戦う美少年はエリート貴族~北畠顕家

北畠顕家は東北の兵を率いて尊氏を京都から追い落としました
北畠顕家卿肖像

北畠顕家(きたばたけあきいえ)は鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代に活躍した人物です。公卿の家に生まれた顕家は幼い頃よりその才覚を認められ、異例の出世を遂げます。

建武の新政が始まると、東北地方に派遣されて今度は武将として功績を挙げました。そして足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、天皇側の有力武将として尊氏を一度は打ち破ります。

しかし勢力を盛り返した尊氏と再度戦うものの今度は敗れ、わずか20歳で戦場に散ります。

北畠顕家の肖像画。
北畠顕家

かつてNHKの大河ドラマ『太平記』(たいへいき)では、当時美少女として人気のあった後藤久美子さんが顕家を演じ話題になりました。

今回は短い生涯ながら濃密な人生を送った戦国の美少年、北畠顕家を紹介します。

北畠顕家の家系 「北畠家」とは

北畠親房の肖像画。親房は南朝を支えた政治家の一人です。
北畠親房

北畠家は村上天皇を祖先に持つ村上源氏の一家です。元々は学問をもって朝廷に仕える家でした。

顕家の父親房(ちかふさ)は博識をもって知られ、後醍醐(ごだいご)天皇の信任を受けて従三位権大納言(ごんだいなごん)に昇進します。

また後醍醐天皇の皇子の乳人(めのと)にもなっています。

ただし親房自身は後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の運動には直接参加していませんでした。

異例の出世を遂げる北畠顕家

後醍醐天皇の肖像画。
後醍醐天皇

北畠顕家は天皇からの厚い信頼を受ける北畠家に生まれ、異例のスピードで出世をしていきます。まず3歳で従五位下に叙任されると、14歳のときには従三位参議に任じられています。これは先例のないものでした。

参議とは現代にたとえれば内閣の一員くらいの位置づけでしょうか。

これは顕家が天皇からの寵愛だけではなく、才能豊かな少年であったことを示しています。

建武の新政と北畠親子

先述の通り北畠親房は後醍醐天皇による幕府打倒の企てには参加していません。これは乳人として養育していた皇子が死んでしまい、これを悼んで出家したためでした。

しかし実際には朝廷の高官になっていたまだ若い顕家を補佐していたでしょうから、親房と後醍醐天皇との間の連絡はあったはずです。

多賀城跡の様子。公園のようになっている。
顕家が当初拠点とした多賀城跡(出典:写真AC ゆぅーちゃんさん)

鎌倉幕府が滅亡し建武の新政が成立すると親房・顕家父子は戦乱の絶えない奥州(現在の東北地方)への下向を命じられます。

従三位という高い位の人間が都から遠く離れた奥州に派遣されるというのは異例のことです。

なぜ北畠親子は奥州に派遣されたか?

護良親王の肖像画。馬に乗り弓を引いている。
護良親王

この当時の奥州は鎌倉で滅んだ北条氏の残党や建武の新政に理解を示さない武士が多数おり、その鎮定を親子に託したのでした。

しかしその裏には朝廷内における勢力争いが関係していました。

後醍醐天皇の皇子の一人で倒幕に功があった護良(もりなが、またはもりよし)親王の一派と、自分と後醍醐天皇の間に生まれた子を後継者に据えたい三位局(さんみのつぼね)の一派の争いです。

三位局の肖像図。
三位局

詳細や経過は省略しますが、この抗争は三位局派が勝利したことにより護良親王とその一派は失脚します。

親房は親王の縁戚(母親が北畠家の出身)であり、またその正室が親房の娘であることから、親王と北畠親子を引き離す計略という一面があったのかもしれません。

奥州をまとめる北畠顕家

義良親王(後の後村上天皇)の肖像画。
義良(のりよし)親王(後の後村上天皇)は北畠親子とともに奥州に下りました。

都暮らしに慣れた貴族にとって、奥州の暮らしは大変なものであったと想像されます。また奥州の武士たちの統御は相当骨の折れるものだったことでしょう。

しかし顕家は奥州の荒くれ者たちを見事に服従させ、さらに自ら兵を率いて混乱の鎮定に乗り出します。そして津軽地方にいた北条氏の残党を掃討し朝廷から従二位に叙任され、鎮守府将軍の役職に任じられました。

源義家の肖像図。八幡太郎と呼ばれ源氏の棟梁としてその名を知られる。
八幡太郎の名で知られる源義家は平安時代に鎮守府将軍に任じられた一人です。

鎮守府将軍は従五位、従四位程度の位階の者が任ぜられる職であり、このあたりに(良きにつけ悪しきにつけ)先例を重視しない建武の新政の一面が現れています。

父親房は保守的な人物であり、顕家もその影響を受けて育っています。

したがってこの人事に顕家は不満があったようで、後に従三位以上の者が鎮守府将軍になる場合は、鎮守府大将軍と名乗ることができるように奏上して認められています

北畠顕家、足利尊氏を破る

足利尊氏の肖像画。室町幕府の創始者として知られる。
足利尊氏

関東で北条氏の残党を征伐した足利尊氏は後醍醐天皇からの命令に従わず関東に居座ります。これを謀反と捉えた天皇は新田義貞を総大将に征討軍を派遣しますが、返り討ちに遭います。

尊氏は勢いに乗って京都に進軍し、京都を占領することに成功します。

これに対して顕家は疾風の如く奥州の軍を進めて、尊氏軍を京都から追い落とします。

(足利尊氏についてはこちら:日本史上最悪だった男~足利尊氏もどうぞ)

北畠顕家 驚異の高速行軍!奥州大返し?!

足利直義の肖像画。直義は兄の尊氏を助け、政治を主導した。
足利直義

顕家は5万といわれる大軍を率いて、鎌倉にいた尊氏の弟直義を破り、さらに東海道の足利勢を蹴散らしながら約600キロの距離を約半月で走破しています。

これは一日平均約40キロという驚異的なスピードです。

これから約250年後、羽柴秀吉が明智光秀を討つために中国地方から京都に戻った、いわゆる「中国大返し」と呼ばれる強行軍が実施されます。この時は約200キロの距離を約10日で走破しています。

つまり一日平均約20キロという速度であり、顕家の行軍速度の半分です。

豊臣秀吉の肖像画。
豊臣(羽柴)秀吉

「中国大返し」の場合は、長雨による川の氾濫で行軍が妨げられた、背後の毛利軍の動きを警戒しなくてはならなかったなどの阻害要素がありました。とはいえ、そのほとんどの土地は自分の勢力圏であり、敵に横合いを襲われる心配はあまりありませんでした。

一方、顕家の場合は進軍路のほとんどが敵地です。そのような状況で顕家はなぜこのような高速での行軍ができたのでしょうか?

次のようなことが考えられます。

北畠顕家はなぜ高速行軍ができたのか?

1.奥州は馬の産地であり、騎馬による行軍だった。

奥州が名馬の産地であることは平安時代から知られており、それらが軍を形成していたものと考えられます。

馬が三頭並んで雪道を走っている。
出典:写真AC_ フランクさん

2.食料などは現地調達-つまり略奪-したため補給のことを考える必要がなかった。

食料などを運搬する部隊があると行軍は遅くなります。もっともこの当時兵站という考え方があったかどうかはわかりません。

『太平記』によれば顕家軍によってかなり激しい略奪が行われたとの記載があります。

しかしこの当時は軍が食料調達のために略奪を行うのは普通の事であり、顕家の軍ばかりが責められることではありません。

荷車に米俵が沢山積まれている様子。
出典:写真AC dejisyaさん

3.関東・東海は足利氏の勢力圏とはいえ、多くが尊氏に従っていたため組織的な抵抗が弱かった。

尊氏は大軍を率いて上洛していますから、多くの兵がそれに従い残った者は少数であったと思われます。

となると顕家が大軍を率いていて勝ち目がないこと、またその目的地が京都であること(つまり土地の占領を目的としていない)を知れば、攻められる側は逃げ隠れして軍が去ればまた土地に戻ればよいと考え、さしたる抵抗をしなかったのではないでしょうか。

4.背後を襲われることを考えなくてよかった。

相手の残兵が少なかったこと、またとにかく京都に進軍することが目的ですから余計なことを考える必要がなかった。

これらは推測にすぎませんが、この時代数万の人間が短期間でまとまって移動することは至難の業であり、顕家の行軍は歴史的快挙であったといえます。

北畠顕家、再度の上洛

顕家軍の力によって京都を回復した後醍醐天皇は顕家を権中納言に任じ、再び奥州に下り地域の安定を命じます。

なぜ顕家とその軍を都にとどめなかったのか?という意見もあると思います。

彼らは奥州からの遠征軍であり、いつまでも都に置いていておけなかったからでしょう。大軍を養うには大量の食糧が必要です。一歩間違えれば暴徒と化す危険もあります。

奥州に戻った顕家はこの地の足利方を掃討しますが、思わぬ報告が届きます。

新田義貞の絵。月岡芳年画。
新田義貞(月岡芳年画)

一度は敗れて九州に落ち延びた尊氏が捲土重来、京都を再び占領したのです。

しかも尊氏は湊川の戦いで天皇方の有力武将新田義貞(にったよしさだ)を敗走させ、楠木正成(くすのきまさしげ)を敗死させました。顕家たちが尊氏を破ってからわずか半年ほどの出来事でした。

比叡山に逃れた後醍醐天皇は顕家に再度上洛を命じます。しかしその当時顕家は簡単には動けない状況に置かれていました。

延暦寺根本中堂の様子。どっしりと風格漂う。
延暦寺根本中堂(写真提供:(公社)びわこビジターズビューロー)

関東は息を吹き返した足利方が勢力を回復しており、また奥州の一部でも建武の新政に不満を持つ武士たちが顕家の背後を脅かしていました。

それらを克服した顕家は尊氏の京都再占領から約1年後ようやく上洛の兵を進めることになります。

北畠顕家、再度上洛の軍を興す

騎馬軍団のシルエット
出典:イラストAC 歩夢さん

顕家は約10万といわれる大軍を率いて上洛の途に就きます。(ただし数字は誇張されている可能性あり)

まずは鎌倉で関東にいる足利軍を打ち破ります。そして東海道を行軍し、美濃(現岐阜県)で足利軍の主力を破ります。(青野原の戦い。ただし尊氏は従軍せず)

一方越前で勢力を固めていた新田義貞も京都を回復するべく活動していました。両者が合流すれば尊氏は再び京都を追われていたかもしれません。

しかし顕家は軍を京都に向けず南下して父親房がいる伊勢へと向かったのです。

顕家の行軍路。陸奥国府を出発し、鎌倉、美濃青野原の戦いを経て伊勢にいたっている。
北畠顕家のおおよその行軍路

北畠顕家はなぜ伊勢に向かったのか?

この北畠顕家が京都に向かわず、なぜ伊勢に向かったのかについてはいくつかの説があります。

1.今回の行軍は約4か月にわたっており、兵が疲弊しており休息を取らせるため。

青野原の戦いでは勝利したものの、味方も損害を受けたため伊勢の武士たちを集めて勢力の回復を目指したため。

2.軍功を巡る嫉視があったため。

(ア)公卿であり父同様身分秩序意識の高かった顕家が、義貞に軍功を挙げさせることをよしとしなかったため。これは『太平記』にそのような記述があります。

(イ)義貞の方も、自分より位階が高くまた後醍醐天皇の寵愛が深い顕家と合流すれば自分はその下につかざるを得ず、それをよしとしなかったため。

3.顕家の下に参じた北条氏の残党が義貞とともに戦うことを拒んだため。

義貞は鎌倉攻略の主将であり、北条氏にとっては仇敵でした。

4.義貞は越前の鎮定に奔走しており、京都に軍を送る余裕がなかったため。

など

ただし2.(ア)については、(イ)で書いたように顕家は従二位、義貞は従四位上とその差は明らかであり、顕家が義貞を嫉視することは考えづらく、むしろあったとすれば(イ)の方でしょう。

北畠顕家、散る

高師直の肖像画。
高師直(以前は足利尊氏とされていましたが、現在では高師直、または高氏一族の人物とされています。)

顕家は大和(現奈良県)や摂津・河内・和泉(現大阪府)に攻め込みます。しかし足利尊氏も大軍を送ったため顕家軍も以前のように華々しい勝利を挙げることが困難になっていました。

一進一退の攻防を繰り広げる中、顕家は高師直(こうのもろなお)率いる軍勢に敗れ落命します。

まだ20歳の若さでした。

北畠顕家上奏文

国宝でもある醍醐寺の金堂の様子。
醍醐寺金堂(出典:写真AC かいくうさん)

顕家は戦死する一週間ほど前に後醍醐天皇に対して政治的な意見を記した文書を残しています。この文書において顕家は建武の新政が失敗した原因を鋭く論じています

現在も醍醐寺に残された文書類である『醍醐寺文書聖教』(だいごじもんじょしょうぎょう)の中に含まれています。(原文ではなく写し)

醍醐寺に咲く桜の様子。醍醐寺は桜の名所としても知られており、秀吉が開いた醍醐の花見は有名。
醍醐寺の桜(出典:写真AC hiyoriさん)

具体的には、中央集権をやめて地方にしかるべき官吏(顕家のような)を派遣して統治をさせること、税を軽くすべきこと、贅沢を禁じること、恩賞として官位を与えてはならないこと、法令は厳しく運用すること、側近の佞臣(悪い家臣)を遠ざけることなどを指摘しています。

そしてこの文書には、この意見が聞き入れられない場合、自分は天皇の下を去るという悲壮な覚悟で結ばれています。

20歳の青年顕家の現状に対する強い危機感・憤りが感じられます。

風林火山と北畠顕家

「風林火山」の旗印。孫氏の兵法を由来とする。
風林火山の旗印(写真AC Diamondtearsさん)

「風林火山」といえば武田信玄のイメージがありますが、顕家が先に「風林火山」の文字を旗印にしていたといわれています。

ご存知の方も多くいらっしゃるでしょうが、この「風林火山」の起源は中国の兵法書『孫子』の一節です。

疾如風(はやきこと風の如し) 徐如林(しずかなること林の如し) 侵掠如火(しんりゃくすること火の如し) 不動如山(うごかざること山の如し)

北畠顕家の容貌

『舞御覧記』(まいごらんき)という書に顕家の容貌についての記述があります。

形もいたいけして、けなりげに見え給いに(意訳:幼くかわいらしいが、堂々としている)

とあります。これはまだ顕家が幼い頃に後醍醐天皇の前で舞を披露したときの記録といわれていますので、少年時代のことです。

青年期いかなる容貌であったかはわかりません(現在残されている肖像画は後世描かれたものです)が、きっと涼やかで凛々しい好青年であったことでしょう。

北畠顕家死後の南朝

天秤が左に傾いているイラスト
出典:イラストAC K-factoryさん

顕家の死は南北朝の軍事バランスを北朝有利に傾けました。この後北朝の内紛によって一時的に勢力を回復することはあったものの、南北朝が統一されるまで南朝は終始押されっぱなしの状態で続くことになります。

そして楠木正成らと同様に歴史の中に埋もれた存在になっていきました。

北畠顕家の復権

大阪あべのハルカスからの眺望。
大阪のランドマークあべのハルカスからの眺望(出典:写真AC Harrieさん)

しかしそんな顕家も突然脚光を浴びる日がやってきます。明治維新による歴史観の変化です。

明治維新は天皇を中心とした国家を目指したものであり、同じく天皇親政を目指した建武の新政を讃える歴史観が正統とみなされるようになりました。

顕家の戦没ゆかりの地に阿倍野神社(あべのじんじゃ、大阪市阿倍野区)が創建され、顕家が陸奥国府を置いた地に霊山神社(りょうぜんじんじゃ、福島県伊達市)が創建されました。

楠木正成と北畠顕家

楠木正成の肖像画。
楠木正成

同じ南朝の武将に楠木正成がいます。

この二人を比較した場合、圧倒的に楠木正成のほうが、知名度が高いようです。それはなぜなのか考えてみました。

1.生まれの違い

顕家が生まれながらの貴族であったのに対し、正成は河内の武士ということで正成の方が、身分が低かった。(低かったとはいっても正成は実力を有していましたが)

2.戦い方の違い

顕家が大軍を率いて敵を破ったのに対し、正成はわずかな兵で敵の大軍を負かすといった日本人好みの爽快感があった。

彼らが有名になった土壌には、臣民たるもの天皇(国家)に忠誠を尽くすべきことを刷り込むという明治政府の意図がありました。

東京の皇居前にある楠木正成像。
皇居前にある楠木正成像(出典:写真AC TECHDさん)

より庶民に近い立場で、そして庶民が感情移入しやすいエピソード(千早城攻防戦や桜井の別れのような)がある正成を前面に押し出した方がわかりやすかったから、というのが真相ではないかと思います。

現代なら若くてイケメン、悲劇のヒーローとして顕家を取り上げた方が人気を集めそうですけどね(笑)。

美少年なだけではなかった早熟の天才、北畠顕家

北畠顕家の肖像画。どっしりと座っている。
北畠顕家卿肖像

北畠顕家の政治手腕、軍事指揮官としての手腕といい、実力は敵対する足利尊氏に見劣りしません。

しかし顕家は生まれながらの公卿であり、後醍醐天皇(南朝)に批判的な意見は持ちつつも従わざるを得ない立場でした。

短い生涯ながら顕家の業績は古今の名将たちに肩を並べるものといえるでしょう。

執筆:Ju

4件のコメント

私の祖先は北畠親房と亡き父が言っていました。
本家が系図を紛失した事で明確では有りません。
先日北畠神社へ参拝に行きましたが、機会があれば伊達市に行きたいと思っています。また、詳細なルーツを調べたいと思っています。
情報ありがとうございました。

私の祖先も北畠顕家公の軍隊に従って関東や京都と東北を往来していたのではないかと言う記録が残っています
3年ほど前大阪の阿倍野神社に参拝し北畠顕家公の像に向かって首を垂れました
その際若干の寄付をしたたところ宮司さんがぜひ話をしたいと言うことで祖先の話をしましたところそれは間違いない事実であろうと言うお話を受けました
14歳で参議と言う朝廷の重要職に就いており
明治時代にその職名は廃止になったので歴史上最年少記録は永久に破られないと言うことです
その年は顕家公生誕700年であると記憶しています

Guidoor Media | ガイドア メディア編集部です。多くの記事の中から当記事をご愛読いただきありがとうございます!
普段お聞きすることのできない、貴重なお話をお伺いさせていただきまして、編集部一同大変嬉しく存じます。
今後も良い記事を発信していけるよう努めてまいりますので、これからもGuidoor Mediaを何卒よろしくお願いいたします。

初めまして。私の父方の祖母は、北畠家の分家からお嫁に来た人で、良く私が小さい頃祖母は、自分の父親の事を話してくれたのを今でも覚えています。叱られると刀を、持って追っかけてきたそうです。その祖母の、本家は青森市浪岡(旧、南津軽郡浪岡町)に、北畠城祉だそうですが、祖母の実家は、北津軽郡板柳町俵舛(たわらます)で、今でも笹りんどうの家紋と、何故か、白いタンポポが咲くそうです。私も子供の頃、祖母に連れられて、泊まりに行ったことが有ります。祖母の命日が7月9日だったので、検索してみました。ありがとうございます。

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