大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公明智光秀(あけちみつひで)。その光秀が築いた城の一つが福知山(ふくちやま)城です。築城当時は明智の姓から「福智山」と命名されましたが、光秀没後に「福知山」と改名され現在は地名として名前が残されています。
光秀の支配下にあったのはわずか数年でしたが、善政を布いたことから地元の人たちからは現在も慕われているそうです。
今回は光秀の時期を中心に福知山城を紹介します。
明智光秀については、こちら:敵は本能寺にはいなかった?~明智光秀の生涯もどうぞ。
織田家家臣明智光秀
出世頭明智光秀
明智光秀は織田信長配下の武将として順調に出世を遂げていました。近江に領地を与えられ、琵琶湖畔に坂本城を築きます。
これは信長配下としては初のことでした。柴田勝家(しばたかついえ)、佐久間信盛(さくまのぶもり)ら先輩格はもちろん、同じく出世頭であった羽柴秀吉(はしばひでよし)も許されていないことでした。
そして光秀は信長から丹波国(たんば、現京都府と兵庫県の一部)の攻略を命令されます。
丹波国には大きな大名はおらず小豪族が乱立しており、それが却って攻略を困難にしていました。また山が多いため大軍が動かしにくい地形でもありました。
信長が光秀の手腕を見込んでの人事だったのでしょう。
丹波平定を成し遂げた明智光秀
当初は赤井直正(あかいなおまさ)、波多野秀治(はたのひではる)ら小豪族連合の頑強な抵抗に手を焼きますが、約5年の歳月をかけて征服に成功します。
5年って時間かかりすぎじゃない?という声もあると思います。
この間光秀は丹波攻略に専念できたわけではありません。しばしば信長の命により各地に援軍として赴いており、まさに馬車馬のように働いています。
波多野氏との戦いにおいて、自分の母を人質に出して和睦を結んだ光秀が約束を守らなかったため母が殺されたという話が伝えられていますが、これは事実ではないことが現在では明らかになっています。
固い信頼に結ばれた信長・光秀主従
信長は光秀の功績を後に次のように絶賛しています。
丹波での光秀の働きは天下の面目を施した
また光秀も信長への忠誠を誓う文書を残しています。
瓦礫(がれき)のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない
しかしこれだけの強い信頼関係があったにもかかわらず、光秀はこの書状を書いた翌年に本能寺の変を起こしています。
明智光秀、福智山城を築く
丹波の平定が終わると丹波の有力豪族の一人塩見(しおみ)氏の城であった横山城を大幅に改修して、名も福智山城と改め丹波支配の拠点にしました。
ただし光秀自身は相変わらず坂本城を本拠地としていたため、この城には光秀家臣の明智秀満(ひでみつ)が城代として入っていました。
福智山城の特徴と言えば石垣でしょう。「野面(のづら)積み」と呼ばれる工法で、石垣を形成する石には寺院で使われていた五輪塔などが大量に使われており、それが外見ではっきりとわかります。
これは自分に反抗的な寺院を破壊して城の石垣の材料にすることによって、権威を示すための行為であると考えられています。
明智秀満
明智秀満(ひでみつ、または光春)は光秀傘下の重臣の一人で、左馬助(さまのすけ)の通称で知られています。出自については不明ですが、明智氏の一族ではないかというのが有力なようです。
秀満は光秀の娘を妻に迎えており、その信頼の厚さから有能な武将であったことがうかがわれます。
事実、本能寺の変後の秀満の振る舞いは立派なものであり、秀満の武士としての潔い態度についての美談がいくつか残されています。
光秀の福智山での政治
光秀は減税を行い、楽市楽座を設け、たびたび氾濫する由良川の治水事業を行った(明智藪)ことから領民に慕われたそうです。
その光秀を祭神とする神社が福知山市内にあります。それが御霊(ごりょう)神社で、18世紀初頭に光秀の福知山での善政を讃えて創建されました。
先述の信長への忠誠を誓う文書は「明智光秀家中軍法」で、この神社に納められています。
そこには「謀反人=悪人」明智光秀のイメージは微塵も見えません。
その後の福知山
ご承知の通り光秀は本能寺の変で主君織田信長を討ちますが、その11日後に自信も羽柴(豊臣)秀吉に討ち取られてしまいます。いわゆる「三日天下」です。
福知山城も秀吉軍に攻略されて陥落、光秀の治世はわずか3年ほどで幕を閉じます。おそらくこのタイミングで「福智山」は「福知山」になったものと思われます。
江戸時代になり福知山城を居城としたのは有馬豊氏(ありまとようじ)です。豊氏が久留米に転封されて後に朽木氏の居城となり幕末を迎えます。
有馬豊氏についてはこちら:二つの「有馬」には関連がある?~有馬温泉と有馬記念もどうぞ
そして福知山城は明治初期の廃城令により解体されてしまいました。
現在の天守は1986年に再建されたもので、多額の寄付があったそうです。こちらは現在郷土資料館として開放されており、光秀ゆかりの品々を見ることができます。
福知山の街は光秀が拠点として以来、江戸時代そして現代も関西と山陰を結ぶ拠点として重要な役割を果たしています。
観光情報
福知山城
電話:0773-23-9564
住所:福知山市字内記5
料金:大人330円、子ども110円
時間:9~17時(入館は16時30分まで)
休館日:毎週火曜日(祝日の場合は翌日)/12月28日~31日/1月4日~6日
駐車場:70台
御霊神社
電話:0773-22-2255
住所:福知山市西中ノ町238
料金:拝観無料
時間:拝観自由
駐車場:なし
執筆:Ju
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