかしながら、海に浮かぶ島だったこともあり、児島の土は塩を多く含み、米作には大変不向きだということが判明しました。

そこで、ガラッと発想を変え、塩分に強い綿を植えたところ…大当たり!!!

児島の雨が少なく温暖な気候も綿栽培には最適だったのも相まって、これを機に、古くから有名な三河木綿に並ぶ高級品として児島の綿が知られるようになりました。

足袋から学生服…そしてジーンズへ“進化する児島の木綿織業”

時代の流れと共に逆境に屈せず進化を遂げてきた児島の木綿織業について見ていきましょう。

江戸 ~旅人の口コミナンバー1の「真田紐」~

古い家屋の庭。灯篭と部屋の明かりが温かい光を放っていて趣深い様子
参照:Guidoor スタッフ撮影

児島の木綿織業は時代とともに目覚ましい発展を遂げていきます。発端は江戸時代後期。

刀の下げ緒や下駄の鼻緒に使われる「真田紐」の生産が始まり、当時大変盛んだった両参り(金毘羅宮と由加神社本宮とを両方参拝すること)で訪れた旅人が土産として全国に広め、瞬く間にその名が知られていきました。

明治 ~1000万足の「足袋」で日本一に!~

畳の上に5足の足袋が並んでいる。白黒写真。
参照:ODAN

明治に入ると、帯刀禁止令が発せられた影響もあり、真田紐の需要が徐々に減っていきます。

しかしここで産業を途絶えさせないのが、児島の凄さです。

明治15年に日本で民間初の紡績所下村紡績所が創設されると、繊維産業がさらに地域の発展に大きな影響を与えていきます。

ヨーロッパから輸入された動力ミシンによって大量生産が可能になり、当時の人々に欠かせない「足袋」が児島の新たな木綿織業の主軸になっていきます。

1919年には、とうとう足袋の生産量は1000万足を超えて、児島は足袋で“日本一”になります。

大正⇒昭和前期 ~元祖「学生服」を生んだ街~

セピア色の写真。川に小舟が一艘止まっている。
参照:Guidoor スタッフ撮影

ところが第一次世界大戦後、足袋もまた、人々の生活が目まぐるしく変わり、洋装が一般化していく中で、残念ながら衰退の一途をたどっていきます。

やがて足袋に代わって、次に児島の産業を支えたのが、いわゆる「学ラン」で知られる「学生服」でした。

足踏みミシンの導入により、始まった学生服の生産は洋風文化が加速する日本の大きな波に乗り、太平洋戦争中の生産縮小も乗り越え、東京オリンピックを翌年に控える1963年には1006万着という史上最高の生産記録を叩き出しました。

昭和後期⇒平成 ~古着から見出した「ジャパンクオリティ」~

奈良時代から現代に至るまでの岡山ジーンズの歴史を大まかにまとめた年表

学生服や作業服など、高度経済成長期の日本を支えるものを次々と生み出した児島は、常に時代や文化の流れに敏感で、今まで数々の方向転換で木綿織物業を守ってきました。

そしてこの時すでに、学生服の需要減少を真摯に受け止め児島の人々は、東京オリンピックを契機に新しいものを…とアイデアを巡らせます。

そんな中、戦後、目にしてきた米軍古着の中に、数多く紛れていた日本人になじみの深い「藍色」(ジャパンブルー)のズボン、「ジーンズ」が目に留まります。

今まで「足袋」「学生服」で培った裁断・縫製技術を最大限に生かし、「自分たちにもオリジナルのジーンズが作れるのではないだろうか」この想いが、倉敷市児島の国産ジーンズの歴史の始まりとなったのです。

日本ならではのジーンズを自分たちの手で「国産ジーンズ」誕生の軌跡

黄色い外壁に緑の窓の家にジーンズが5本干されている。
参照:ODAN

まず国産ジーンズの先駆者となったのは、児島の服飾メーカー・マルオ被服(現在の株式会社ビッグジョン)でした。

1965年、マルオ被服は今までの学生服や作業服づくりのノウハウを駆使し、アメリカから輸入したデニム生地を使って縫製し、国産初の「ジーンズ」を生み出しました。

ヒッピーファッションに身を包みおでこにバンダナを巻き、サングラスをかけ、壁にもたれかかる美しい女性の写真
参照:ODAN

その後もマルオ被服は、当時若者に大流行したヒッピーファッションの代表ともいえる「ベルボトム」や日本初のカラージーンズ等、次々とジーンズブームを巻き起こしていきます。

そんな中、輸入した生地ではなく、デニム地自体も国産のものを作れないのだろうかという開発も行われていました。

しかし、当時の日本には学生服の2倍の厚みのデニム地を織る機械は存在せず、開発はハードルの高いものでした。

濃いインディゴブルーのデニム生地のアップ写真
参照:ODAN

それでもやはり、モノづくりに情熱を捧げる日本人ならではの努力で、1973年倉敷紡績(クラボウ)が日本初の国産デニム地の開発に成功し、純国産デニムが生まれたのです。

こうして生地から縫製に至るまで全てが日本クオリティの「ジーンズ」が作られるようになり、国内外で岡山県倉敷市児島が名実ともに日本を代表するジーンズの産地に発展していきました。

海外でも大人気の“国産ジーンズ” 愛好家をうならせるポイントは?

綺麗に折りたたまれたインディゴブルーのデニムが高く積み重なっている
参照:ODAN

さてジーンズといえば、生みの親LEVI’Sを筆頭に、アメリカデニム御三家のLeeやWranglerのように古くから愛されるブランドや、DIESELのように若者に人気のブランドなど、世界中に数多くブランドが存在することは皆さんもご存知だと思います。

それでも、岡山県産のデニム地はジーンズ愛好家を魅了するだけでなく、CHANELやGUCCIなど高級ブランドや話題のヨーロッパブランドDENHAMのジーンズ製品にも採用されている実績があるのです。

ここでは3つのキーワードとともに国内外で愛されるジャパンクオリティのジーンズの秘密に迫ってみようと思います。

ジャパンクオリティキーワード① 「圧倒的な技術力」

見紙アンライトがついていて、ミシンの針の部分がアップに映っている写真
参照:ODAN

国産ジーンズは、熟練した職人の手によって一つ一つ手作業で作られています。近年ファストファッションが定着し、機械による大量生産が多く無個性なジーンズが多い中で、手作りの縫製・加工は他と比べても圧倒的な個性が出るとても重要なポイントです。

職人たちがそれぞれの持ち味を、ジーンズづくりの各工程で発揮していくことで、ジャパンクオリティが生まれています。

▼独自のパターンで美しいラインを実現

パターンを行うときに使用する、メジャー、鋏、待ち針、布が置いてある写真
参照:ODAN

児島のパタンナー(デザインを型紙に起こす人)は、体系に合った美シルエットが生まれるように、ジーンズを徹底研究しています。

ブランドによっては一人ひとり採寸から行い、オリジナルパターンを用いた世界に一つだけのオーダーメイドデニムを手に入れることもできます。

▼歴史を積み重ねて生まれた縫製技術

ほっそりとしたスキニーデニムを履き、黒い革靴を履いた足が天井に向かって伸びている写真
参照:ODAN

縫製においては今まで数々の綿産業を発展してきた独自のノウハウを生かしながら、正確で緻密なミシンワークで完璧な縫製が行われています。

中にはあえてよじれやねじれにこだわりたいジーニストもいるので、ヴィンテージジーンズに使われていた特別なミシンで縫製を行っている会社もあります。

▼世界初のジーンズ加工

ベティスミス・ジーンズ・ミュージアムの店内の様子。デニムがたくさん並んでいる。
参照:倉敷市観光課

ジーンズの加工には様々な手法が用いられています。

例えば個性のあるアタリ(色落ち)を出すために形がばらばらの軽石と一緒に洗う(ストーンウォッシュ)、履きこんだようなひげを出す(シェービング加工)、クラッシュやダメージを入れる加工等、職人の手で独特な風合いを細かく全体のバランスを考えながら作っていきます。

児島はジーンズに世界で初めて加工を施したことでも知られていて、その加工技術はトップクラスです。

ジャパンクオリティキーワード② 「こだわり抜いた素材」

ジャパンクオリティと呼ばれる所以は、ジーンズに使われるそれぞれの素材にも秘密が隠されていました。

▼海外からも愛される「ジャパンブルー」

ジャパンブルーと呼ばれる藍色の絵の具が白色に溶けていく様子の写真
参照:ODAN

ジーンズというと「青」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

ジャパンブルーに代表される「藍染め」は何度も何度も染めを繰り返すことで、青が深まり、その段階に応じて色の濃さが楽しめるのが特徴です。

ジャパンブルーは「児島ブルー」いう異名を持つほどで、この独特の青を用いたジーンズも人気の一つになっています。

自然な藍色からできる濃紺のジーンズを筆頭に、合成インディゴと融合させたジーンズなど(通常合成インディゴは色落ちしやすい性質の為、ジーンズ独特の色落ち=味を出すのに適している)特別な1本を生み出しています。

▼糸1本にもこだわりを

虹色のようなカラフルな糸が並んでいる様子
参照:ODAN

児島のジーンズは、綿糸を使って縫製されています。

ポリエステルの糸だと糸だけが浮いてしまったような縫製になってしまうというデメリットがあるからです。

ブランドによって、太めの糸を使ったり、カラーステッチを施したり、細かい部分にも気を配っているのはまさにジャパンクオリティです。

ジャパンクオリティキーワード③ 「愛着の増すアフターフォロー」

ベティスミス・ジーンズ・ミュージアムの店内の様子。レトロなアメリカっぽい人形が飾られていて、デニムも並べられている様子。
参照:倉敷市観光課

「こんなものまで修理するの?」と外国人から驚かれることが多いくらい、日本人の美徳として、古くから物を大切にするという文化があります。

もちろんジーンズもしかり。

履いていくうちにほころんできた部分や気になる箇所はメンテナンスをして、また更に長く愛用してもらえるようにメーカーで修理を行うブランドが数多くあるのも、国産ジーンズの魅力です。

デニムのプロの手によってまた再生するジーンズにさらに愛着が湧くジーニストも多いようです。

職人技を体験! ジャパンクオリティに触れる

ここまで児島のジーンズを余すところなくご紹介してきましたが、最後にこのこだわりのジーンズを自らの手で創り上げることができるとっておきの体験スポットをご紹介します。

▼「ベティスミス・ジーンズ ミュージアム」でデニムづくり体験

ベティスミス・ジーンズ・ミュージアム外観。ログハウス風の木造の建物。
参照:倉敷市観光課

職人技を自ら体験できる日本初のジーンズの博物館「ベティスミス・ジーンズ ミュージアム」。

このミュージアムでは、日本で初めてジーンズが作られた当時に使用していたミシンなどのジーンズに関わる貴重な資料が展示されているだけでなく、職人と同じ機械を使って、ジーンズづくりの一部を体験することができます。

縫製工程までできたジーンズを購入し、好きなパーツを選び、オリジナルジーンズに自らの手で仕上げていくことができる貴重な体験施設です。

ベティスミス・ジーンズ・ミュージアムの内観。オリジナルジーンズをつくるための釦がカラフルに並んでいる様子。
参照:倉敷市観光課

世界に一つのオリジナルジーンズを作って、ジャパンクオリティを体感してみるのも、きっと旅の素敵な思い出の一つになるのではないでしょうか?

公式WEB:ベティスミス・ジーンズ ミュージアム

住所:岡山県倉敷市児島下の町5丁目2番70号
TEL:086-473-4460
営業時間 / 9:30〜17:00
休館日 / 年末年始

執筆:Honami

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