ラフカディオ・ハーン「小泉八雲」は日本の文化を深く愛し、世界に広めました。そんな彼が「小泉八雲」へとなるに至るまでと、来日後の人生を追っていきます。
ラフカディオ・ハーン 日本へ帰化し「小泉八雲」に
ラフカディオ・ハーン「小泉八雲」(左)と妻のセツ(右)※1
ラフカディオ・ハーンは1891年11月、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校。校長は柔道の開祖・嘉納治五郎)の英語教師となり、熊本市へ移転。
そこで長男・一雄が誕生します(1893年)。
さらに1896年には東京帝国大学(現東京大学)の英文学講師に就職。
ついに日本の最高学府の教師にまで上り詰めることができたのです。
そもそもラフカディオ・ハーンは明治国家が迎い入れた厚遇されるべきエリートの「お雇い外国人」ではありませんでした。
たまたまアメリカの万国博覧会で巡り合った服部一三の紹介などから明治期の外国人教師の地位を得ることができたのです。
しかしラフカディオ・ハーンの授業は生徒に人気があったようで、こうした実績などから最高学府の教師という地位につくことができました。
そこで彼は日本に帰化することを決意します。
入婿という形(当時は入夫婚姻と呼ばれる)で正式に小泉節子と結婚し、以降は「小泉八雲」と名乗ることとなりました。
秋に牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居し、1902年(明治35年)まで在住します。
そして次男(1897年)、三男(1899年)、長女(1903年)が誕生し、彼は幸せな日々を送ることになります。
ところがその後、なぜか彼は東京帝国大学を退職してしまいました。
彼にその職を紹介した人物・外山正一の死が背景にあったといわれています。
外山正一は日本人初の東大教授、東京帝大文科大学長(現在の東大文学部長)を経て同総長、貴族院議員、第3次伊藤博文内閣の文部大臣などを務めた人物でしたが、1900年(明治33年)惜しくも51歳の若さで亡くなっています。
人気のあったラフカディオ・ハーンの退職に対し、東大の学生たちは大変嘆き悲しみ、遺留願を提出したと言われています。
なお後任として東大英文科の教師に就任した人物こそ、日本の近代文学を確立した明治の文豪、夏目漱石です。
ラフカディオ・ハーンは夏目漱石よりも17歳年長でしたが、二人には不思議な縁がありました。
夏目漱石が赴任した第五高等学校と東大英文科のそれぞれ先輩教師がラフカディオ・ハーンだったのです。
夏目漱石はラフカディオ・ハーンの日本文化への高い見識や造詣の深い文献を読み、彼を尊敬していました。
その後、ラフカディオ・ハーンは早稲田大学の講師を務めましたが、1904年(明治37年)9月、狭心症により東京の自宅で死去。
享年54歳でした。
ラフカディオ・ハーン「小泉八雲」が見ていた日本文化
ラフカディオ・ハーンはその不幸な前半生に比べ、来日後の彼の生涯は驚くほど穏やかで幸せなものだったと思われます。
だからこそ日本に帰化をしたのでしょう。
彼は、欧米列強による帝国主義を振りかざし植民地支配に邁進する世界で、またその世界の中、なりふり構わず富国強兵・近代化・欧米化に突き進む日本において、全く異なる視点から「日本文化を深く理解し世界へ広めた外国人」でした。
世界へ広めた彼の日本の文化・文化観とは、ひとことでいうと「キリスト教文化への嫌悪」と「日本の(神道的)文化の肯定」といったものではなかったでしょうか。
欧米列強がキリスト教をバックボーンとした近代文明を振りかざす中、キリスト教圏から訪れた彼は、唯一絶対の神と契約した人間が、異教徒も自然も征服しうると考えるキリスト教に懐疑を持ち、多くの神々の共存を認める神道や自然との共生を求める日本の風土・文化こそ大切な存在である、と主張した人だったのです。
熊本での「極東の将来」というタイトルの講演(1894年)でラフカディオ・ハーンは「日本の将来には自然との共生とシンプルライフの維持が必要」だと述べています。
「怪談」の主人公は、怨霊(耳なし芳一)や雪の権化(雪女)といった、人間が制御できない存在ばかり。
母の精神の病、自らの失明など、人間の力ではいかんともしがたい悲劇に遭遇してしまった彼にとって、キリスト教よりも、自然との共生を大切だと考える日本の神道的な世界、日本の文化に共鳴したのだと思われます。
ラフカディオ・ハーンの著書「日本の面影」
『知られぬ日本の面影』(しられぬにほんのおもかげ、Glimpses of Unfamiliar Japan )は小泉八雲が来日後初めて著した作品集。1894年に出版された。
日本語訳は他にも『知られざる日本の面影』(しられざるにほんのおもかげ)『日本瞥見記』(にほんべっけんき)などがある。
『怪談』『心』と並ぶ八雲の代表作の一つ。出雲地方と松江でのエピソードを中心に描かれている。
画像・出典: Wikipedia 知られぬ日本の面影
著書の中でラフカディオ・ハーンはこのように述べています。
「日本がキリスト教に改宗するなら、道徳やそのほかの面で得るものは何もないが、失うものは多いといわねばならない。これは、公平に日本を観察してきた多くの見識者の声であるが、私もそう信じて疑わない。」
「日本人は、野蛮な西洋人がするように、花先だけを乱暴に切り取って、意味のない色の塊を作り上げたりはしない。日本人はそんな無粋なことをするには、自然を愛しすぎていると言える」
「神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない、神道という存在に舌を巻くしかないのだ。」
「日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい」
ラフカディオ・ハーン『日本の面影』(1894年)より
しかし「欧米文化を忌避し日本文化を肯定して世界へ広めた外国人」ラフカディオ・ハーンが日本の良さを指摘したにもかかわらず、皮肉なことに、この後の日本は欧米化に突き進み、いつしか日本の文化の良さを忘れ、キリスト教の国々と全面対決、亡国の道をさまよい続けることとなってしまいました。
日本人が置き忘れた日本の文化を深く理解し世界に広めた外国人、ラフカディオ・ハーン「小泉八雲」の生涯、いかがだったでしょうか。
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カバー画像・画像※1
出展:Wikipedia掲載画像
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