鯖江の眼鏡で見える世界が変わる~福井県鯖江市~

手前から茶色、黒、ピンク、赤のフレームのめがねが並んでいる写真
福井県観光連盟提供

鯖江の眼鏡の魅力と歴史

福井県鯖江市は、豊かな自然に囲まれた美しい土地でありながら、その名は眼鏡産業の世界的な拠点として輝いています。

この記事では、鯖江の眼鏡がどのようにして世界的な評価を受けるに至ったのか、その歴史と魅力に迫ります。
伝統と革新が調和する眼鏡の世界に足を踏み入れ、ジャパンクオリティが紡ぎ出す洗練された美を探求してみましょう。

世界三大眼鏡産地の中での鯖江市の地位

手前から茶色、黒、ピンク、赤のフレームのめがねが並んでいる写真。
福井県観光連盟提供

世界三大眼鏡の生産地といえばイタリアのベッルーノ、中国の深圳・東莞・温州・丹陽・アモイ地域(中国に代わってフランスのジュラ地方とされる場合もあります)。

鯖江はこの二つの国と並んでその名を馳せ、技術とクオリティで鯖江に勝るものはいないと、メイドインジャパン眼鏡の確固たる地位を築いています。

伝統と革新の融合:鯖江の眼鏡が他と異なる理由

赤いフレームの眼鏡を職人がヤスリかけている様子。
鯖江市 眼鏡

鯖江の眼鏡が圧倒的に支持される理由は大きく3つのあります。

まず一つ目は「職人技が光る優れた耐久性」です。

ガラ研磨と呼ばれる時間を必要とする手法をあえて用い、最終工程で職人が丁寧に磨きをいれることで驚くほどしなやかで軽い付け心地なのに、海外製品とは比べ物にならない耐久性があります。

鯖江市のべっ甲やオパール色のフレームの眼鏡の途中デザイン。
鯖江市 眼鏡

次に二つ目は「細かい部分までこだわったデザイン」です。

日本文化を取り入れ日本人の顔の特徴に合ったデザインであったり、着物に合う眼鏡を生み出していたり。

鯖江にしかない個性と機能性を持ち合わせたデザインは、眼鏡ユーザーを虜にしています。

ボルドー色の眼鏡が柄の部分などすべてバラバラになっていて、組み立てている途中の様子。
鯖江市 眼鏡

そして最後に3つ目は、「高品質ながら求めやすい価格」です。

技術を結集した眼鏡は一見とても高価なものに感じられますが、鯖江市は町全体で眼鏡づくりを奨励している部分もあり、高品質でありながら安いものは2万円以下で購入できるものから取り揃えています。

ジャパンクオリティを身近に手にすることが出来るのは、消費者にとってもありがたいことです。

そんな鯖江の眼鏡は一体どうやって生まれたのでしょうか。

歴史を一緒に辿っていきましょう。

貧しい農村を救った眼鏡産業の地域振興

雪が積もっている小枝にナンテンの赤い実がかわいらしく実っている様子。
一点さんによる写真ACからの写真

時は明治、雪深く貧しい農村だったこの土地で、何とか今の人々の暮らしを良くできないものかと考えた一人の男がいました。

後に国産眼鏡の祖と呼ばれ、当時若くして村会議員なども務めていた「増永五左衛門」です。

当初五左衛門は、羽二重(はぶたえ)に注目していました。

羽二重とは柔らかく光沢のある日本を代表する絹織物で、白く風合いが良いので、和服の裏地として最高級品とされています。

黒髪の女性がピンクオレンジ緑青の鼻が描かれた赤い着物を着て、美しいうなじを見せている横顔。髪の毛には赤と黄緑色の鼻の髪飾りをさしている写真。
おはるんさんによる写真ACからの写真

古くから絹織物の名産地として知られる群馬県の桐生から技術者を招き、福井に羽二重織の技術が広がると、光の速さで羽二重産業は成長を遂げていきました。

五左衛門は二階建ての織物工場を建て織物業界への参入を試みましたが、明治33年の恐慌により事業はあっという間に立ち行かなくなってしまいます。

結果的に町おこし計画は失敗に終わってしまい、その後なかなかこの羽二重に続く事業を見つけられず、五左衛門の思い悩む日々が続きました。

暗がりの中にテーブルがあり、その上に金属フレームのアンティークな眼鏡が置いてある。
参照:ODAN

そんな中、五左衛門に転機が訪れたのは明治37年暮れのことです。

五左衛門の弟であり、大阪に出ていた幸八が、眼鏡フレームの製造という新たな策を提案してくれたのがきっかけでした。

もう失敗は許されない!と心に誓った五左衛門は自ら大阪に出向き、眼鏡職人を3名福井へ招き入れました。

こうして眼鏡事業をスタートさせたのが、明治38年6月1日。

農家の副業として村の男たちに技術を定着させ、眼鏡のまちの歴史的な一歩を踏み出したのです。

五左衛門は、これからの時代必ず新聞や本を読む人が増え、眼鏡は人々の生活必需品になるであろうと確信していました。

黒いテーブルの上に赤や白や黒のプラスチックまたはセラミック素材の眼鏡がたくさん置いてある写真。
福井県観光連盟提供

まず一番安い真鍮フレーム(しんちゅう:銅と亜鉛との合金)から始まり、名工と呼ばれた豊島松太郎を招いてからは、銀縁フレームや赤銅フレームを生み出していきました。

もちろん初めてのことに苦難はつきものですが、実際眼鏡の生産が軌道に乗るまで幾度となく試練がありました。

しかし厳しい状況が続いた数年後、明治44年には「赤銅金ツギ眼鏡」が博覧会で金牌賞を受賞します。

私財を投じてまで眼鏡フレームの製造工場を設立し、産業の発展と技術者の育成に力を注いだ五左衛門にとって、自分の生まれ育った町はかけがえのない場所だったのでしょう。

こうして眼鏡はこの鯖江の地になくてはならない存在として、根付いていったのです。

世界的な名声を誇る鯖江の眼鏡ブランド

福井県鯖江市にあるめがねミュージアムの写真。白い室内にたくさんの眼鏡がテーブルや壁の棚全てに綺麗に陳列されている様子。
福井県観光連盟提供

第二次世界大戦後は、空前の活字ブームを受け、眼鏡はさらに需要が高まり、鯖江の眼鏡づくりもさらに活気づいていきました。

昭和56年には、チタン素材を使った眼鏡フレームの研究開発が始動します。

チタンは軽く、耐久性に優れている上に、金属アレルギーも起こしにくい画期的な素材です。

努力の末、世界初のチタンフレーム眼鏡開発に成功したことで、鯖江の眼鏡は世界中にその名を知られることとなったのです。

福井県鯖江市にあるめがねミュージアムの様子。暗い室内に白い棚が並んでおり、その棚の上にサングラスがたくさん展示されている。サングラスにはスポットライトがきれいにあたっている。
福井県観光連盟提供

その後格安眼鏡店の増加により一時は下火になった鯖江の眼鏡でしたが、平成15年からは産地統一ブランドとして「THE 291(ザ・フクイ)を立ち上げ、世界最高品質の眼鏡を提供すべく世界に鯖江の眼鏡を発信しています。

これらの眼鏡産業が今日まで目覚ましい発展を遂げられたのは、忍耐力を強いられる細かい作業を丁寧に、辛抱強くこなしていく福井県民の「真面目な県民性」があってこそとも言われています。

福井の海岸の様子。朝明けもしくは夕暮れ時の暗めのブルーの空と穏やかな海。そして奥の方には美しい陸地が見える。
福井県観光連盟提供

実際、職人師弟制度の中で帳場と呼ばれる工程ごとに細分化されたグループの職人たちが腕を競い、互いに切磋琢磨していくことで技術向上と分業化が進んできました。

鯖江には自分自身の技を磨き、没頭できる環境が整っていたからこそ世界中が感嘆するジャパンクオリティを生み出せたのではないでしょうか。

日本人と眼鏡の関係

日本人と眼鏡の出会いは実ははるか昔。

知られざる眼鏡の歴史を探ります。

日本人が初めて眼鏡をかけた歴史的瞬間

フランシスコ=ザビエルの肖像画。胸の上で手を交差させている。

フランシスコ=ザビエル

日本に「眼鏡」そのものが伝来したのは、16世紀。日本初の眼鏡には諸説あります。

最も知られているのは、歴史的にも有名なイエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが日本に伝来させたという説です。

周防(現在の山口県)の守護大名・大内義隆との二度目の謁見でザビエルが献上したものが、眼鏡だったと言われています。

しかし残念ながら現物は残っていないようです。

コンラート・フォン・ゼスト作の 『Glasses Apostle』

コンラート・フォン・ゼスト作の ‘Glasses Apostle’ (1403)

また戦国時代の貴重な史料であるルイス・フロイス著の『日本史』の中には、このような逸話が残されています。

宣教師たちが布教活動を行う中で、眼鏡をかけている彼らを見た日本の人々はこんな反応をしたそうです。

「外国人には目が4つあり、普通の位置にある目と少し離れた位置にある目。離れた方は鏡のように輝いていて恐るべきものだ」

確かに眼鏡という概念がなかったこの時代の日本人にとって、始めて見る眼鏡は妖怪のように恐ろしく見えたのも無理はないのかもしれません。

室町幕府12代将軍足利義晴の肖像画。

足利義晴

また一説では、日本最古の眼鏡を所有していたと言われていたのは室町幕府12代将軍足利義晴です。

実際に使用していたかどうかは不明ですが、足利義政から足利義晴に渡り、現物は京都の大徳寺大仙院に収められています。

徳川家康の肖像画。

徳川家康

歴史的人物のつながりで言えば、徳川家康公も眼鏡を使っていたという史実が残っており、静岡県の久能山東照宮にはその眼鏡が現存しています。

これらの眼鏡は全て、今のような耳にかけるタイプではなく、手で持って見るタイプだったので、現在の形として主流になったのはまだずっと先のことでした。

鼻の低さが生み出した眼鏡へのひらめき

江戸時代の眼鏡。寛政十三年『算法大全指南車』の挿絵より。

江戸時代の眼鏡。寛政十三年『算法大全指南車』の挿絵より

手持ち式眼鏡が現れてから約350年後。

17世紀になると、西洋ではスパニッシュイタリアンと呼ばれる耳にひもで引っ掛けるタイプの眼鏡が出てきます。

堀が深い西洋人には全く問題のないデザインでしたが、東洋人は西洋人に比べても鼻が低く、眼鏡に顔がくっついてしまうのが難点でした。

英字の本の上に眼鏡が置いてある写真。
参照:ODAN

そこで日本人が考えたのが「鼻当て」です。

今まで輸入品の眼鏡に頼っていた日本でしたが、ここに来て初めて長崎で眼鏡が作られるようになりました。

当時の眼鏡の材質は、べっ甲、水牛の角、馬の爪などで、これらの素材はまだ外国から取り寄せたものばかりでした。

日本人の文化とマナーにみる眼鏡の位置づけ

朝焼けもしくは夕日のうっすらブルーからオレンジ色に変わる空と美しい富士山の様子。
参照:ODAN

18世紀に入ると、日本製の眼鏡が次々と生まれていきます。

鏡師と呼ばれる鏡をつくったり、磨いたりする人々が眼鏡レンズも磨くようになっていきました。

主に京都・大阪・江戸で眼鏡を売る人々が現れ、一般に「眼鏡」というものが少しずつ知られるようになっていきましたが当初は眼鏡だけでは売れなかったため、他のものと抱き合わせで販売していたようです。

白黒写真。眼鏡をかけているおじいさんの横顔写真。
参照:ODAN

西洋では眼鏡が発明された当初「眼鏡は悪魔の道具」という概念があり、薬も使わず治療もしていないのにいきなり目が見えるようになるなんておかしい!と長い間思われていました。

眼鏡が誕生した時代の眼鏡に関する記述が公にあまり残っていないのは、そのためだとも言われています。

参考書か英字の本の上に黒ぶちの眼鏡と黄色い傾向マーカーが置いてある写真。
参照:ODAN

海外だけでなく日本でも昔は自分より目上の人の前で眼鏡をかけるのは失礼にあたると思われていたようです。

その理由として眼鏡は昔から博識のシンボルであり、目上の人に自分の博学をひけらかすのは美しくないと考えられていたからです。

今でいう「マウンティング」に当たるのかもしれませんね...(笑)

現代でも眼鏡がインテリのモチーフとされるのは、この名残なのかもしれません。

ジャパンクオリティに触れる

福井県鯖江市にあるめがねミュージアムの眼鏡づくりの工程を詳しく説明している展示室の様子。
福井県観光連盟提供

最後に福井県鯖江市にある「めがねミュージアム」をご紹介します。

こちらでは、眼鏡の展示や眼鏡づくりの工程など鯖江の眼鏡の歴史を余すことなく知ることが出来る貴重な場所です。

ここでしか買えない、眼鏡をモチーフにしたアクセサリーや眼鏡の素材を使用した小物はどれも個性的で目を引きます。

福井県鯖江市にあるめがねミュージアムの眼鏡づくり体験で作業をする様子。
福井県観光連盟提供

また世界に1つだけの眼鏡を一からつくれる教室も開かれていて、職人技を体験できます。

自分で作った眼鏡を通して見ると、また新しい世界が見えるかもしれません。

めがねミュージアム

住所  :福井県鯖江市新横江2-3-4 めがね会館
TEL   :0778-42-8311
営業時間:めがねSHOP:10:00~19:00・体験工房/めがね博物館/
     SabaeSweets:10:00~17:00・MUSEUM CAFE:10:00~16:00
定休日 :水曜日、年末年始
    ※水曜が祝日の場合、及びお盆期間(8月13日~16日)は営業します
公式WEB:メガネミュージアム

鯖江の眼鏡産業:ジャパンクオリティの象徴としての輝き

いかがでしたか?

鯖江市は、眼鏡産業の真髄が息づく場所であり、そこから生まれる眼鏡はまさにジャパンクオリティの極みです。その品質の高さと洗練されたデザインは、国際的な賞賛を受け、鯖江の眼鏡工房やミュージアムで巧みな職人の技術を親身に感じることができます。

美しい自然と多彩な文化が交わるこの地で、鯖江の眼鏡を通じて見る世界は、新たな視点と感動をもたらしてくれるでしょう。鯖江市の魅力を探索しながら、この眼鏡のまちならではの魅力をじっくりと堪能してみてください。

執筆:Honami

4件のコメント

福井、鯖江から、世界に誇れる製品が生まれて嬉しいです。
私は福井高専卒業ですが、通学時にメガネフレームに知っていれば、人生が変わっていたかも。

いやいや最高ですよ!メガネづきやメガネを愛用している人からしたらたまらない

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


ABOUT US
Guidoor Media 編集部
Guidoor Media編集部は、日本の文化や観光に特化したWebメディアです。日本の文化や歴史、観光地情報、アート、ファッション、食、エンターテインメントなど、幅広いトピックを扱っています。 私たちの使命は、多様な読者に向けて、分かりやすく、楽しく、日本の魅力を発信し、多くの人々に楽しんでいただくことを目指しています。 私たち編集部は、海外在住のライターや、さまざまなバックグラウンドを持つクリエイターが集結しています。専門知識と熱意を持って、世界中の人々に日本の魅力を伝えるために日々努めています。