徳川家康が開いた江戸幕府は270年近い長期政権でした。大坂の陣、島原の乱があった以外は幕末まで大きな戦いもなく、まさに天下泰平の時代が続きました。
いわゆる「幕藩体制」というものが確立し、江戸幕府の支配体制が固まったのは徳川家光から家綱にかけての時代です。この2人の下には有能で忠義心の厚い家臣が集まっていました。それらのうち4人を逸話など交えながら紹介してみたいと思います。
「知恵伊豆」 松平信綱
松平信綱(まつだいらのぶつな)は幼少のころから徳川家光の側近くに仕え、後には老中の首席として幕政の中心にいました。島原の乱の鎮圧や諸制度を整備し、幕藩体制を完成させた主要な人物だといえます。
家光も絶大な信頼を置き「伊豆守(信綱の官職名)ほどの者がもう一人いたら安心なのだが」といわれるほどで、その頭脳明晰ぶりは「知恵伊豆=知恵出づ(知恵が出る)」のあだ名からもうかがい知れます。
また領主としても藩政を積極的に行い、川越の地を「小江戸」と呼ばれる規模にまで発展させる基礎を造りました。
家光が没した後も跡を継いだ家綱を補佐し、江戸幕府の安定に尽力した人物です。
その信綱の忠義ぶりや「知恵伊豆」ぶりを見てみましょう。
強情小僧~幼少期の松平信綱
ある日御殿の庭で遊んでいた家光は、父秀忠の寝殿の軒にすずめが巣を作っているのを見つけました。興味津々の家光は側にいた信綱に巣を取ってくるように命じたところ、忠実な信綱は夜が更けた頃合いに秀忠の寝殿に忍び込んだのですが足元を誤り、中庭に落ちてしまいました。
物音に気付いた秀忠が庭に出てくると、そこには信綱の顔があったので、家光に命じられたことを察しつつ、秀忠は信綱に誰の命でここに来たのかを問いただします。
しかし信綱は決して家光の名は口にせず、自分が欲しいから来たのです、と強情に言い張ります。
秀忠は信綱を懲らしめるために大きな袋に入れて縛り付けてしまいました。そして翌日改めて、誰の命で来たのか問いただしましたが、相変わらず家光の名を口にしようとはしません。
その強情さに半ばあきれ、半ば喜びつつ秀忠は信綱を許しました。そして周りの者に「信綱は家光の良き家臣となってくれるだろう。」と語ったそうです。
松平信綱、政治の要諦を語る
人民の取り締まりについて「重箱を擂粉木(すりこぎ)で洗うようなのがよい。擂粉木では隅々まで洗うことはできず、隅々まで取り締まってしまうと、良い結果は生まれない。」と語ったそうです。
同じような話をしている人物がいます。中国前漢の時代に丞相(じょうしょう、現代の総理大臣のようなもの)を務めた曹参という人物です。
曹参はある地方の大臣をしていましたが、朝廷から丞相に任命されたため、後任に引き継ぎをしていました。
曹参は後任の大臣に「監獄と市場はあまり厳しく取り締まりを行ってはならない。」とアドバイスしました。すると後任者は「その2つこそ厳しく取り締まるべき場所ではないのでしょうか。」と反論します。
曹参は「そうではない。どちらも善悪両方を受け入れる場所であり、そこで悪人を厳しく取り締まると悪人の住む場所が無くなってしまう。そうなれば彼らは反乱を起こすよりなくなってしまう。世の中善人ばかりではないのだ。」と諭しました。
信綱もこの辺の機微がよくわかっていたのでしょう。
「水清ければ魚棲まず」ということです。
同僚から見た松平信綱
同じ老中であり、信綱より年長の酒井忠勝は同僚の阿部忠秋に「信綱と知恵比べをしてはいけない。あれは人間の域を超えている。」と語ったといわれています。
しかし周りからは少々煙たがられていたようです。熱心に仕事に打ち込み、茶の湯や能、歌会などの娯楽に全く関心がなく、また酒を嗜むこともしなかったため、カチコチの堅物だと思われていたからでした。
人間、少々隙があったほうが良いのかもしれません。
松平信綱、先輩に叱られる
知恵者というのは得てして知恵が回りすぎて、却って失敗することがあります。
家光が増上寺に参拝すると櫓の白壁が破損していたので、側にいた信綱に修繕を命じました。しかし修繕するのが難しかったため、上司である土井利勝(どいとしかつ)に破損している部分を修繕したように見せかけましょうと相談しました。
すると利勝から、そのような姑息なごまかしをしてもいずれはわかってしまうのだから、無理なものは無理だと率直に言わなくてはならないと叱責されてしまいました。
4代将軍家綱も支えた松平信綱
この当時は殉死というしきたりがありました。それは主君が死んだら、側近で仕えた人間はその後を追うのが美徳とされていました。しかし信綱は殉死する道を選びませんでした。このため一部には信綱を非難する声があったそうです。
信綱が殉死しなかった理由ーそれは家光の死の床で直々に家綱の補佐を委嘱されており、死ぬわけにはいかなかったのです。
また信綱は殉死というしきたりに疑問をもっていたのでしょう。非難の声に対して信綱は、先代の君主に仕えた者が皆殉死してしまったら、次代の君主を誰が支えるのだと反論したといわれています。
後にこの考えは殉死を禁じる法律として現実化します。
信綱の政治実績はむしろ家綱の代の方が多いという意見もあるほどで、信綱は見事に家光の期待に応えたといえます。
剛直な忠義者 酒井忠勝
酒井忠勝(さかいただかつ)は信綱よりも年長で、彼よりも早く老中になりました。家光はその剛直な人柄に信用を置いており「今まで多くの将軍がいたが、わしほど果報な者はいない。右には讃岐(忠勝)が、左には伊豆(信綱)がおる(から安心だ)」と語っていたそうです。
草履を温める酒井忠勝
家光は若い頃夜になるとよく城を抜け出て、寵愛する小姓の家を訪問していました。
ある冬の夜、いつもと同じように小姓の家から帰ろうとすると草履が温かいので不思議に思いました。これは忠勝が家光を密かに警護しており、家光が家にいるときは外で待っており、その間家光の草履を懐で温めていたのでした。
これを知った家光は自分の軽はずみな行動が周囲を心配させていることに気付き、その後夜遊びを止めたそうです。
酒井忠勝の覚悟
家光には忠長という弟がいました。幼少期の家光はどちらかといえば大人しい子で、弟の忠長は活発な子だったので、両親の愛情も忠長に傾きがちでした。それゆえ忠長が後継の将軍になるのではないかと言われていたこともありました。
あるとき家光は大病を患います。侍女が忠長のために豪華な食事を持っていこうとすると、これを忠勝は見咎め「兄君が病気で苦しんでいるのに、弟君が食事など摂れるはずがない。」と言って膳を下げさせてしまいました。
これを聞いた将軍秀忠が忠勝を問い質すと「忠長様へのご無礼、お手討ちは覚悟の上です。」と答えました。すると秀忠は「家光は良き家臣を持った。これからも家光を頼む。」と忠勝を褒めたそうです。
酒井忠勝、加増を断る
家光は忠勝にしばしば領地の加増をすすめましたが、忠勝はこれを断り続けました。
理由を聞かれると「大きい禄をいただけば驕りが生じるかもしれません。自分の代は驕りが生じなかったとしても、自分の子孫は驕ってしまうかもしれません。」と答えたそうです。
政治の中枢近くにいる者に驕りが生じれば、政治が乱れるということを知っていたのです。
竹矢来の酒井忠勝屋敷
江戸城で火災があり、家光は一時的に忠勝の屋敷に避難をしました。このとき忠勝は広い屋敷を竹矢来(たけやらい)で囲ませ、家来たちに槍を持たせて警備を固めたところ、家光は大変喜び忠勝を大いに褒めました。
このことがあって以降、忠勝は塀を設けずにこの竹矢来を残しました。これが現在の東京都新宿区矢来町の地名の由来になっています。
先輩酒井忠勝、知恵伊豆をたしなめる
忠勝も信綱同様、家光没後は家綱に仕えます。
あるとき、家綱は庭にある大きな石を外に出すよう忠勝に命じました。
すると忠勝は「そのようなことをするためには塀を壊さなくてはなりません。費用の上からも警備の上からも支障がありますので、どうぞご勘弁ください。」と申し上げ、結局沙汰止みとなりました。
これを聞いた信綱は忠勝に「庭に穴を掘って埋めてしまえばいかが。」と進言しました。
これに対し忠勝は「世の中のこと、万事思い通りになると思われると今後いろいろ問題があろう。石は放っておいても何か害をなすわけではない。」と信綱をたしなめたところ、信綱も納得しこれ以上何も言わなかったそうです。
清廉で現実を知る君子 阿部忠秋
阿部忠秋(あべただあき)は松平信綱よりわずかに年少ですが、信綱と同様に若い頃から家光に仕え、老中になります。才気溢れる信綱に対し、忠秋は現実を直視してそれに沿うような策を考える政治家であったようです。
次に紹介する逸話もこの二人のやりとりが多くあります。対照的な二人の会話というのは、とても面白く感じていただけると思います。
阿部忠秋、発言を逆手に取る
ある寺院の僧侶が他の寺院への転属を頑なに拒んでいるため、信綱と忠秋が説得に出かけました。信綱は「知恵伊豆」らしく理路整然とこの僧侶を説得するのですが、ますます僧侶は反発します。
そこで忠秋が「どうしても〇〇寺へ行くのは嫌なのか。」と聞くと、僧侶は「はい、たとえお咎めを受けるようなことになろうともお断りいたします。」ときっぱり答えました。
すると忠秋は「わかった。では咎めとして〇〇寺への転属を命じる。」と言い渡しました。
これを聞いた僧侶は「知恵伊豆様(信綱)より豊後様(忠秋)の方が上手でいらっしゃる。」と笑いながら、転属を受け入れたそうです。
庶民の暮らしを知る老中、阿部忠秋
家光が鴨狩りに出かけた際、鴨を飛び立たせるために小石を投げろと近習に命じましたが、適当な小石がありません。そこで魚屋の軒先にある蛤(はまぐり)を持ってきて小石の代わりとしました。
家光に同行していた信綱は「魚屋は上様(家光)のお役に立った幸せ者じゃ。しかもたかだか蛤であるから金を払う必要はあるまい。」と言い、それ以上は何もしようとはしませんでした。
同じく側にいてこれを聞いた忠秋は「確かに魚屋は幸せ者である。しかし魚屋はわずかな稼ぎで暮らしを立てている。上様のなされたことで民に迷惑をかけるのは、御政道の名折れである。」と言って代金を支払わせました。
阿部忠秋が考える浪人対策
家光までの代は武断政治と呼ばれ、江戸幕府は大名の統御には強気の姿勢で臨み、落ち度を見つけては取り潰しや領土削減を行いました。
このため職を失った武士は浪人となり、その浪人たちが江戸の町にあふれ、その一部は幕府に対して転覆未遂事件を起こすなど、浪人対策に幕府は頭を痛めていました。
あるとき信綱や忠勝は江戸から浪人を徹底的に追放することを提案し、他の老中たちもそれに賛成します。
しかし一人忠秋は「江戸に浪人が集まるのは仕事を求めるためで、その浪人たちを江戸から追い払ったところで根本的な問題の解決にはならない。」と真っ向から反対し、結局忠秋の意見が通ったのでした。
つまりそもそも浪人が出ない政治をするべきだ、ということです。
権力者たちと賄賂
よく時代劇などで幕府の役人が商人から賄賂をもらって高笑いしているシーンを見ることがあります。ときの権力者を金で転がすというのは、いかなる時代にもあるのでしょうか?
松平信綱も老中筆頭の座に長い間いると方々からたくさんの贈り物があり、中には賄賂まがいのものなどもあったようです。
しかし信綱は賄賂の弊を知っていたので、ある評議で「このような次第であるから自分たちは決して賄賂を受け取らないことを宣言しようではないか。」と呼びかけました。
他の者たちが賛成する中、忠秋一人は笑うばかりで何も言いません。それを訝って忠秋に尋ねると「自分のところにはそういうものを持って来る者はいないので、宣言する必要はありません。」と言ったそうです。
実際には持って来る者はいたのでしょうが、それを全て追い返していたのでしょう。これを聞いた他の老中たちは、自らを恥じ言葉が出なかったそうです。
これを裏付けるのが次の話です。
阿部忠秋とうずら
忠秋はうずらを飼育することを唯一の趣味にしていました。あるとき町で良いうずらを見つけたのですが、値段が高いため購入をあきらめました。するとこれを聞いた者がこのうずらを手に入れて忠秋に贈りました。
一度はこれを受け取ったものの、はっと気付き、すぐにこのうずらを野に放っただけでなく、全てのうずらを手放し以後飼うことをやめてしまいました。
これは公人である老中が趣味を持てば、このように賄賂まがいのものを持ちこむ連中が現れ、公私混同をしかねない危険をよくわかっていたのでしょう。
阿部忠秋の子供好き
忠秋はたくさんの捨て子を拾い育て上げました。するとこのことが噂になって江戸中に知れ渡り、たくさんの子供が忠秋の屋敷の門前に捨てられるようになってしまいました。それでも忠秋は捨て子を育てることをやめませんでした。
あるとき家臣が「こう捨て子が多いときりがありません。もうおやめになっては。」と提言しました。
それに対し忠秋は「子を捨てたくて捨てる親などいない。捨て子がいるということは、すなわち我らの政治が悪いということなのだ。せめてこの子らを立派に育てることで我らの至らぬところの穴埋めとしたい。」と言って、その後も子を拾い育てることを続けました。
忠秋はこれらの子供たちが楽しそうに遊んでいる姿を見るのが好きだったそうです。
そして忠秋の育てた子たちは、立派に成長し阿部家に仕えたといわれています。
家光の異母弟 保科正之
徳川秀忠の正室はお江の方で、この人は織田信長の妹お市の方と近江の戦国大名浅井長政の間に生まれた三姉妹の次女で、長女は大坂城で息子秀頼と最期を共にする淀の方です。
お江の方は秀忠より年上でまた大変気の強い女性であったので、秀忠は正室に遠慮して生涯側室をもちませんでした。
ただ一度関係を持った女性が身ごもり産まれたのが後の保科正之(ほしなまさゆき)です。
母は側室ですらなかったため(側室は正室が認めない限りはその地位が与えられませんでした)、幕府内でもその存在を知る者はごくわずかであり、当然家光もそのことは知りませんでした。
正之は信濃高遠藩の保科正光(まさみつ)に養育されて保科家を継ぎ、そのことをお互いに知らぬまま正之は徳川家の一家臣として将軍家光に仕えるようになります。
徳川秀忠とお江の間には、長男家光と次男忠長の兄弟がいました。この兄弟は将軍の後継者問題に巻き込まれ、弟忠長は成長するにつれ横暴な振る舞いが見られるようになり、ついには兄が弟に自害を命じるという悲劇的な最期を迎えます。
ある時家光がお忍びで城を出てあるお寺で休憩していると、そこの住職が正之が秀忠のご落胤であり、家光とは兄弟であることを教えられ、自分に腹違いの弟がいることを初めて知ります。
正之は幼少のころから頭が良く、またなによりもとても謙虚な性格である(忠長とは対照的に)ことから、家光はこの異母弟をことのほか可愛がり、幕政において重用されるようになります。
また正之もそのことを鼻にかけることは決してなく、常に謙虚な姿勢で家光に仕えました。
その信任の厚さは、家光が死の直前に正之を枕頭に招き、後のこと(家綱のこと)を託したことからもわかります。
後に正之は、東北の要地である会津23万石の藩主となります。
保科正之、幕府にて重きをなす
阿部忠秋が浪人の江戸追放について、根本的な対策にはならないと反対したことを書きました。正之はその対策として「末期養子の禁」の規制緩和を提案し、これを実行しました。
末期養子とは後継を定めていない当主が急病などの不慮の事故により死に瀕したときに、滑り込みで養子を取り、その者に跡を継がせるというもので、それまで幕府はこれを原則認めませんでした。
というのも末期養子は当主の意思を確認することが困難であるため、家臣が気に入らない当主を暗殺して自分の意のままになるような人物を新たな主君に据えるおそれがあるからです。
しかしそれ以上に幕府が大名を取り潰すための口実としてこの規制を積極的に利用していたからです。
正之は大名の取り潰しが浪人の増加につながっていることを理解しており、この規制を緩和することで浪人を減らす根本的な対策としました。
また殉死を禁じる制度も正之の発案といわれ、国法とする前に会津藩でいち早くこの制度を採用しました。
このように幕府の重要な制度改革には正之が関わっており、正之の江戸幕府における地位の重さがよくおわかりいただけると思います。
保科正之の藩政
正之は会津の藩政にも熱心に取り組みます。
社倉制を導入して、米の備蓄を行います。これは飢饉や非常災害などの場合に解放され、これによって会津藩は餓死者がいなくなったといわれています。
また90歳を超えた老人には身分を問わず、終生米を支給しました。これが日本の年金制度のはじまりといわれています。
保科正之の徳川宗家への忠誠
正之は自分を引き立ててくれた家光・家綱に恩義を感じており、子孫に『会津家訓十五箇条』というものを残しています。
まず“会津藩は将軍家を守護するために存在し、藩主がそれを裏切るようなことがあれば家臣といえどもそれに従ってはならない”と記されており、藩主のみならず家臣にも徳川家への忠誠を要求しました。
これを忠実に守った子孫たちは幕末において佐幕派として戦い、決してその家訓に背くことはありませんでした。
会津藩については、こちら:幕末と会津藩~武士の誇りを守った人々もどうぞ。
明暦の大火と4人が主導した災害対策
この4人が揃って幕閣として取り組んだ大きな事件があります。それが明暦の大火と呼ばれる江戸を焼き尽くした大火事です。
出火の原因から「振袖火事」と呼ばれることもあり、その方が有名かもしれません。江戸時代最大級の火事であり、約10万人が犠牲になったともいわれています。
政治の中枢にいたこの4人は目前の対策と将来の防災対策に奔走します。
食料供給
家を失った民衆にとって目前の課題はいかに食事を確保するか、ということでした。
まず幕府は備蓄している米を放出、炊き出しを行うなどして応急処置を取ります。しかし備蓄米だけではその場はしのげても、その後の生活には米が不足してしまいます。
すると当然米の価格高騰が予想され、そうなれば貧しい人には米が行き渡りません。
そこで幕府は、御家人に通常の倍の金を渡しそれで米を買わせます。当然その瞬間米価は高騰しますが、それを聞きつけた地方の商人たちは江戸に米を送れば大儲けできると考え、一斉に江戸に米を送りました。
その結果米が江戸に大量に集まり、価格の高騰を防ぐことができました。
また価格高騰は当然、家屋を造るために必要な木材も対象になることが明らかでした。そこで幕府は民間からは木材を買い上げないという噂を流し、高騰を防いだそうです。
犠牲者の供養
さきほど書いたように一説には10万人近い人が犠牲になったといわれており、都市再興の面から、また衛生の面からもその亡骸を早急に処置しなければなりませんでした。
そこで亡骸を本所(現東京都墨田区)に運び、大きな穴を掘って葬りました。そしてこの場所に回向院を建立して、それらの人々の供養をしました。
回向院
この回向院には有名なものがいくつかあります。
1つは鼠小僧(ねずみこぞう)治郎吉の墓です。治郎吉は大名屋敷ばかりを狙った盗賊で、後に歌舞伎や映画などでは義賊として扱われ人気を博しました。
墓石がでこぼこになっているのは、治郎吉が長い間捕まらなかった幸運にあやかろうと墓石を削って持ち帰る風習の結果です。
もう1つは「力塚」という亡くなった大相撲の力士や年寄を祀る石碑があり、相撲との縁も深い寺院となっています。
ちなみに近隣には相撲部屋や「忠臣蔵」で有名な旧吉良上野介邸(現本所松坂町公園)などがあり、観光に訪れる方も多くいらっしゃるようです。
参勤交代の一時中止と帰国の促進
ご承知の通り、この時代の大名たちには一年おきに江戸への在住を義務づけられる参勤交代という制度がありました。これを一時中止し、当時江戸にいた大名にも帰国を促しています。
参勤交代は大名を統制するための江戸幕府の重要な政策の一つでしたが、それを中止してまでも江戸の人口を減らして、町の復興を急いだのです。
江戸城天守をどうするか?
江戸城にも火災の被害が及びます。
江戸城の天守にも延焼し、天守が焼失していまったのです。しかしその再建には莫大な費用がかかることは明らかでした。また戦乱が終わっていたこの時代、天守は物見台程度の役割しかなく、無用の長物と化していました。
そこで幕府は天守を再建せず、その費用を窮民対策に回しました。これ以後、江戸城に天守が建つことはありませんでした。
隅田川への架橋
大火前は、隅田川に架かる橋は大橋(現在の千住大橋)だけでした。これは防衛上の理由といわれています。橋をいくつも架けてしまうと、敵がどこから攻めてくるか絞り込めず、兵を分散しなくてはならないからです。
しかし世の中からは戦が絶えており、むしろ民衆が逃げ出すために千住大橋だけではとても間に合わないため、他の場所にも橋を架けることになりました。これを機に架けられたのが両国橋や永代橋などです。
これにより交通の便が良くなったため、隅田川沿いの土地に人々が住むようになり、結果的に江戸市中の人口を分散させることにもつながり、別の意味でも防災対策になりました。
両国橋のたもとには火除地が設けられ、そこには建物を造ることが禁じられました。ただし災害時にはすぐ壊せるものであれば建築の許可が下りたため、盛んに土俵が作られました。これが発端で両国は相撲の盛んな町になったといわれています。
防火対策の推進
火が燃え広がらない空き地(火除地)を作ることで、民衆の逃げ場所を確保しました。台東区にある「上野広小路」はその名残です。これは通りを広くすることで延焼を防ぐというものです。
また建物を土蔵造りにすることや屋根を瓦葺きにすることも奨励されました。
これらの諸政策の実施については、松平信綱と保科正之が中心となりました。400万両を超える幕府の備蓄の多くが復興に費やされたとされています。
当初は幕閣の間にも備蓄を放出することに対する危惧の声もありましたが、幕府が備蓄をするのも、非常時に対処するためであると保科正之が強く言ったことが大きく作用したといわれています。
この後も江戸の町は大火に襲われることはありましたが、これほどの規模の被害にはなっていません。
しかしこの後幕府は財政難に陥ることになります…
公のために尽くした政治家たち
家光から家綱の代において江戸幕府の支配体制が完成されたといわれています。ここで取り上げた4人だけでなく、他にも井伊直孝や阿部重宗などたくさんの名臣たちがいました。(井伊直孝についてはこちら:鬼の家に幸を招く猫~井伊氏と彦根城と白い猫)
これらの人々は、個性はそれぞれですが、共通しているのは徳川家への高い忠誠心を持ち、そして何よりも政治を執るにあたって私心が無かったことです。
明暦の大火の対策にしても迅速かつ的確に手を打ったため、江戸の町は短時間のうちに復興を遂げました。民政の安定が、幕府の安定につながることをよく理解していたからこその対策だったのです。
民の上に立つ人々には是非とも彼らを見習っていただきたいものです。
執筆:Ju
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