130年以上の歴史 知られざる手袋ヒストリー
「うどん県」と呼ばれるほどうどんが有名な香川県。
実は香川県には知られざるもう一つのジャパンクオリティ「手袋」があったのです。
今回は知る人ぞ知る「香川の手袋」の歴史に迫っていきましょう。
実は生産量日本一「うどん県」は「手袋県」でもあった
皆さん香川県と言ったらまず何を思い浮かべますか?「うどん」「瀬戸大橋」「小豆島」。
様々な魅力が詰まった県ですが、「手袋」の生産量が日本一!!というのは実はあまり知られていないのではないでしょうか。
手袋が香川県に根付いたのは遡ること130年以上昔。
月日が流れ現在では、義手に対応する手袋を研究していたり、革手袋の技術を生かしたメイドインジャパンのバッグを制作していたり。
常にジャパンクオリティの価値を保ちながら、香川の手袋産業は進化し続けているのです。
そんな日本を代表する手袋は、香川県の東端「東かがわ市」で作られています。
東かがわ市は、温暖で降雨量も少なく、まさに瀬戸内海式気候と呼ばれる地域で、他地域のように水稲や農業に頼ることは難しい土地でした。
そのため人々は、古くから乾燥に強い砂糖や塩をつくることで生計を立て、明治期に入るまで、「讃岐三白」と呼ばれる塩・綿・砂糖の代表的な産地として繁栄していたのです。
このような土地でなぜ、手袋が生まれたのでしょうか。
そこには驚くべき史実が残されていました。
駆け落ちから始まった手袋の歴史
時は明治の中頃。
東かがわ市に今もある千光寺の副住職であった一人の青年、両児舜礼(ふたごしゅんれい)。
彼は寺の近くに住んでいた三好タケノ(のちの明石タケノ)に恋をしました。
12歳で仏門に入った彼が、全てを捨ててでも一緒になりたかったタケノはきっと非常に魅力的な女性だったのだと思います。
しかし当時の日本は自分たちの意思で結婚することは疎か、ましてや身分の違う者同士の恋愛など認められるような社会ではありませんでした。
そのようにして二人は故郷を離れ、駆け落ち同然で大阪に移り住むことを決めたのです。
余談ですが、舜礼とタケノの年の差は15歳も離れていたようで、駆け落ち当時舜礼は34歳タケノは当時まだ19歳。
若くても自分の意志がしっかりとある女性だったからこそ、舜礼に身一つでついていく覚悟があり、その後の激動な人生を生き抜いていけたのかもしれません。
acworksさんによる写真ACからの写真
そんな二人でしたが知らない土地での生活は予想をはるかに超えて厳しく、愛だけでは食べていけず、日々の生活を維持するのはとても大変でした。
二人は必死で生活費を稼ぐ術を考え、舜礼は托鉢を行い(信者の家々を巡り、生活に必要な最低限の食料を乞う修行。) タケノは近所でメリヤス製品の縫製を手伝うことになりました。
しばらくして、托鉢だけでは食べていけないと考えた舜礼は、タケノが従事していた縫製業の「メリヤス」に注目します。
明治21年舜礼は、船場商人を通じて当時の「手靴」と呼ばれていた手袋が良く売れるという確信を得て、メリヤス手袋の製造に専念することを決意します。
当時の手袋は指無しの手袋で一つ一つ型紙に合わせて鋏で切り取り、手回しミシンで縫うという大変手の込んだ作業で、大量生産は難しいものでした。
それでも舜礼は、メリヤス手袋は今後更に需要が高まるということを見越して、事業の拡大に踏み切っていくのです。
舜礼が注目した「メリヤス」ですが、最近ではなかなか聞きなじみのない言葉かと思います。
メリヤスとはメリヤス編みで編んだ生地の総称で、現在ではニットという言葉に転換されつつあります。
語源はスペイン語の「medias」ポルトガル語の「meias」だと言われていて、いずれも靴下という意味です。
この編み方は、伸縮性に大変優れているため、靴下や下着類に適し、手袋という日常的に使う衣料品にもぴったりな布地です。
また、一説には、機械で編んだものをメリヤス、手編みで編んだものをニットと呼ぶこともあるそうです。
決して毛糸で編んだからニット(メリヤス)というわけではなく、糸をループ状(輪っか)に編み上げた布地を総称するもの全てがニットであるということは、筆者も初めて知り驚きました。
突然の別れ 発案者の遺志を継いだ一人の青年の活躍
さて、明治24年メリヤス手袋に着手し始めた舜礼は、父の仏事で帰郷した際に、従兄弟の棚次辰吉(当時18歳)と妻タケノの親類寺井カネ(当時18歳)、六車ルイ(当時19歳)を大阪へ連れて帰り、事業拡大を目指しました。
3人が経営に加わることで、ますます手袋製造は活気に満ち溢れ、順風満帆!かのように思われましが、突然の不幸が襲います。
翌年の明治25年、発起人の舜礼は脳涙結昌病という珍しい病で急死するのです。
舜礼は39歳という若さで愛するタケノを一人残し、志も半ば、短い生涯を閉じることになり、まさかの主人公が帰らぬ人となったことで手袋事業は急展開を迎えます。
未亡人となったタケノを支え、舜礼の後継者として舵を取ったのは、事業を一緒に行っていた従兄弟の棚次辰吉でした。
手袋事業を軌道に乗せるまで、大根の漬物だけがおかずの貧しく辛い日々もありましたが、舜礼の遺志を継ぎ、辰吉は大阪で手袋事業の成功を収めることができました。
そんな中、舜礼、タケノ、そして辰吉の故郷でもある東かがわ市では、今まで同市の産業の大部分を占めていた製糖業や製塩業が衰退し始め、人々の生活は苦しくなってきていました。
この状況を危惧していた同市にある教蓮寺の住職楠正雄は、大阪で勢いのある辰吉に東かがわ市の今後を相談しました。
辰吉は相談を受け、地元の産業を支える要(かなめ)の存在として手袋事業を東かがわ市で展開していくことを決意します。
そこで辰吉は故郷に戻り、タケノと共に教蓮寺の境内に手袋の製造所「積善商会」を開設したのです。
このとき明治32年。舜礼とタケノが身一つで駆け落ちしてから13年の月日が流れていました。
こうして手袋が東かがわの地に根付いていくこととなったのです。
その翌年明治33年、辰吉はドイツの飾縫手袋からヒントをもらい「軽便飾縫ミシン」を発明します。
このミシンは専売特許を得て、第5回内国勧業博覧会にて褒章を受けました。
辰吉は事業家として広い視野を持ち、海外に視察に行くなど積極的に東かがわ市の手袋産業の発展に力を入れるだけでなく、その後もセーム(シカやヤギなどの皮を柔らかくなめした革)加工機、手袋仕上機、手の大きさ測定器など、24種類にもわたる特許権を取得し、欧米諸国の先進技術を一早く取り入れるなど発明家としても大きな功績を残しています。
手袋事業のさらなる発展
大正時代に入り、第一次世界大戦がはじまると、ヨーロッパ商品の輸入が途絶えたため、日本では紡績・織布・製紙製品の輸出が一気に増加しました。
この大戦景気の影響を手袋事業も受け、大量の注文が入りました。大量生産に対応するため、多くの手袋工場が設立されていき、香川の手袋事業は急速に成長していきます。
その後第二次世界大戦下では繊維統制が敷かれたため一時的に繁栄が阻止されますが、終戦後は高度経済成長の煽りを受け、手袋生産地世界1位のアメリカ合衆国を抜き、とうとう東かがわ市が世界一の生産地として君臨したのです。
その後もゴルフブームやスキーブームにあやかりスポーツ用の手袋の需要が増えたり、ビニール手袋の生産により海外進出が軌道に乗っていったり。
常に時代の変化に順応に対応しながら、東かがわ市は手袋とともに発展し続けています。
また手袋の発起人であった「両児舜礼」の碑と、彼の想いを東かがわ市の発展という形で実現した「棚次辰吉」の銅像が手袋公園(白鳥神社)に建てられ、東かがわ市の産業を支えた人物として今も尚、人々に崇拝されています。駆け落ちから始まったラブストリーが、一つの市の産業の発展に繋がるという珍しくもとてもロマンチックな歴史。
生きていくためにアイデアを出し、人の手で何かを生み出していくという流れにジャパンクオリティの真髄を見た気がします。
手袋の歴史
東かがわ市の産業を担う「手袋」。そもそも手袋とは一体いつからあったのでしょうか?世界と日本の手袋の起源をここでは紹介します。
昔から防寒具として使われてきた世界の手袋
古代ギリシアやローマの歴史的記述の中にも手袋はたびたび登場し、エジプトの壁画にも手袋は描かれていました。
その時代からすでに、寒さを凌ぐ防寒具として使われていたようです。
中世に入ると女性のファッション小物として、絹やリネンでできたロンググローブが台頭していきます。
また、愛情のしるしとして騎士が女性にもらった手袋をカブトや帽子の中に入れていたり、決闘の申し込みとして相手に手袋を投げつけたり。
海外では手袋一つで様々な意味を成していたことが伺えます。
さらには宗教的な儀式の際に、神聖なものとして重要な役割を果たしており、その伝統は今も受け継がれています。
日本の手袋の始まりは篭手
篭手
一方日本の手袋の始まりは、鎌倉時代に武士が着用していた「篭手(こて)」が始まりと言われています。
1700年ごろには革の手袋が使用されていたという史実も残されていて、これが最古のものだそうです。
江戸時代に入りオランダをはじめとする欧米諸国からメリヤス手袋が輸入され、一般に知られるようになったことで、舜礼も前述のとおり着目しました。
今日まで変わらず俳句の冬の季語としても、「手袋」は親しまれています。
革手袋の魅力 お気に入りを見つけよう
メリヤス手袋で始まった香川の手袋産業ですが、現在最も多く作られているのは革の手袋です。
革手袋の良さは、保温性が高いのはもちろんですが、手の動きに合わせて伸縮自在な柔らかさもあること、さらに動物の皮膚である革には毛穴があるため長時間着用しても通気性が良く蒸れにくいというメリットがあります。
保温と通気性は真逆の様ですが、両面を兼ね備えている革の手袋は極寒の冬には無敵な存在です。
用途や自分の付け心地に合わせて好きな革を選ぶ
革の手袋と一言で言っても、様々な種類の革があります。ここではその中の代表的な数種類を見ていきましょう。
きめ細やかで手触りが良く高級感があります。伸縮性が高いのが特徴です。
フランス語ではムートン(羊の革)。ムートンというとブーツの素材にも多いので、なじみ深いかと思います。かわいらしいデザインに向いていて、肌に吸い付くような手触りが特徴です。
細かく滑らかな質感ですが、丈夫で耐久性に優れています。吸湿性と通気性も良いので、雨天時にも使用可能です。
耐久性があり、最もポピュラーな素材。アウトドア用の手袋や野球グローブに用いられることが多い革でもあります。
他にもピッグスキン(豚革)やペッカリー革など、ここでは紹介しきれていない革の種類は盛りだくさんです。
用途や自分の付け心地に合わせて好きな革を選んでみてください。
サイズ選びと縫製のポイント
革の種類や色、デザインなどを見比べてお気に入りを見つけたら、試着してサイズ感を確かめることも大切です。
革は使い込んでいくうちに馴染んでくるので、最初は少しきついかなと思うくらいのサイズを選ぶことが大切なポイントです。
またサイズが大きすぎるとその分フィット感がなくなり、保温力も下がってしまうので要注意です。
欲を言えば、縫製のステッチ(縫い目)も意識して見るとさらに自分好みの手袋に出会うことが出来ます。
薄手の革はもたつかずエレガントに見えるようにステッチも内側にあるのに対し、厚みのある革はあえて外側にステッチを入れている場合があります。
ステッチ一つで付け心地と見た目が変わるので、面倒でも手袋は試着することをお勧めします。
ジャパンクオリティに触れる
伝統技術で革選びから裁断、そして縫製から仕上げまで行われているジャパンクオリティのぎゅっと詰まった手袋は、海外でも人気でファッションのコレクションと同様、季節を先駆けて毎年斬新で洗練されたデザインを発表しています。
最後にご紹介するのは2000年まで実際に手袋工場として使われていた建物に、手袋をアートとして展示している「東かがわ手袋ギャラリー」です。
ミシンなどが当時の様子を再現して並べられているほか、手袋が美しいアートとして建物を引き立て、心地の良い空間を作り出しています。舜礼とタケノのラブストーリーを胸に秘めながら、東かがわを旅してみませんか?
住所:香川県東かがわ市引田2161-2
TEL:0879-33-5055
営業時間:10:00~16:00
新型コロナウイルス感染予防のため当面の間、土曜日、日曜日、祝日のみの営業
定休日:水曜日
料金:無料
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執筆:Honami
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