天下を継げなかった男、結城秀康の生涯 – 将軍の兄が辿った数奇な運命

結城秀康(ゆうき ひでやす)という武将をご存知でしょうか?

秀康は徳川家康の次男として生まれ、次期将軍の座を継承する可能性がありつつも、最終的には徳川の家を継ぐことはありませんでした。

日本の戦国時代の終わりから江戸時代の始まりという、日本の歴史が大きく変化する時代に生きた秀康。

この記事では、秀康がなぜ徳川の家を継ぐことがなかったのか、その数奇な運命を紐解きます。

結城秀康
結城秀康

徳川姓と松平姓:秀康の家系とその背景

今回のコラムには徳川と松平、二つの「姓」が出てきます。少々ややこしいので最初に簡単に説明をさせていただきます。

徳川家康は最初松平元康(まつだいら もとやす)と名乗っていたように、三河国の豪族松平氏の子孫です。後に元康の名を家康と改め、さらに徳川の姓を朝廷に申請して家康一代に限り認められます。

徳川家康は征夷大将軍になるために新田氏の一門であると主張しました
新田義貞像(東京都府中市、京王線分倍河原駅前)

そもそもこの「徳川」という姓は藤原氏の流れを汲む得川氏から採ったとされています。

さらに関ヶ原の戦いの後には実は南北朝時代の武将新田義貞で知られ、源義家の直系の子孫である新田氏の流れを汲む源氏であったと訂正し、そののち征夷大将軍になります。

これは征夷大将軍となり幕府を開いた源頼朝・足利尊氏がともに源氏であったことにならったものであると思われます。(源氏しか征夷大将軍になれないという説もありますが、実際には源氏以外が就任した例もあります。)

そして当初は家康一代ということになっていましたが、権力の座に就くと徳川の姓を本姓とし、松平の姓は将軍家と先祖が同じ家臣が名乗る姓になっていきます。

秀康の誕生:徳川家康の息子として生まれた三河での幼年期

秀康は徳川家康の次男として生を受けます。その母は家康の正室築山(つきやま)殿に仕えるお万という身分の低い女中でした。

永平寺は曹洞宗の本山として知られています
秀康の母お万の方の墓所がある永平寺(福井県吉田郡永平寺町、出典:写真AC たかやんさん)

家康はお万が身ごもったことを知ると、築山殿の嫉妬を怖れて家臣の本多重次(しげつぐ、作左衛門の名でも知られる武将)に預け、そこで秀康は誕生し育てられました。

秀康は幼名を於義伊(おぎい)と名づけられたものの、家康との対面は叶いませんでした。ちなみにこの於義伊という名前、生まれたばかりの顔が「ギギ」という魚に似ていたから、という説があります。

これだけでも家康の愛の薄さを感じてしまいます。

ギギ
ギギ(出典:林良和さん WEB魚図鑑 https://zukan.com/fish/leaf27952)

家康との対面が叶わなかった理由としては、さきも述べたような正室の嫉妬を怖れたため、あるいは秀康が双子で産まれたため(当時双子は忌み嫌われていました)などといわれています。

しかし自分に異母弟がいることを知った家康の長男信康(のぶやす)が、弟が冷遇されていることを憐れみ、家康と秀康の対面を叶えたそうです。

兄信康の悲劇と秀康の変転する運命~秀康は後継者になれない?

松平信康は徳川家康の長男で武勇に優れた武将ですが自害させられてしまいます
徳川家康の長男松平信康

徳川家康の長男である信康には悲劇的な最後となってしまいます。そして次男である結城秀康がなぜ徳川の後継者になれなかったのか、その背後には何があったのか詳細に探ります。

長男信康の切腹

徳川家に一大事件が勃発します。それは家康の長男信康の切腹と正室築山殿の暗殺です。

通説ではこの両者が武田勝頼に内通した罪で織田信長が家康に命じたとされています。その原因は信康が武将として有能であり、それが将来の織田家の災いになると信長が考えたからであるといわれています。

しかし近年、信康の切腹は家康自身の命であったとの説も唱えられるようになっています。

度々父と子の間で意見の対立があり、それが家臣団の分裂の危機を招いたため、家康が信康に死を命じたとする説です。

武田勝頼は長篠で織田徳川連合軍に敗北し、数年後に滅亡します
武田勝頼

これはうがった見方かもしれませんが、勝者は歴史を書き換えることができるものです。

通説であれば、家康は天下を征服しつつある信長の命には逆らえず、仕方なく妻子を死に追いやったということになります。

いずれにしても家康にとっては苦渋の決断だったでしょう。それを信長のせいにすることで家康が自らの罪の後ろめたさから逃れようとした、というのは考えすぎでしょうか?

話を元に戻しましょう。

信康の死により次男の秀康が徳川家の年長の男子となり、後継者になるはずでした。が、そうはなりませんでした。

小牧長久手の戦い:秀康の試練と新たな出発

徳川家の後継者の話の前に当時の政局を見ておきましょう。

信康自害の数年後、家康は信長と共に武田氏を滅ぼし勢力の拡大に成功します。同じ年、本能寺の変が起こると家康は旧武田領の甲斐・信濃に兵を出し、独自の勢力を築きます。

小牧長久手の戦いで秀吉と家康は初めて激突し家康は勝利をしますが、講和します
長久手古戦場(出典:写真AC エンリケさん)

そして信長の後を継いだ羽柴(豊臣)秀吉と対決のときを迎えます。小牧・長久手(こまきながくて)の戦いです。

この戦いにおいて家康は局地的には勝利を得たものの、物量に勝る秀吉には勝てないと判断した家康は秀吉と講和を結びます。

このとき家康は秀康を養子(実質的には人質)として差し出しました。そして異母弟の長丸(ちょうまる、後の秀忠)を後継者に据えたのです。

西郷局は慈愛深くまた教養もあったため家康に寵愛されました
秀忠の生母西郷局(お愛の方)

これは秀忠の母の方が身分が高く、その上家康の寵愛も厚かったことが原因でした。

羽柴家の養子、羽柴三河守秀康

こうして秀康は人質として大坂に赴きます。このとき家康は秀康に餞別として「童子切」(どうじぎり)と呼ばれる名刀を与えました。この刀は現代にも伝わっており、国宝に指定されています。

秀吉が造った大坂城は東洋一の巨大城郭であったといわれています
大坂城(出典:写真AC shikemaさん)

秀康は大坂で秀吉からわが子のように可愛がられ、養父の「」と実父の「」の字を与えられて元服し、羽柴秀康と名乗るようになりました。

そして秀康は秀吉の九州遠征に従い初陣を果たすとともに功を挙げ、領地と三河守の官位を授かりました。

鬼退治の伝説を持つ名刀「童子切」

平安時代後期に作られたといわれるこの刀は、摂津源氏の祖源頼光(みなもとの よりみつ)が酒呑童子(しゅてんどうじ)と呼ばれる鬼を退治するときに使用されたという伝説があります。

大江山に棲む酒呑童子は源頼光に退治されたという伝説が残されています
大江山絵巻

その後もこの刀は秀康の子孫に受け継がれ、秀康の孫にあたる光長(みつなが)は幼少の頃夜泣きが治まらず周囲は皆苦労しましたが、この刀を枕元に置くとたちどころに夜泣きが治ったという伝説もあります。

秀康、秀吉の家臣を斬る

秀康が武勇に優れた人物であったことを紹介しておきましょう。

秀康が馬場で馬に乗っていると、秀吉の家臣が別の馬に乗って競りかけてきました。すると秀康は「自分に対して許しもなく競りかけてくるとは無礼である。」としてその家臣を斬り捨ててしまいました。

豊臣秀吉は養子である秀康をとても可愛がったといわれています
豊臣秀吉

このことを聞いた秀吉は「秀康は自分の養子であり、その秀康に無礼を働くのはわしに無礼を働くのに等しい。秀康は天晴である。」と言い、秀康という青年を頼もしく思ったそうです。

羽柴秀康から結城秀康になる

秀康は豊臣秀吉から養子として、そして武将として厚く遇されます。しかしその状況を一変する事態が起こります。秀吉に実子鶴松が誕生するのです。(ただし鶴松は幼くして亡くなってしまいますが)

秀頼は豊臣家を継ぎますが大坂の陣にて滅ぼされます
鶴松の弟豊臣秀頼

もちろん鶴松が誕生しなかったとしても、家康の実子である秀康が秀吉の後継者になることはあり得ません。

しかしこのまま豊臣家中に置いておけば、武勇に優れたこの養子を担ぎ上げる家臣が出てきたりして、後々家中分裂の種になりかねません。そこで秀吉は秀康を他の家の養子に送り込もうと考えるようになります。

そして秀吉は秀康のために格好の家を見つけます。

それは北関東の大名であった結城(ゆうき)氏です。結城氏は鎌倉時代から続き、室町時代には下野(しもつけ)守護も務めた名家です。当主結城晴朝(はるとも)には実子が無く、秀吉に養子縁組を願い出ていました。

結城晴朝は秀吉に養子縁組を願い出て秀吉を娘婿に迎えました
結城晴朝

また当時関東は秀康の父家康が大名として封じられており、実父の近くに置いてやるという配慮もあったようです。

こうして秀康は新たに結城の姓を名乗るようになります。

小早川秀秋

同じ境遇にいたのが後に小早川秀秋と名乗る人物です。秀秋は秀吉の妻・北政所(きたのまんどころ)の兄の子で早くからこの夫婦の元に養子として引き取られていました。

そして秀康と同様に小早川家に養子に出されます。秀秋は後に関ヶ原の戦いで歴史に名を残します

金吾殿(秀秋)、裏切り!

関ヶ原合戦屏風
関ヶ原合戦屏風

秀秋は関ヶ原の戦いにおいて徳川、石田両陣営から誘いを受けていました。両陣営に色目を使いながら、結局石田方として本戦に参陣します。しかし戦闘が始まっても兵を動かさず、形勢を傍観していました。

しかし徳川家康は曖昧な態度の秀秋の陣に対し鉄砲を撃ちかけるかたちで怒りを伝え、寝返りを促します。

銃撃
出典:写真AC dronepc55さん

するとそれを知った秀秋は狼狽し、ついに同軍である大谷吉継(おおたに よしつぐ)の軍に雪崩をうって攻めかかります。

吉継の軍は少数ながら奮闘しますが、所詮は多勢に無勢、秀秋の軍勢の前に潰滅し、結局秀秋の寝返りが石田方敗北の原因となりました。

秀吉の甥は、結局豊臣家滅亡の端緒を作ってしまったのです。

そして秀秋自身も関ヶ原の戦いの数年後、若くして世を去ります。大谷吉継の霊に呪い殺されたと噂されたそうです。

秀康と関ヶ原:戦場での決断

話を秀康のことに戻しましょう。

上杉景勝は会津の大名として徳川家康に反旗を翻しますが、後に降伏しました
上杉景勝

豊臣秀吉が没すると天下の形勢は不穏なものになります。会津の上杉景勝が徳川家康に対して兵を挙げると、家康は諸侯を連れて会津に向かいました。

すると今度はその隙を突いて石田三成(みつなり)が西国で家康打倒の兵を挙げます。

家康は反転して三成との決戦に向かいますが、上杉軍への抑えの大将に秀康を指名します。武勇に自信のある秀康はこの任務に興奮します。

しかし家康の命令は固く陣を守って、むやみに攻撃してはならないというものでした。

そして上杉軍は秀康の陣を攻撃してこなかったため、秀康がその武勇を天下に発揮することはありませんでした。(東北の関ヶ原といわれる慶長出羽合戦についてはこちら:直江兼続「愛」を掲げた戦国武将の真意と生涯もどうぞ)

真田信繁は父と共に上田城で徳川秀忠を足止めしました
真田信繁

一方、秀康の弟である徳川秀忠は徳川軍の別動隊を率いて、中山道を経由して西へ向かいます。

しかしここで秀忠は大失態を犯します。秀忠は上田城で真田昌幸・信繁父子に進路を阻まれ、関ヶ原の戦場に間に合わなかったのです。

家康はこの失態を見て、秀忠を後継者から外すことも考えたといわれています。

結城秀康から松平秀康へ:秀康のその後

徳川秀忠は秀康の弟でしたが父の後を継ぎ征夷大将軍になりました
徳川秀忠

しかし家康は結局秀忠を後継者のまま据え置きました。後継者を替えるということは様々な波乱を家中に起こす危険があることを家康は理解していました。

これは盤石の徳川家を築きたい家康の望むところではありません。また失態があったとはいえ秀忠も決して凡庸な人物ではなかったので、周りに良い家臣がいれば心配ないという判断もあったのでしょう。

秀忠は後に征夷大将軍の座を家康から譲り受けます。

福井城は北ノ庄城を改修して造られました
越前藩の居城福井城(出典:(公社)福井県観光連盟)

一方秀康は功として越前を与えられ、たちまち約70万石の大大名に立身し、姓を松平に戻しました。(ただし松平姓にしたのは秀康死後という説もあります)

しかし数年後秀康は病のためこの世を去ります。わずか34歳という若さでした。

秀康の威厳とそのエピソード

秀康の威厳その1~家康の感嘆

秀康は武勇に優れていたばかりでなく、周囲を圧倒するような威厳があったといわれています。

相撲
出典:イラストAC フリーカットさん

あるとき家康と秀康は諸大名と共に相撲見物をしていました。観客たちは勝負に熱狂するあまり大騒ぎになります。

すると秀康はすっと立ち上がり周りをひと睨みしました。観客たちは秀康のその姿を見ると、はっと静まり返ってしまいました。

家康はこの様子に驚き、秀康の威厳は見事なものだと感嘆交じりに語ったそうです。やはり秀康の体に流れる家康の血がふと垣間見えたのでしょう。

秀康の威厳その2~幕府の決まりも我には関係なし

火縄銃
出典:イラストAC acworksさん

秀康が江戸に参勤するために関所に入ると役人に、江戸府内には大名といえども鉄砲を持ち込むことはできない、これは天下の御法であると咎められました。

しかし自分は将軍の兄であるといってこれを無視して江戸に出立してしまいました。

この役人は慌てて江戸の秀忠に伺いをたてましたが、秀忠は秀康に成敗されなくて幸いだったとだけ役人に伝えたそうです。

父家康は秀康が兄でありながら将軍になれない無念の胸の内をわかっていたのでしょう。秀忠に対して秀康の扱いについては細心の心配りをするよう命じていたようです。

秀康が自らの境遇を嘆いた逸話があります。

我天下の男となれず~秀康、心の叫び

出雲阿国はかぶき踊りの創始者として、後の歌舞伎に大きな影響を与えました
出雲阿国像(出典:写真AC けんぼさん)

あるとき秀康は出雲阿国(いずものおくに、現在の歌舞伎の元となるかぶき踊りの創始者)を城に招き、踊りを披露させました。

踊りが終わると秀康は阿国を天下第一の女性であると絶賛し、それに対して天下が取れなかった自分を嘆いたそうです。

席を譲る秀康

譲る
出典:イラストAC Cranberryさん

このように自らの身の不運を嘆くこともあったようですが、普段は礼儀正しい人物でした。

弟秀忠が征夷大将軍に就位したときの祝いの宴で、上杉景勝が将軍の兄である秀康に上座を譲ろうとしました。

しかし秀康は同じ権大納言でも景勝の方が先任であるということで、これを受けようとはせず、座の譲り合いになってしまいました。

結局秀忠が秀康を上座にするよう指示がありそれに両名は従ったのですが、周囲の大名たちは将軍の兄であるにもかかわらずそれに驕らぬ態度をとった秀康に感心しきりだったそうです。

秀康の晩年と越前松平家の遺産

秀康の死後、嫡子の忠直(ただなお)が本家を継いだほか、秀康の息子は多くが大名として取り立てられました。

忠直は御三家(家康の実子が領地を与えられた紀伊・尾張・水戸徳川家)と同様の扱いであったといわれています。

松平忠直は秀康の後を継ぎますが、後年乱行により家を潰しかけました
松平忠直

忠直は幼い頃から叔父である将軍秀忠に可愛がられ、大坂夏の陣で功を立てますが、恩賞に不満を持ちそれが幕府への不満となっていきます。

そして自分の家臣を些細なことで手討ちにするなど乱行が目立つようになり、ついに幕府の命で隠居させられ他家預かりの身になってしまいました。

松平春嶽は幕末の四賢侯として幕政にも参与しました
幕末の越前藩主松平慶永(春嶽)

しかし家が取り潰しになることはなく、秀康の忠直の弟が越前松平家を継ぎ、幕末まで続いていきます。

松平春嶽については、こちら:幕末と会津藩~武士の誇りを守った人々もどうぞ。

秀康の悲しき生涯:歴史に刻まれた足跡

秀康は徳川家(松平)に生まれながらも、人質として羽柴家(豊臣)の養子となり、その後しばらくして結城家にやられ、結局徳川の家に帰ってきました。

政治の都合によって秀康は様々な家に体よく追いやられ、それぞれの家で肩身の狭い思いもしたことでしょう。

そして大した武功も挙げられぬまま、実家の繁栄により引き立てられた人生。凡人だったらいざ知らず、秀康のような武勇に優れた男はいかなる思いで死んでいったことでしょうか。

自分は一体何者だったのか?

そんな疑問を抱えたまま人生を終えてしまったのではないでしょうか。

秀康の遺産が現代に教えること

秀康の生涯は、逆境の中でも尊厳を保ち続ける重要性を物語っています。その忍耐と誠実さは文化作品や学術研究の題材となり、教育の場でも多く取り上げられています。

また、徳川時代の政治構造を理解する上でも重要です。秀康が直面した困難と選択は、家康の統治手法や徳川幕府が確立する過程を理解する上で重要な物語となっています。

執筆:Ju

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4件のコメント

信康の身代わり?他愛も無い想像だけど

優れた嫡男の命を惜しみ、どさくさ紛れに不肖の子を処分
死後に父子関係が好転し、豊臣の子として名を挙げた。松平信康→結城秀康もまた、親の地位を継がずに自分で家を興す道を選んだ。

興味深い記事を有難うございます。私も秀康ファンでございます。生誕の際に『ギギに似ている醜さを家康に嫌われて』との説もありますが、冒頭の肖像画。これって現代の感覚からすると、上方(大阪)育ちの貴公子と云う感じで醜いというよりも寧ろイイ男に分類されるルックスかと思うのですよね~。又、関ケ原の際も東北方面の対上杉の首将を任されるとかも秀忠さんよりも適任でしょうね。戦後処理も秀康さんによる『景勝さん赦免願い』を家康が躊躇なく受容したことも秀康の武将としての力量を物語るものかと。本来自分が長子なのに同じ妾腹の秀忠が後継ぎとなったとか。鬱屈した思いはいろいろあったと思うのですが、そこを腹に納めて立派に立ち振る舞った秀康さんに男気を感じます。もっと長生きできたら良かったのに!

いとこの息子が母方のルーツを調べたら結城秀康の末えいだったと話しておりました。そんな話を思い出して秀康の一生をここで知りました。歴史好きのため秀康については知っておりましたがさらに新しい発見もあって読まさせていただきました。家康の子で秀吉の養子になって秀吉にかわいがられ、大名になった秀康ですが普通ならどこかで改易させられてもおかしくない中で子孫の春嶽が幕末に活躍したように名門を守られたことがわかり勉強になりました。
ちなみに母の先祖は前田家家臣で永見という性でした。

Guidoor Media | ガイドア メディア編集部です。お読みいただき、コメント、ありがとうございます。
家康の長男切腹・正室暗殺事件、秀康の秀吉への養子、異母弟の徳川後継など、戦国の世の非情さを良く表す逸話ですね。
越前松平家を継ぐも、「忠直卿行状記」(菊池寛の小説が著名ですね)が発生、しかし幕末にはしっかり、慶喜の後見役ともいわれる春嶽を輩出しています。
「禍福は糾える縄の如し」とでもいえるのでしょうか。
GuidoorMediaを今後も何卒よろしくお願いいたします。

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