福岡の極上グルメ!本場の明太子を堪能しよう
福岡を代表するお土産の一つといえば、名物の「明太子」です。
濃厚な味わいと、口の中で心地よくはじける明太子を、本場の福岡で体験してみませんか?
福岡には数多くの明太子屋さんがあり、様々な特徴がある明太子を食べ比べるのも楽しみのひとつです。
そこで今回は福岡名物の明太子を存分に楽しんでもらえる『おすすめ6選』と共に、ルーツや、美味しい食べ方までをご紹介します。
筆者は昔から【生もの×塩辛いもの】が大好きで、お酒のあてに良くしていたのですが🍺
夫が福岡出身ということもあり帰省の度に本場の明太子を買って帰るようになってからは、「ブランドや食べ方によってこんなにも違うのか…」と今まで知らなかった明太子の奥深さを知り、さらに虜になりました。
今回はそんな自身の試食した感想なども含めて、福岡の明太子の魅力を余すところなく皆さんにご紹介したい!という想いで記事にしました。
ぜひこの記事を参考に、福岡旅行を楽しみながら本場の明太子を味わってみてください🍚
(※この記事は過去に掲載された記事を更新し2023/07/21再公開しました。)
明太子の誕生秘話 ルーツを辿る「明太子物語」
今でこそ福岡=明太子というイメージが容易に浮かびますが、実際なぜ福岡の地で明太子が有名になったのでしょうか。
日本の食文化に明太子が浸透したのには、明太子の生みの親の人柄が大きく関わっていることが歴史を紐解いていくとわかりました。
明太子の起源は韓国にあり
明太子の始まりを遡っていくと、なんと17世紀から18世紀の韓国にたどり着きます。
当時の韓国(朝鮮半島)で漁師たちが塩辛などにして食していたのが「スケトウダラ」の卵巣、つまり明太子の元であるたらこです。
また、スケトウダラは韓国語で「ミョンテ」、その卵を「ミョンテコ」と呼んでいたことから派生して「明太子」という名が付いたようです。
スケトウダラは魚の身よりも卵や内臓が美味しいとその頃は認識されていた為、庶民の食べ物として大変好まれ、保存用に唐辛子をまぶしたものが出回っていました。
これが現在の明太子の原型と言われています。
当時の明太子は今でいうチャンジャ(タラの胃や腸を使った魚のキムチ)に近い食感や味だったとか…
そんな明太子が日本の福岡でなぜ発展したのでしょうか。
福岡と韓国が近いからでしょ!とお思いの方…残念。
たまたま福岡が故郷だった日本の明太子の生みの親である川原俊夫氏(以下敬称略)の人生を語らずして、日本の明太子は語れないのです。
明太子の生みの親 川原俊夫
福岡に行ったことがある人やお土産で明太子をもらったことがある人は、「ふくや」というお店の名を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
元祖明太子の販売店として知られるこのふくやの創業者こそが福岡の明太子の生みの親「川原俊夫」(かわはら としお)なのです。
俊夫の父は、当時日本領だった韓国釜山に渡って海運業や商品販売をしながら生計を立てていました。
そんな中、川原家の次男として生まれたのが後にふくやの創業者となる俊夫でした。
俊夫が幼少期を過ごした戦前の朝鮮半島には日本人がたくさん住んでおり、明太子も日本人向けに味付けされたものが多く、それはそれは美味しいごはんのお供だったようです。
この味は、俊夫にとってそしてのちの妻となる女性にとって生涯忘れられないものとなりました。
俊夫は大人になると満州電業のサラリーマンとして働きながら元々家族ぐるみで仲が良かった日本人の千鶴子と結婚し、二人は満州で新生活をスタートさせます。
しかしほどなくして世界大戦がはじまり、俊夫も徴兵を余儀なくされました。
その後、沖縄の宮古島で激戦を何とか生き残った俊夫は、福岡へ家族と共に帰還します。
多くは語られていないですが、戦争で悲惨な状況を目の当たりにし、辛い思いをした俊夫は「何か人のためになることをしたい…」と密かに決心していたようです。
帰国後福岡の中州(なかす)で俊夫は乾物屋の「ふくや」を開業します。
ふくやの始まりは生ものの明太子とは全く関係のない乾物屋だという事実は驚きますよね。
さて乾物屋を営む傍ら俊夫は何かインパクトのあるものを売り出せないか考えます。
自身の思い出の味でもあり、妻千鶴子もあの味をもう一度食べたいと懐かしみながら明太子の話しをしていたことから、俊夫は韓国から明太子を取り寄せ販売を試みます。
しかし戦後の韓国でつくられていた明太子はかつての日本人向けの味ではなく、辛すぎて食べられない!と日本人には受け入れられませんでした。
妻に美味しい明太子を みんなに美味しい明太子を
「もう一度あの美味しかった明太子を妻に食べさせたい」そんな思いで俊夫は北海道からたらこを仕入れ、研究を開始します。
妻千鶴子に味見をしてもらいながら、長い月日をかけてようやく昭和24年(1949年)の1月10日に日本の明太子が商品化されました。(現在1月10日は明太子の日になっています。)
しかし…ここから10年明太子は一向に売れることはありませんでした。
福岡に一度は訪れたことがある人は、ふくやが店を構えている中州と聞くと、東京でいう新宿歌舞伎町のような繁華街を想像されるかと思います。
けれども俊夫が明太子を売り始めた戦後の混乱期は、現在の中州とは比べ物にならないくらい復興途上で、1匹の魚よりも高い上に得体のしれない明太子は贅沢品でしかなく、人々には見向きもされなかったのです。
それでも俊夫は諦めませんでした。
いつかはこの美味しさが人々に伝わるのではないかという確固たる自信があったのかもしれません。
そんな明太子は俊夫が生み出してから10年ほど経った昭和35年頃、活気を取り戻した中州の小料理屋などで酒の肴や珍味として重宝されるようになり、ついには福岡の人々の心を掴むことに成功しました。
そして昭和39年(1964年)の東京オリンピックを契機に交通網が発達したことから、東京でも明太子が流通し始めます。
こうして東京でも明太子は大人気となり、今日では明太子パンやパスタなど明太子を使ったメニューも次々に開発され、明太子は当たり前のように私たちの食卓に並ぶようになりました。
そして当初はふくやでしか販売されていなかった明太子は、現在100社以上のブランドでつくられています。
俊夫はふくやで明太子の商標権や特許を取得せず「美味しいものをもっともっと広めたい」「福岡の名産品として明太子を成長させていきたい」という想いで、同業者にも惜しみなくノウハウを教えていったそうです。
私たちが今、明太子を各家庭で日常的に食べられるのは、俊夫の懐の深さと温かい人柄があってこそだったというわけです。
時代は違えど明太子の誕生秘話は、以前記事に書いたもみじ饅頭の高津堂の元祖もみじ饅頭にも通ずるものがあるなぁと筆者は勝手に思っております。
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