日本の歴史上には仲の良い兄弟姉妹、またそれとは逆に仲の悪い兄弟姉妹と複雑な物語が数多く残っています。育った環境などによってさまざまな兄弟姉妹関係というものはあると思います。
日本の歴史を振り返ってみると、いろいろな形の「兄弟愛」「兄弟憎悪」というものが出てきます。政治が絡んでくる場合、残念ながら多くが「憎悪」という形で残されています。
隣国中国でもいくつか例があります。
例えば中国史上最高の名君と呼ばれる唐の太宗は皇太子である兄を殺して即位しています。同じように名君として知られる宋の太宗も帝位にあった兄を殺して即位したのではないかといわれています。
今回は日本における「兄弟憎悪」の関係をいくつか紹介したいと思います。
筆者がこれまでに掲載したコラムにも「兄弟」が関連するものが他にもあります。よろしかったらそちらもご一読いただければ幸いです。(日本史上最悪だった男~足利尊氏)
天智天皇と天武天皇の兄弟関係
大化の改新で活躍した中大兄皇子と大海人皇子
即位前は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と呼ばれた天智天皇(てんじてんのう)は乙巳(いっし)の変で朝廷において権勢を誇っていた蘇我(そが)氏を打倒し、いわゆる大化の改新を推し進めた人物です。
その同母弟に大海人皇子(おおあまのおうじ)と呼ばれた人物がいました。幼い頃から兄に従って行動しており、兄弟仲は良かったものと思われます。
兄が即位するとこの弟は皇太弟(こうたいてい、つまり次期天皇の筆頭候補者)となります。これが事実であったかは不明ですが、非常に重要な位置にいたことは間違いなさそうです。
また天智天皇は自分の娘を4人も大海人皇子に嫁がせています。(このうち一人は持統天皇(じとうてんのう)として後に即位することになります。)
つまり大海人皇子は優秀な人物で、兄の治世を輔佐していたのではないかと考えられます。
兄天智天皇の死と壬申の乱
しかし天智天皇は徐々に弟と距離を置きはじめます。自分の子である大友皇子(おおともおうじ)に皇位を継承させたかったのでしょう。
天智天皇は自らの死期が近いことを悟ると、大友皇子を太政大臣(だじょうだいじん)に任じて自分の代わりに政務を執らせるようになります。
そして死の間際、天智天皇は大海人皇子に皇位を譲ろうとします。しかしこれを受けることが身の危険を招くことを疑った弟は、この申し出を辞退して吉野に去り出家しました。
天智天皇が崩御すると大友皇子が弘文天皇(こうぶんてんのう)として即位します。
しかしこの翌年大海人皇子は兵を挙げ、弘文天皇を攻め自害に追い込みます。壬申(じんしん)の乱です。この結果大海人皇子が即位して天武天皇(てんむてんのう)となります。
なぜ大海人皇子は甥である弘文天皇を滅ぼしたのでしょうか?
兄・天智天皇に対する弟・天武天皇の不満
上述の通り、いつしか天智天皇は自分の息子に皇位を継承させるべく弟と距離を取りました。これが将来を約束されていた可能性のある弟には不満だったのではないでしょうか。
天武天皇を後押しした群臣の支持
天武天皇は長らく兄を輔佐する立場でしたから、朝廷の官僚たちの人心を掌握していたのではないでしょうか。
そして官僚の多くも若くて未知数の弘文天皇より気心の知れた天武天皇の下で働きたいというような欲求があり、強力に後押しをしたものと考えられます。
事実、乱における天武天皇の動きに協力する者は多く、多数の兵を集めることに成功しています。
絶世の美女・額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐる兄弟の三角関係?
額田王(ぬかたのおおきみ)は『万葉集』にも歌が掲載されている才智豊かな女性で、絶世の美女であったといわれています。
額田王は大海人皇子に嫁いだのですが、天智天皇が彼女を見初めたため三角関係にあった、という説があります。
もしそうだとしたら十分兄弟対立の種にはなったのではないかと思いますが、真相は不明です。
天武天皇即位からその後の皇室
天武天皇は即位すると自ら政務を執り、後の律令制導入の基盤を築きました。そして弘文天皇以外の兄の子を粛清することはありませんでした。
天武天皇の系統は数代で絶え、再び天智天皇の系統(弘文天皇とは別の皇子の子)が光仁天皇(こうにんてんのう)として即位して現在に至ります。
源頼朝と義経兄弟の対立
河内源氏の兄弟源頼朝と源義経
源頼朝(みなもとのよりとも)と源義経(よしつね)は異母兄弟にあたります。彼らの父は源義朝(よしとも)です。
頼朝は義朝の三男ですが、母方の血筋が良かったため早くから後継者として遇されていました。しかし父義朝は平治(へいじ)の乱に敗れて関東へ落ち延びる途中で殺され、頼朝も捕らえられて京都に送られてしまいます。
頼朝は命こそ救われるものの、伊豆に送られ平氏の監視下での生活を送ることになります。
兄・源頼朝の挙兵
こうして伊豆に流刑となった源頼朝ですが、都での平家の横暴が高まると機に乗じて挙兵します。
一度は石橋山の戦いで敗北を喫するものの、房総半島に逃げそこで勢力を回復した頼朝は関東から平氏の勢力を一掃し、基盤を固めます。
そこに現れたのが面識のなかった弟、源義経です。
源氏兄弟頼朝と義経の出会い
源義経は京で生まれ、頼朝同様父の罪によって鞍馬寺(くらまでら)に預けられていました。義経は成長すると寺を逃げだし、陸奥の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に保護されました。(奥州藤原氏についてはこちら:【世界遺産】奥州藤原氏と黄金の都平泉もどうぞ。)
その後兄頼朝の挙兵を知ると供回りの者とともに鎌倉に下向して、初の対面を果たします。
頼朝は別の弟範頼と義経に遠征軍の指揮を委ね、自らは東国に留まり基盤強化を進めます。
兄弟で源義仲を討伐する
源頼朝が関東で着々と地盤を固めている頃、同じ源氏の源義仲(よしなか)が平家を追い出し都を占領していました。
当初こそ義仲は歓迎されたものの、次第に朝廷で権力を握る後白河法皇(ごしらかわほうおう)と対立するようになります。
後白河法皇は義仲の討伐を頼朝に命じ、それを受けた頼朝は義経に兵を委ね都に進軍させます。
義経は義仲を打ち破ると西国において勢力を回復しつつあった平氏を奇襲で破りました。(一ノ谷の戦い)
源氏兄弟の仲違いの原因と平氏滅亡
順風満帆のようにみえた源氏兄弟ですが、兄弟の間には隙間が生まれてしまいます。
源頼朝と義経の仲違いの原因は、義経が頼朝からの許可なく朝廷(後白河法皇)から検非違使(けびいし)の官位を受けたためといわれています。
これにより範頼が兵を率いて平氏との戦いを進めていたのですが、戦況は芳しくなかったため、やむなく頼朝は義経を起用します。
義経はそれに応えて屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに勝利して平氏を滅ぼしました。
源義経が兄頼朝に送った「腰越状」とは
源義経が兄頼朝に許しを乞うために送った有名な書状「腰越状」(こしごえじょう)の逸話があります。
平氏を滅ぼした源義経でしたが、頼朝の側近で自分の軍監(監視者)でもあった梶原景時(かじわらかげとき)と激しく対立してしまいます。
景時は義経に独断専行が多いことや手柄を独り占めにしようとしていることなどを頼朝に書状で訴えました。義経に対して不信の念を抱いていた頼朝はこの報告に激怒し、鎌倉へ帰還することを禁止します。
これは梶原景時による讒言(ざんげん)であるとされていますが、全てがそうだったとは言い切れないようです。
また源頼朝は壇ノ浦の戦いで入水してしまった安徳(あんとく)天皇を助けることで、後白河法皇に対抗しようとしていました。しかし義経がそこまで安徳天皇を追い込んでしまったことに不満があったともいわれています。
源義経は頼朝の怒りを解くべく鎌倉に赴きますが、頼朝は義経との面会を許さず腰越(現神奈川県鎌倉市)の満福寺(まんぷくじ)に留め置かれます。
このとき義経が頼朝に送ったのが「腰越状」と呼ばれる許しを乞う有名な手紙です。
しかしそれでもなお頼朝は義経を許さなかったため対面は叶わず、これを恨んで義経は都に戻ってしまいます。
頼朝VS義経 骨肉の争いを繰り広げる源氏兄弟
源頼朝は都に戻った義経に刺客を送り込みますが、失敗に終わります。
この仕打ちに対して義経は後白河法皇から頼朝討伐の院宣(いんぜん、法皇の命令書)を得て兵を挙げます。しかし兵は集まらず、今度は逆に頼朝が後白河法皇に圧力をかけ義経討伐の院宣を得てしまいます。
これによって一気に窮地に立たされた義経は都から脱出し、全国を逃げ回ることになります。この間頼朝は義経討伐のために全国に守護・地頭を頼朝の手で設置することを認めさせます。(1185年)
この守護・地頭の設置を認められたタイミングをもって鎌倉幕府が成立したと現在学校では教えられています。(昔は頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年と教えられましたが。)
そして追い込まれた義経は、かつての庇護者藤原秀衡の下に逃げ込みました。
頼朝と義経 源氏兄弟の争いの勝者は?
藤原秀衡は気骨ある人物で義経を引き渡せと言ってくる源頼朝に対して、のらりくらりとこれをかわしていました。頼朝も奥州の覇者である秀衡の実力を警戒して、なかなか手出しをできずにいました。
しかし義経が逃げ込んでしばらくすると秀衡がこの世を去ります。
これを好機と見た頼朝は後を継いだ泰衡(やすひら)に圧力をかけます。泰衡はこれに屈して義経を衣川で討ち取り、その首を頼朝に送りました。
こうして源頼朝と義経による「兄弟喧嘩」は終止符が打たれますが、そもそもなぜ頼朝はここまで義経に対して厳しい態度を取ったのでしょうか?
兄頼朝を軽視した義経の行動
源義経が朝廷から頼朝の許可なく勝手に官位を受けたり、自分の命を受けた軍監と対立したりすることは頼朝の威信にかかわる問題でした。
頼朝はたとえ実の弟であっても自分の統制下にあることを周囲に示さなければならない事情がありました。
なぜなら頼朝は流人であり、自分が名門河内源氏の嫡流であること以外には何も持ち合わせていませんでした。
そのような中で主将として振る舞うためには、公平であることが絶対的に要求されています。それは弟とて例外ではありません。むしろ弟だからこそより厳しくしなければならないと考えていたのかもしれません。
そうしなければ頼朝の地位は簡単に崩れかねなかったのです。
大功を立てすぎた弟義経
平氏との一連の戦いにおける源義経の功は巨大なものでした。となると頼朝は義経に大きな褒賞を与えなければなりませんが、それは他の武将の嫉妬や不公平感を醸成してしまいます。
また義経の戦上手ぶりは武将たちの心を頼朝ではなく義経に対して惹きつけるおそれもありました。
歴史上「主を凌ぐ功を挙げた者」の存在は主にとって嫉妬や警戒の対象であり、これも頼朝の地位を脅かすものです。
源頼朝と後白河法皇との潜在的対立
東国で独自の政権樹立を目指す源頼朝にとって、都にいる後白河法皇は自らの権威の後ろ盾ではある一方、武士を争わせて勢力を削ごうとする法皇を「日本一の大天狗」と呼んで警戒していました。
後白河法皇は義経を取り込むことで自分の権威の確立と頼朝の動きをけん制しようとしていました。
これもまた頼朝の地位や構想を危うくするものです。
中国の歴史書『史記』の「越世家」に次のような一説があります。
狡兎死して良狗煮られ、飛鳥尽きて良弓蔵る(こうとししてりょうくにられ、あすかつきてりょうきゅうかくる)
意訳:すばしこい兎がいなくなれば猟犬も人に食われてしまい、空を飛ぶ鳥がいなくなれば弓は蔵にしまわれてしまう。
つまり戦争のときに役に立った武将も平和になればもはや不要になる、むしろ却って危険な目で見られることになる、といった意味です。
義経がもっと慎ましい態度を取っていたら、源氏兄弟の争いもなく、また違う結末があったのかもしれません…。
「源義経伝説」 義経とチンギスハンは同一人物?
この頼朝、義経の源氏兄弟に関する話題の最後に「源義経伝説」について触れておきたいと思います。
義経は衣川を脱出して、蝦夷(えぞ)地(現北海道)に渡って生き延びた。さらにそこから中国大陸に渡ってチンギスハン(チンギス・ハーンまたはチンギス・カンとも)になったといわれるものです。
北海道には義経がこの場所に立ち寄ったなどといわれる場所がいくつかありますが、実証できるものは今のところ何もないようです。
ましてやチンギスハンになったというのは荒唐無稽といわざるを得ません。
しかし『判官びいき』「判官(はんがん、ほうがん)とは検非違使(けびいし)のことで、義経を指しています」という言葉があるように悲劇のヒーローとしての義経の人気は日本人に好まれ続けています。
織田信長と信行 戦国の兄弟の戦い
「うつけ」な兄織田信長と「品行方正」な弟信行
織田信長(おだのぶなが)と信行(のぶゆき)は、同母兄弟で父は信秀(のぶひで)です。この二人が幼少時代どのような仲であったのかはわかりません。
信秀は尾張で勢力を伸ばしていましたが、その途中で急死してしまったため嫡男の信長が後を継ぎます。
しかし織田信長は幼少の頃より奇行が目立っていたため、家臣の間には礼儀正しい弟信行を推す派もありました。信長が父の葬儀で位牌に抹香を投げつけたという話は有名です。
父信秀逝去後はその領地を信長と信行がそれぞれ城を持ち、共同統治をしていたといわれています。
陰で家臣たちから「うつけ者」と陰口を叩かれていた兄信長と品行方正な弟信行。織田家の重臣でも林秀貞(はやしひでさだ)や柴田勝家(しばたかついえ)らは信長を廃して信行を家督の座につけようと画策していました。
対立を深める織田兄弟
先述のとおりこの時点ではまだ尾張は統一されておらず、他に織田家の一門が数家割拠しており、それらとは敵対関係にありました。このような複雑な状況が織田信長と信行の二人の兄弟を激しい対立関係へと進ませてしまいます。
そのような中で織田信行が「弾正忠」(だんじょうちゅう)を名乗ります。これは父信秀が朝廷から与えられた官職名であり、それを名乗るということは自分が信秀の後を継いだといっているようなものです。
当然信長は怒ったことでしょう。こうしてこの織田兄弟の対決は不可避のものとなっていきました。
織田の兄弟争いはいよいよ「稲生(いのう)の戦い」へ
織田信長とその弟信行の兄弟による争いは、いよいよ「稲生の戦い(いのうのたたかい)」勃発へと進みます。(稲生合戦、稲生原合戦とも呼ばれる)
この頃東からは駿河国及び遠江国の今川義元(いまがわよしもと)の勢力が尾張に迫り大きな脅威となります。また一方では、織田信長の舅で美濃の蝮(マムシ)とも呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん)が息子義龍(よしたつ)に討たれてしまい、信長は窮地に追い込まれていました。
この機を見計らったかのように信行は兵を挙げ、ついに信長信行の兄弟両者は激突します。
信長軍の兵は700名程度だったのに対し、信行軍はその倍以上の兵力であるうえ、織田家きっての戦上手である柴田勝家がいるとあって信長軍は大苦戦に陥ります。
しかし信長が前線に立ち大声で怒声を浴びせると、敵兵はひるみ戦局は一挙に逆転します。
そして信行は母親のとりなしによって降伏し、一命を取り留めます。信行を支持した家臣たちも信長に忠誠を誓って多くの者が許され、配下に戻りました。
織田信行の謀反と密告
一度ひびが入ってしまった人間関係の修復は難しいものです。
織田信行は許された後に再び謀反を企てます。しかしこの動きを信長に密告した者がいました。それはなんとかつて信行を主と仰いだ柴田勝家でした。
おそらく信行から勝家に誘いがあったのでしょう。これは信長に忠誠を誓い、その激しい性格を知る勝家にとっては迷惑千万なものでした。
これを聞いた信長は弟を亡き者にするため、いよいよ弟殺しを決意します。
織田信長、弟信行を暗殺する
織田信長は仮病を装い、見舞いのために信長のもとを訪れた信行をついに暗殺します。
弟殺しによって脅威を一つ排除した信長はこの後尾張一国をほぼ手中にし、今川義元との桶狭間の戦いを経て天下統一へと邁進します。
織田兄弟の争いと関係者たちのその後
織田信行の嫡子は許され後に織田(津田)信澄(のぶずみ)と名乗り、信長配下の将として活躍します。しかし信澄は明智光秀の娘婿であったため、本能寺の変への関与を疑われ暗殺されてしまいます。
ちなみに当初信行を支持していた二人の武将にもそれぞれの運命があります。
柴田勝家は織田家きっての猛将として信長から重用され、筆頭家老の地位にあったといわれます。
もう一人の林秀貞も織田家重臣として活躍しますが、後に信長から家中追放を申し渡されます。そのときの理由の一つに信行を擁立しようとしたことが挙げられていました。
徳川家光と忠長 将軍家兄弟の確執
徳川将軍家に生まれた二人の兄弟
江戸幕府三代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)と同母弟忠長(ただなが)の父は二代将軍秀忠(ひでただ)、母は織田信長の姪にあたるお江(ごう)の方です。
幼少の頃より病弱で、内気な兄竹千代(たけちよ、家光の幼名)に対して、弟国松(くにまつ、忠長の幼名)は活発で両親の愛は弟国松に注がれたといわれています。
こうなると国松が将来の将軍ではないかと色目を使う家臣たちも現れ、この幼い兄弟の間にはただならぬ緊張感があったかもしれません。
大御所・徳川家康に直訴する乳母「春日局」
この状況に強い危機感を抱いたのが竹千代の乳母春日局(かすがのつぼね)です。
彼女はこの状況を駿府(現静岡市)にいた竹千代たちの祖父にあたる徳川家康に直訴します。家康は将軍職こそ息子秀忠に譲ったものの、「大御所」と呼ばれ依然として幕府の実権を握っていました。
春日局の訴えに動かされた家康は江戸城に行き、竹千代、国松二人の孫のもとを訪ねます。
そして菓子をやるから自分の側近くに来るように竹千代を呼びます。このとき国松も一緒に側近く寄ろうとすると家康はこれを一喝します。そして兄である竹千代にまず菓子をやり、そののちに国松に与え、兄と弟の序列を明確にしました。
これが決定打となって竹千代が後継者になったといわれています。ただしこれは後世伝えられる話であり、真実かどうかは不明です。
しかし徳川家康が作りたい安定した世の中を思うと、何らかの形で跡目相続について家康が介入して兄を推したことは容易に想像できます。
戦国時代まで日本は長子相続というものが必ずしも原則ではありませんでした。家督相続には争いがつきものです。この争いの芽を早めに刈り取るために将軍家に範を示させたのかもしれません。
将軍になった兄家光と一大名になった弟忠長
徳川家康が世を去ってから数年後、秀忠は将軍の位を家光に継がせて自分は隠居します。
そして既に甲斐(現山梨県)に領地を与えられていた忠長は駿河・遠江(現静岡県)にも領地を与えられ、55万石を領有する大名になりました。
父秀忠に疎まれてしまった弟忠長
まだ徳川忠長が元服する前、鴨を鉄砲で撃ってその肉で父秀忠をもてなしました。
最初は喜んでいた秀忠ですが、その鴨を江戸城内の兄家光の住んでいる地区で狩ったことを知ると、
「江戸城内は父家康が築いた神聖な場所であるうえ、兄の住むところで狩りをするのは兄に対する反逆にも等しい。」
と激怒し、その食事の途中で退出してしまいました。
また忠長が大名になったとき、「100万石の大名になりたい。」「大坂城が欲しい。」などと言って秀忠を呆れさせたともいわれています。
こうしたことから忠長は次第に父から疎まれ、兄家光からも心底を疑われるようになってしまいます。しかしそれでも忠長は身の危険を理解していませんでした。
狂人と恐れられた徳川忠長の暴虐な振る舞い
これくらいのことなら身内のこととして片付けることもできますが、その行いが世間に知られればただでは済みません。
あるとき徳川忠長は大井川に橋を架けました。しかし大井川は防衛上の重要な拠点であるため、将軍の許可が必要でした。しかし忠長は許可を得ずに工事をしたため、家光の不興を買ってしまいます。
またあるときは神社の領域で狩りを行う(もちろん神社は神聖な場所ですから殺生は禁止されています)といった乱行が目立つようになります。
さらには酒に酔って側に仕える者を切り捨てたり、些細なことで小姓を切り捨てたりしています。忠長の所業は荒れる一方であり、これらのことは世間の知ることとなっていました。
弟忠長のすることに我慢をしていた家光もついに堪忍袋の緒が切れて、忠長に甲府での蟄居(ちっきょ、謹慎)を命じます。
忠長は父の下に使者を送って許しを乞いましたが、拒絶されてしまいます。父が危篤になったという報せが入っても、江戸に入ることは許されませんでした。
ついに弟忠長に死を賜る兄徳川家光
徳川秀忠が世を去ると忠長への風当たりはますます強くなり、領地は全て没収され、上野(こうずけ)国高崎(現群馬県高崎市)で謹慎させられることになりました。
そしてついに忠長に自害せよとの命令が下ります。
これが家光の命令なのか、あるいは忖度した幕府の家臣が手を回したのか、そのあたりははっきりしません。しかし忠長はその命には粛々と従い自刃しました。享年28歳でした。
徳川忠長はなぜ自害に追い込まれた理由
徳川忠長が自害にまで追い込まれてしまったその理由は、甘やかされて育ったというのが一番の原因だったのではないでしょうか。
幼いときから将軍になれるかもしれないという環境で育てられ、本人もそういう空気を感じていたことでしょう。子供というのは大人が思う以上に敏感なものです。
ですから元服してからも大坂城をねだるようなわがままを言って父と兄の眉をひそめさせ、そのわがままが通らないと拗ねて、最後には酒に溺れて乱行を繰り返し、父からも兄からも見捨てられてしまいました。
家光からすれば弟だからといって甘い顔をしていれば天下は治まりません。これは源頼朝と義経の場合と同様です。
母のお江が忠長を溺愛して家光を粗略に扱ったという話がありますが、実際にはそのような事実はなかったようで、むしろ偏愛があったのは父秀忠の方だったのではないかといわれています。
徳川家光と忠長のもう一人の弟・保科正之(ほしなまさゆき)
徳川家光・忠長には異母兄弟がいました。保科正之(ほしなまさゆき)です。
父秀忠は恐妻家であったため、その存在を妻に告げることができず、正之は他家で育てられていました。
家光はこの弟の存在とその有能で真面目な性格を知ると正之を信頼し、死の間際には幕府を頼むと遺言しています。
また忠長も正之を気に入り、祖父家康から賜った品を与えたそうです。
もし正之の存在が早くに知られていたら兄弟をつなぐ絆が生まれて、家光と忠長二人の兄弟にも別の結末があったのかもしれません。
保科正之についてはこちら:幕末と会津藩~武士の誇りを守った人々もどうぞ。
日本の兄弟に関することわざ
ここまで様々な日本の歴史の兄弟のかたちについて見てきました。最後に兄弟にまつわることわざにいくつか触れてみたいと思います。
「兄弟は他人の始まり」血を分けた兄弟であってもそれぞれが成長して独立すれば疎遠になって関係性が薄れていくこと。
「兄弟は鴨の味」兄弟の間というのは鴨の肉のように味わい深いものであるということ。
子供の頃からお互いを知っているだけに喧嘩をするようなことがあっても、最後にはお互いを認め合えるような間柄であるということ。
などなど…さまざまな捉え方があります。
つまり一口に兄弟といっても育った環境やそれぞれの性格などによっていろいろな関係性が構築されます。ことに政治やら自分の周りの人間が絡むとなれば、その関係は複雑になりこじれるのは当然かもしれません。
今回取り上げた日本の歴史上の「兄弟」は最後には決裂したものを多く取り上げましたが、いかがだったでしょうか。もちろん生涯を通じて仲が良かったという例もあります。機会がありましたら、そのような例もご紹介したいと思います。
執筆:Ju
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