ナチスドイツからユダヤ人を救った杉原千畝と『シンドラー』とは?(2)

シンドラーのユダヤ人救出大作戦

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に続く線路を写したモノクロ写真。

1944年末、プワシュフはソビエト軍の侵攻により、すべての収容施設の解体を余儀なくされ、ここにいた20,000人以上のユダヤ人が絶滅収容所に移送された。

ユダヤ人の身に迫る危機から救い出したい一心で、シンドラーはドイツ軍の司令官から、彼がズデーテン地方のブリュンリッツ(現・チェコのブルニェネツ)で新たに手に入れた工場で「軍需物資の生産」を継続するため、必要な人員を連れていくとことの許可を得た。

その労働力には、プワシュフの収容所からかなりの大人数が選ばれ、総数で800人にもなった。

そのうち700人がユダヤ人、300人が女性だった。

プワシュフの収容所からブリュンリッツ労働収容所への移送はグロース・ローゼン強制収容所を経由して行われた。

移送途中ですべての囚人は男であれ女であれ別の収容所に移される前にすべて検疫所に行くようにという親衛隊の指令書が届くが、グロース・ローゼン強制収容所には女性労働者たちを管理するのにはまだ充分な人員も施設もまだ準備されていなかった。

そのため彼女たちは60kmも離れたアウシュヴィッツに送られそうになるが、間一髪のところでシンドラーによって助けだされる。

シンドラーはゲシュタポとの間で、ユダヤ人1人当たり1日につき7マルク支払うという約束を取り付け、彼の秘書がアウシュヴィッツから女性たちを移送する交渉を行ったのである。

絶滅収容所の運用期間中において、これほど多くの集団が収容所を出て行くことが許されたケースは他に類を見ない。

ちなみに、ブリュンリッツ工場は兵器工場として分類されたが、操業8か月近くで積荷一個分だけの実弾を生産しただけであった。

シンドラーは偽りの生産数を提示して、ドイツ当局にその存在を正当化したのだ。

彼の勇気ある行動により1200人ものユダヤ人がその尊い命を救われた。

シンドラーの戦後から晩年まで

白い鳩が羽ばたいている様子。

戦後、シンドラーは事業を起こすためアルゼンチンに渡るが、その時はほとんど無一文だったという。

文字通り、全私財を投じてユダヤ人の救出を行った結果である。

しかし、アルゼンチンでの事業は失敗。

その後、ドイツに帰国するが「元ナチス党員」のため、銀行の融資が受けられずまたも事業は失敗。

次から次へと事業を起こしては失敗し、資金繰りに奔走するなど非常に苦しい生活を強いられていた。

そんなシンドラーの噂は彼が救ったユダヤ人にも伝わる。彼らは、シンドラーをイスラエルに招待した。

この時点から、オスカー・シンドラーの「二重生活」が始まる。

つまり、年の半分はフランクフルトで過ごし、残りの半分をエルサレム在住の、シンドラーが救ったユダヤ人たちの下で過ごすということである。

このような生活は、彼が1974年にドイツのヒルデスハイムで亡くなるまで続けられた。

シンドラーの墓は彼自身の希望により、エルサレムのローマ・カトリックの教会墓地にある。

オスカー・シンドラーの墓。

終戦後、シンドラーのもとに一つの指輪が送られた。

これは彼が救い出したユダヤ人たちが感謝の印に、彼らに唯一残されていた金歯から作ったもので、そこにはユダヤ教の聖典であるタルムードにある「一人の人間を救う者は世界を救う」という言葉が刻まれていたという。

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