韓紙、漆、墨、玉粉、石彩、韓国の伝統的な素材を下地とし、無数の言葉を積層させた平面作品などで注目を集める現代美術作家、ジア・ヒョク。イギリス、ロンドンでファインアートを学び、ソウルを拠点に国際的な活動を展開する彼の日本初個展が、東京・SH GALLERYにて開催中だ。
開催概要
ジア・ヒョク インタビュー

伝統を盲信するのではなく、現代美術という広大な地平においてその位置を問い直すこと――それこそが作家としての役割だと彼は語る。
この姿勢は、彼が芸術における「崇高(숭고/スンゴ)」と呼ぶものへのアプローチにも貫かれている。コンセプトのみが先行し、制作のプロセスを軽視しがちな現代美術の一潮流とは一線を画し、彼は自らの思想を具現化するための、徹底したクオリティと自らの芸術的信念を信じている。
他人が「自分でも作れる」とは決して思わない、容易には近づけない領域の美を作品に宿らせること。その絶対的な境界線(=崇高)を追求するプロセスとして、必然的に濃密な時間が作品に費やされる。日々のジョギングの最中に記憶され、推敲された言葉が、作品の表面に書き記されてゆく。そこにはストイックな精神のみならず、表現に対してどこまでも誠実で、純粋な彼の作家としての根源が息づいていた。
「作家の役割」としての伝統素材への回帰

――ジア・ヒョクさん、今回は日本での初めての個展、本当におめでとうございます。まずは、いつもとは異なる「東京」という場所で展示の準備をされてみて、率直にいかがですか?
ありがとうございます。海外で個展を行うときは、やはりいつも以上にいろいろなことに気を配らなければいけません。考えることも多いですし、出会える方もたくさんいます。これまで韓国などで行ってきた個展以上に、「より集中して準備しなければいけない」という強い気持ちで取り組みました。
私自身、プライベートでは100回近く日本を訪れているほど馴染みのある国なのですが、展示という形でお会いするのはアートフェア大阪に続いてまだ数回目ですので、新鮮な緊張感があります。
――今回の個展で中心となっているのは、近年高く評価されている『念想(연상)』シリーズですね。作品には「韓紙」「漆(うるし)」や「墨」など、韓国の伝統的な素材が多く使われています。どのような思いから、これらの素材に辿り着いたのでしょうか。

私には、イギリスなどの海外で長く過ごした経験があります。異郷の地で暮らすなかで、「作家として自分に何ができるのか、自分の役割とは何か」を深く考えるようになりました。
その結論が、「韓国の芸術や伝統的な素材を、あえて客観的に見つめ直すこと」だったのです。現代美術という広大な世界のなかで自分を表現しようとしたとき、ただ伝統を盲信するのではなく、それを客観的に捉え、それが現代においてどのような位置にあるのかを問うこと。それこそが作家としての私の役割なのではないかと考え、伝統的な素材を使って制作するようになりました。
――その背景にある、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズやゴールドスミスで学ばれた経験はどのように影響しているのでしょうか。

大いに関係しています。私はもともと、ロンドン芸術大学(UAL)のセントラル・セント・マーチンズのファウンデーション課程(大学予備課程)にいました。当時はファッションに関わる領域を学んでいたのですが、そのとき、ある教授から「あなたはファッションではなく、ファインアートの方向へ進んだほうがいい」と強く勧められたのです。
そこからゴールドスミスのファインアート課程に進学しました。ファインアートとは、文字通り「自分自身を表現するもの」です。では、自分を表現するためにはどうすればよいのか。試行錯誤の末に、最初に辿り着いたのが「墨」を使った表現でした。そこから思考を深め、自分を表現する過程で韓国の伝統的な材料を掘り下げるようになり、現在のスタイルへと繋がっていったのです。
身体的ルーティンと「落ち着いた感覚」から生まれる言葉

――ジア・ヒョクさんの作品の特徴として、伝統的な下地の上に無数の「言葉」が書き込まれている点が挙げられます。この言葉は、どのような意識状態で紡がれているのですか?
私はジョギングが好きで、1日に2回走ることを日々のルーティンにしています。その走っている時間に浮かんだアイデアや、その日、あるいは前日にあった出来事、頭の中の考えを一度記憶し、整理します。風景画を描く画家が、風景を見て記憶し、後からアトリエで描くプロセスと非常によく似ていますね。
そうして整理された言葉を、作品の上に記録していくのです。
――文字を書いているときは、感情が高揚しているのでしょうか。それとも、冷静な状態なのですか?

とても「落ち着いた感覚」ですね。文字を書くときは、流れを掴みながら一気に書いているので、途中で立ち止まったり、消して修正したりすることは一切ありません。高い集中力の中で、記憶をなぞるようにして画面に定着させていきます。
初めて自ら「漆」を塗る、という挑戦と失敗

――今回の個展での「挑戦的」なことや新たな発見が何かありましたか。
はい。まず色彩の面では、これまでは青や緑の作品が多かったのですが、今回は初めて「黒」を基調とした作品や、オレンジや赤に近い色味の表現にも挑戦しています。
そして何より大きな挑戦は、展示している作品のうち数点において、土台の工程である「漆を塗る作業」からすべて自分自身で行ったことです。これまでは専門の職人の方にお願いしていた工程です。
――実際に体験してみていかがでしたか?

予想とは全然違いましたね。漆を塗る作業は信じられないほど難しく、何度も失敗してやり直しました。手も痒くなってしまいましたし。
私は、自分自身のことを「繊細にきっちり作業することは、あまり得意ではない人間だ」と思っています。漆を塗る作業というのは、どちらかと言えば「きっちりと、隙なく進めていかなければいけない工程」です。塗り損ねた部分があれば最初からやり直さなければならない。
一方で、文字を書いたり作品の核心部分を作ったりするときは、自分の感覚に対して極めて「敏感」になりながら、失敗を恐れずに進める必要があります。つまり、漆を塗る工程と文字を書く工程は、まったく質の異なる種類の作業なのです。今回、その両方を自分自身の身体を通したことで、作品への理解がより深まったと感じています。ベースが白い作品を除いて、今回色が付いているものはすべて、自分で漆を調合し、塗るところから手掛けています。
芸術における「崇高美」

――作品の規模にもよるとは思いますが、1点の作品を完成させるまでに、どのくらいの時間を費やすのでしょうか。
大きな作品であれば2〜3週間、小さな作品であっても最低1週間はかかります。
――現代美術においては概念(コンセプト)が重視され、制作時間をあえてかけないアプローチもあります。ジア・ヒョクさんが、あえて「時間」をかけて手を動かすのには、どのような哲学があるのですか?

これは難しい質問ですね。それは、芸術における「崇高(숭고/スンゴ)さ」を信じているからです。
私は、芸術家ではない一般の方々や、他の人が私の作品の前に立ったときに、「これは自分でも作れるな」とは絶対に思われないような作品を作りたいと考えています。
美術の哲学の中には「崇高美(Sublimity)」という概念があります。それは、例えば圧倒的に大きかったり、あるいは「一般の人間には容易に真似ができない、簡単には立ち入ることができない領域のものだ」と感じさせたりする美しさのことです。芸術の専門家ではない人が見たときに、「これは自分にはできない、作れない」と感じるようなもの。そうした、自分自身でなければ作れないもの、簡単には真似できない領域のものを生み出すことこそが、芸術家がやるべきことなのだという思いが、私の制作の根底にあります。
『念想(연상)』シリーズの拡張と、空間への意識

――今回の東京での個展は、ソウルでの2023年の展示「念想/념상 Daydream」からさらに拡張された内容になっているそうですね。当初は別のシリーズの展示も考えていたとか。
おっしゃる通りです。私はこれまで日本での展示機会がそれほど多くなかったため、最初は自分の制作のベースにある別の平面シリーズを紹介しようと考えていました。しかし、大阪でのアートフェアに出展した際、この『念想』シリーズが想像以上に大きな反響をいただき、作品がすべて完売したのです。
このシリーズに取り組んで今年で3年目になりますが、これほど多くの方に愛していただけるのなら、中途半端に混ぜるのではなく、今回は改めてこのシリーズに100%集中した展示にしようと決意しました。ちょうど同時期に、韓国に新設された「ポンピドゥー・センター・ソウル」でも私のこのシリーズの作品やグッズが紹介されました。そのため東京でもより洗練され、成長した『念想』シリーズの空間をお見せしたいと考えたのです。
――展示空間を見渡すと、平面作品だけでなく、壺や美しい布を用いたインスタレーションも目を引きます。これらはどのような着想から生まれたのですか?

先ほどお話しした通り、私はイギリス時代に空間全体を構成するインスタレーションを多く経験してきました。その経験から、単に壁に絵を掛けるだけでなく、韓国の伝統的な造形物と絵画を調和させた空間を作りたいと考えたのです。

会場の入り口にある作品に使用している壺は、韓国で『タルハンアリ(月壺/Moon Jar)』の巨匠として知られる著名な陶芸家の方と私とのコラボレーションによって生まれたものです。現在、タルハンアリは世界的に非常に人気があります。
この伝統的な壺と、天井から吊るした韓国の伝統的なシルク(絹織物)を組み合わせました。韓国でも別々に展示したことはありましたが、このように一つの空間で完璧に調和させたのは今回が初めてです。さまざまな経験を重ねた今だからこそ、このシルクと壺、そして絵画の調和が最も美しい空間を生み出せると確信しています。


また、会場の入り口正面に展示されている3点の平面作品は、特に伝統的な制作工程を忠実に守って作ったもので、私自身とても愛着がある作品です。青い作品に見られる自然な歪みや滲みは、意識的にコントロールしたものではなく、漆を自然に伸ばし、溶かすプロセスの中で「自然に成立した形」です。これは韓国の美学の根底にある「自然の美」なのだと感じていただければ幸いです。
「継続」という、表現者としての生き方

――ジア・ヒョクさんがそもそも「アーティストになった理由」についてもお聞かせください。子どもの頃から芸術家を目指していたのですか?
いえ、まったく違います。高校生の時に初めて絵を描き始めたのですが、当時はただ美術が「楽しそうに見えたから」という単純な理由でした。美術大学に入るためのいわゆる「受験美術」の環境で育ったわけではなく、ある作家の先生のアトリエのような場所に通わせてもらい、そこで少しずつ描かせてもらったのが始まりです。その時間がとにかく楽しかった。
もちろん、当時の楽しさと、プロの作家として生きる現在の楽しさは種類が違います。しかし、形を変えながらも「作るのが楽しい」という感覚は今も続いています。特別な目的意識があったわけではなく、ただ自分の目の前にあること、与えられた制作に誠実に向き合い、それをひたすら続けていたら、結果として今のアーティストという職業になっていた、というのが本音です。
――現代において、若い世代を含め「作品を作り続けることの難しさ」に直面しているクリエイターは少なくありません。精力的に発表を続けるジア・ヒョクさんから、何か伝えたいメッセージはありますか。

私がいつも思っているのは、「継続することが、表現者として一番格好良いのではないか」ということです。
表現の世界において、結果が出たり、世の中に評価されたりするかどうかには、ある程度「運」も関係してきます。それはコントロールできないものです。しかし、その巡ってきた運を確実に掴み取ることができるのは、やはり、日の目を見ない時期であっても諦めずに「継続して取り組んできた人」だけなのだと思います。
――最後に、この東京での初個展を訪れる日本の鑑賞者の皆さんに、どのように作品を受け取ってほしいか、メッセージをお願いします。
東京で初めての個展ですので、私自身、非常に緊張しています。まずはたくさんの方に足を運んでいただけたらそれだけで嬉しいです。
私の作品は、パッと見てすぐにすべてが直感的に理解できるような、分かりやすい作品ではないかもしれません。しかし、空間に身を置き、じっくりと見れば見るほど、不思議と心に安心感や平穏が広がっていくような性質を持っています。ぜひ時間を忘れて、深く、ゆっくりと作品と対話していただければ幸いです。
取材後記

インタビュー終了後、ジア・ヒョクさんは「質問がたくさんあって嬉しかった。少し緊張していたけれど、深く美術の話ができて楽しかった」と、満面の笑みで握手を交わしてくれた。
インタビューを通して浮かび上がったのは、ジア・ヒョクという作家の表現に対するどこまでも純粋で誠実な姿勢だ。
「継続することが、表現者として一番格好良い」という静かな信念。そして「目の前にある制作にひたすら付いていったら、結果としてアーティストになった」という飾らない回顧。
彼にとって「韓国の伝統的な素材」を扱うことは、決して表層的なスタイルではない。異郷の地で自らのルーツを客観視し、目の前の芸術に誠実に向き合い続けた必然の結果である。同様に、作品に費やされる濃密な時間も、単なる労働の集積ではない。それは、容易に近づけない「崇高美」を具現化しようとする、純粋な彼ならではのアプローチの軌跡にほかならない。
その静かな情熱が画面から滲み出る個展会場へ、ぜひ足を運んでみてほしい。
アーティストプロフィール
Jeah Hyuck / ジア・ヒョク
ジア・ヒョクは、1997年生まれの若手アーティスト。
英国ロンドンの名門・ゴールドスミス大学でファインアートを専攻し、優秀な成績で卒業。現在はヨーロッパと韓国を拠点に、精力的な展示活動を行っている。
アイデンティティを主題とした作品では、木製の扉や韓紙、絵の具、墨など、東西の異素材を重ね合わせ、落書きのように重層的な視覚表現を通じて、社会的ペルソナと内面に潜む感情を描き出す。
パリ、ヴェネツィア、ロンドンなどで個展を開催し、とくにロンドンのSaatchi GalleryやSurface Galleryでの展示では、世界のコレクター達の注目を集めていた。
※本インタビューは通訳を介して行われました。
聞き手・文:岡崎太朗(Taro Okazaki)/ Guidoor Media
協力:SH GALLERY
プロジェクト統括・編集長:岡崎 太朗(Taro Okazaki)















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