日本民俗学の父柳田國男のふるさと兵庫県福崎町をめぐる

「兵庫県福崎町」日本民俗学の父・柳田國男が生まれ育ったまち!

「日本民俗学の父」柳田國男のふるさと兵庫県福崎町は、兵庫県の南西部、姫路市の北隣に位置する瀬戸内海にもほど近い温暖な気候のまちです。

福崎町は、七種山(なぐさやま・683m)をはじめ緑の山々に囲まれ、町の中央部には市川という清流が流れています。

豊かな田園地帯の広がる福崎町では、「福の糸」といわれる素麺やカステラ・焼酎・お茶など、地域の特性が活かされた特産品が生み出され、近年には「もちむぎ」が登場して町おこしに力が入れられています。

「もちむぎ」は、一般的な麺に使用される小麦と比べ灰分が多く、高タンパク・高ミネラルで、コレステロールを低下させる働きがあるといわれるβグルカンを多く含んでいます。一見するとそばのようですが、食べてみるとコシのあるうどんのようで、独特の香ばしさが人気を呼んでいます。

なぐさやま。福崎町の最高峰(683m)で関西百名山・ふるさと兵庫50山の一つです。  播磨国風土記に奈具佐山の名で書かれた歴史ある山で、山内にはつなぎ岩や笠岩等の  様々な奇岩が見られます。雄滝をはじめ、七種48もの滝が見られることでも知られて  います。
七種山(兵庫県指定名勝)
そばでもなく、うどんでもない独特の食感、福崎町特産のもち麦を使用したもちむぎ  麺が味わえるレストランです。お茶やお菓子、ソフトクリームなど、もちむぎ商品の  販売や製麺工場の見学も可能です。
特産のもちむぎを味わうことができる「もちむぎのやかた」

古くから播磨の交通の要衝地として知られ、地場産業を興して町を発展させてきた福崎町──。

じつは近代から現代にかけて日本の民俗学を牽引してきたある著名な方の郷里でもあることが知られています。それが「日本民俗学の父」とも称される柳田國男(1875-1962)です。少年時代までの多感な時期をこの地で過ごしました。

日本民俗学の父、柳田國男
柳田國男 福崎町ウェブサイトより

その生涯をかけて、人はなぜ貧困と差別(格差)に苦しまなくてはならないのか、また日本文化の源流について深く探究、晩年には「海上の道」を記されたことがよく知られています。全国各地からいまもその足跡を辿るべく、学術界のみならずさまざまな人々が福崎町を訪れています。

柳田國男という人を形づくっていった福崎町のゆかりの場所をご紹介しましょう。

『Guidoor』兵庫県福崎町のページはこちら

福崎町の町章は「円満協和」を表しています。両サイドの鋭角は町の発展を象徴し、かたかなの「ク」を二つ組み合わせて「フク」としデザインされています。(昭和32年7月制定)
面積45.79平方キロメートル

「兵庫県福崎町」柳田國男ゆかりの地とおすすめ観光スポット

兵庫県福崎町の『Guidoor』掲載のおすすめ観光スポットページには、柳田國男が幼少期を過ごした辻川の歴史・文化に触れられる「辻川観光交流センター」、姫路藩の大庄屋で柳田國男とのつながりの深い「大庄屋三木家住宅」、見学者の絶えない茅葺屋根の「柳田國男生家」、柳田國男とその兄弟の功績が展示された「柳田國男・松岡家記念館」などが紹介されています。

兵庫県福崎町 観光マップ

「柳田國男」の素養が育まれていった福崎町の辻川

柳田國男は1875(明治8)年7月31日、福崎町の辻川で松岡家の六男として誕生しました。成人したのち、結婚を機に柳田の姓になります。

「日本民俗学の父」柳田國男の生家です。辻川の街道に面して建っていましたが、1974年(昭和49)に柳田國男ゆかりの地、鈴ノ森神社の傍に移築されました。
柳田國男の生家

柳田國男生家が現在も残されており、見学することが可能です。元々は辻川の街道に面して建っていましたが、子ども時代の遊び場の一つであった鈴ノ森神社のそばに1974(昭和49)年に移築されました。

まだ9歳と幼少の頃に一帯の飢饉を目の当たりにし、「人はなぜ貧困と差別(格差)に苦しまなくてはならないのか…」という人生のテーマに行き合うこととなります。

時代は明治時代の前半頃、近代期の大きな社会変動のさなかに日本の人々は置かれていました。

11歳の時、体が弱かったという柳田國男は辻川の蔵書家「三木家」に1年ほど預けられます。そこでは終日読書をして過ごし、民俗学者としての素養がこの時期に育まれました。

三木家は江戸時代、姫路藩の大庄屋として地域の政治と文化の中心的存在となってきた家です。1972年(昭和47)に兵庫県指定重要有形文化財となっています。保存修理工事を終えた主屋部分を三木家や地域の歴史を紹介する展示施設として公開しています。
柳田國男ともゆかりの深い三木家

三木家とは、江戸時代に姫路藩の大庄屋として地域の政治・経済、そして文化の中心的存在となってきた一族です。家屋は1972(昭和47)年、兵庫県指定重要有形文化財となり、三木家や地域の歴史を紹介する展示施設として母屋が公開されています(大庄屋三木家住宅)。

その後、柳田國男は12歳で兄が暮らしていた東京に上京することになります。母と父を相次いで亡くすという経験をしながらも、東京帝国大学政治学科に入学し、25歳の時に農商務省に入り、貧困・差別を解消すべく農政改革を目指します。

1923年、48歳の時には関東大震災の惨状を目の当たりにして「本筋の学問のために起つ」と決心、ここから本格的に民俗学の探究の道を歩んでいくことになります。

日本民俗学の父、柳田國男
柳田國男 福崎町ウェブサイトより

これほど内外の書物を読む人はいないともいわれた柳田國男の業績の一つとして、足元の島というところから日本を捉え、現代の人々に道しるべとなる書物を残しているという点が挙げられます。

民俗学に邁進するようになってから10年後となる1933年、戦争から戦争という厳しい時代に日本で初めてとなる島の雑誌『嶋』を創刊。58歳の時のことでした。

また戦後の1951年、76歳の時には『島の人生』を著し、人々が島に注意していないとして警鐘を鳴らし、その後、86歳の年に『海上の道』を世に送り出しました。黒潮にのって南方から島伝いに稲作文化が伝来したことなど、海と島の不思議な世界について興味深い内容が記されています。

激動の時代においても絶えず根源的なところから社会の実態を捉えつづけ、どの時代においても大切なことを発信しつづけた柳田國男という人の存在、業績は計り知れず大きく、現代の人々を魅了しています。

松岡家に生まれ、文化勲章を受章した民俗学者・柳田國男と、様々な分野で活躍した國男の兄弟(鼎、井上通泰、静雄、映丘)の功績を顕彰するために建てられ、貴重な資料が展示されています。
柳田國男・松岡家記念館
建物は、1886年(明治19)に郡役所として建てられたものを移築、復元したものです。兵庫県指定重要有形文化財に指定されています。福崎町に関する考古資料や歴史資料、民俗資料などが展示されています。
神崎郡歴史民俗資料館(兵庫県指定重要有形文化財)

福崎町にある柳田國男・松岡家記念館は、さまざまな分野で活躍した柳田國男とその兄弟の功績を顕彰するために建てられ、貴重な資料が展示・公開されています。

また明治時代の洋館、神崎郡歴史民俗資料館には、福崎町に関する考古資料や歴史資料、民俗資料などが展示されています。

柳田國男は、60歳を過ぎてから全国の海村調査を始め、75歳で全国の島々にも渡って調査を進めました。

その探究のエネルギーには圧倒されるばかりですが、ありのままの島国日本というところから人生のテーマを考え続けていったその原動力は、おそらく子供時代を過ごした福崎町で涵養されていったのではないでしょうか──。

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