山田方谷(やまだほうこく)という人物をご存知でしょうか。
幕末に備中松山藩(現在の岡山県高梁市)に生まれた方谷は若い頃から学問に打ち込み、その才により藩に学問の教授として取り立てられ、後に藩政を担って破滅寸前の藩財政を立て直すなどの功績を残しました。
またその思想は多くの同世代人に影響を与え、「備中聖人」と呼ばれています。今回はそんな人物を紹介していきたいと思います。
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山田方谷が学んだ学問「朱子学と陽明学」
山田方谷の人物を紹介する前に、方谷が学びその政治理念の根底にある学問について触れておく必要があります。ただしこのことを本気で取り上げると何万字をもってしても語りつくせませんので、ごくごく簡単に取り上げます。
江戸時代を通して「学問」といえば朱子学のことを指します。
江戸時代の学問「朱子学」
朱子学は中国南宋時代の朱熹(しゅき)が大成させた儒教の学問体系です。それに対して陽明学は中国明の時代に朱子学の限界を感じた王陽明が唱えた儒教の学問体系です。
非常に簡単に言ってしまうと、朱子学は学問を学び知識を積めば聖人の域に到達できるというものです。つまり朱子学は儒教の教えをしっかり学べばよいということです。
儒教には上の者には従えという、当時の支配階級にとっては都合の良い理屈が含まれていたため、江戸幕府も朱子学を官学、つまり幕府公認の学問としていました。
山田方谷が朱子学を学んだのちに出会った「陽明学」
それに対して陽明学は、人間にはもともと聖人と同じ心が宿っているのだから、学問によって心を育て、自分の心を信じて行動をすることで聖人の域に到達できるというものです。
つまり陽明学は自分に善悪の基準があるので、自分が悪いと思えば上の者に反抗することが許されます。これは支配階級にとっては必ずしも都合の良いものではなかったため、陽明学は幕府に弾圧されることもありました。
山田方谷は朱子学を学んだのちに陽明学に出会ったため、両者の長短をよく理解していました。特に陽明学については自分がよこしまな心をもって事に当たれば、その結果が公のためにならないことをわかっていました。
ですから方谷は弟子たちに望まれても、まずは朱子学をきっちり学ぶように説いて簡単には陽明学を教えなかったそうです。
「簡単に」と書いておきながら序文が長くなってしまいました。
山田方谷と学問の出会い
山田方谷は備中松山藩に生まれます。備中松山藩は備中国、現在の岡山県の一部を領有していた藩です。方谷の生家はかつて武士の家でしたが、彼が生まれた当時は没落し、菜種油を製造・販売を生業とする家でした。
方谷は5歳の頃から朱子学を学ぶようになり、20歳になると備中松山藩から優秀さを認められ武士の身分を与えられ、藩校「有終館(ゆうしゅうかん)」の教授に抜擢されました。
そして山田方谷が29歳になると江戸に留学し、ここで陽明学と運命の出会いを果たします。方谷が通った塾には幕末の傑物と言われた男がいました。
その名は佐久間象山(しょうざん、またはぞうざん)。
佐久間象山は後に洋学にも通じるようになった才気溢れる人間で、坂本龍馬や吉田松陰もその門下で学んでいます。
方谷はこの象山としばしば激論を戦わせていましたが、常に象山を言い負かしていたと言われています。
山田方谷、備中松山藩の財政改革に乗り出す
山田方谷は江戸の留学を終えると備中松山に戻り、再び藩校で教鞭を執るようになります。また自宅で「牛麓社(ぎゅうろくしゃ)」という私塾を開き、武士以外の階級の人々にも学問を教えるようになります。
方谷が45歳になると、備中松山藩主の座に板倉勝静(いたくらかつきよ)が就きます。
この当時備中松山藩は石高5万石ながら実質2万石程度の収入しかなく、藩の借金は10万両(現在の貨幣換算で数百億円相当)にも及んでおり、財政は破綻寸前というか破綻していました。現在でいうと財政再建団体でしょうか。
板倉勝静はこの状況を打破するためには大胆な藩政改革が必要であることを感じていました。そこで勝静は山田方谷を登用して改革に当たらせようと元締役という役職に任じようとします。
しかし方谷は「農民出身の自分がそのような地位に就いても誰も従わないでしょう。」とその申し出を一度は拒否しますが、結局勝静の熱意に負け元締役に就任し改革に着手することになります。
山田方谷の財政改革、その考え方~「理財論」と「擬対策」
「理財論」義を明らかにして利を計らず
「理財論」は山田方谷の経済改革におけるキーワードで、中国前漢の時代の儒者董仲舒(とうちゅうじょ)の「義を明らかにして利を計らず」という言葉に則り改革を進めました。
簡単に言えば目先の小さなその場しのぎの「利」を追うのではなく、綱紀や法令を整えるという「義」を明らかにすることによってそれを基準にして物事を分別すれば自ずと本当の「利」が手に入る、ということでしょうか。
「擬対策」公明正大な政治
「擬対策」は方谷の政治改革におけるキーワードです。賄賂政治がまかり通り、武士たちの度を超えた贅沢が財政を圧迫している要因と考えた方谷は、清廉な政治が必要であることを説いています。
支配層である武士が民を大切にすること、それが政治の要諦であるということを信念として改革を推進します。
山田方谷の改革~9つの具体策
1.借金返済期限の延期と利子の免除
備中松山藩にあったのは10万両の借金ですから、その利子返済だけでも大変な額でした。そこで山田方谷は債権者である大坂の商人のもとに自ら足を運び、藩財政の実情、今後の改革の具体策を提示して返済年限先延ばしを要請しました。
身分制度の厳しい世の中でしたから、居丈高に「返せぬものは返せぬ」と開き直ることもできたのでしょうが、それでは「義を明らかにして」とはかけ離れてしまいます。
そこで方谷は正直に実情を語り、頭を下げたことで返済期限の50年延長と利子の免除を認めてもらうことに成功しました。
2.「産業振興」備中松山藩特産品の生産を奨励
山田方谷は財源確保のための産業振興策として、備中鍬(びっちゅうぐわ)・タバコ・茶・和紙・柚餅子(ゆべし)などの特産品の生産を奨励して専売制を導入しました。
専売制を敷くことによって藩のみが多大な利益を上げるのが普通ですが(つまりは生産者を奴隷的に扱う)、方谷は生産者に利益が渡ることを重視しました。このため生産者の高いモチベーションを生み出してそれが生産性・生産量の向上につながるという良いサイクルができました。
3.特産品の「流通改革」で収益を増やす
従来上記の特産品は大坂に送られて商人の手により委託販売されていたため、手数料がばかになりませんでした。
そこで山田方谷は直接これらの商品を江戸に輸送して、江戸藩邸において近郊の商人に販売することによって、手数料を大幅に減らすことで高い収益を確保しました。
改革が順調に進んだ後には、藩で蒸気船を購入して輸送まで自前で行うようになります。
4.「通貨改革」藩札の信用を回復
この当時、多くの藩では「藩札」と呼ばれる藩独自の紙幣を発行していました。備中松山藩でも発行していましたが、財政難によって藩札を乱発したため価値が暴落しており、このことが財政悪化にさらに悪い影響を与えていました。
山田方谷は藩札を額面通りの金額で通常の貨幣と交換しました。そして集めた約1万2千両に相当する古い藩札を公衆の面前で焼き払いました。
そして財政状況に応じて新たな藩札を発行することを宣言しました。藩は要求があれば藩札を通常の貨幣に交換することを約束し、藩札の信用回復を図ったのです。
5.質素倹約「賄賂・接待の禁止」
山田方谷は家中に質素倹約を命じて上級武士といえども贅沢な暮らしをすることを禁じました。また領民から賄賂・接待を受けることを禁じました。
これに先立ち方谷自身も家計を第三者に任せて、方谷が賄賂を受け取っていないことを透明化し、明らかにするため自らの会計を公開しています。
6.「屯田制の導入」国境警備と農地開拓
山田方谷は下級武士を国境に配置して、国境警備に従事させるとともに農地開拓をさせました。方谷自身も辺境に移住をして自ら鍬をとり率先して開拓を行うかたわら、「長瀬塾」という私塾を開いて教育にも力を入れました。
7.教育の充実と階級の垣根を超えた人材登用
山田方谷は武士だけでなく領民への教育にも力を入れました。備中松山藩の寺子屋などの教育機関の数は周辺の藩よりはるかに多かったといわれています。そして農民や町民でも優秀な人材であれば積極的に藩士に取り立てました。
8.「公共事業の実施」インフラ整備と領民の収入源を捻出
山田方谷は道路の整備や農業用水の確保などの公共事業を行ってインフラを整備するとともに、貧しい領民をこれに従事させ、彼らの現金収入の道を拓きました。
9.軍の改革と近代化
山田方谷が行なった藩政改革のなかには軍の改革も含まれていました。若い藩士や農民から志願兵を募り洋式の軍隊を整備します。これを手本にしたのが幕末の長州藩を支えた奇兵隊などの諸隊であるといわれています。さらに大砲の鋳造なども行っています。
このような軍制改革については、方谷は自ら他藩に出向いて学んでいたそうです。
「山田方谷」藩の財政を立て直す〜命を狙われても信念を曲げず
山田方谷はこれら多くの改革を実施し、備中松山藩の財政を立て直すだけではなく、領民の教育や生活の向上にも取り組みました。
方谷の改革は当然のことながら、既得権益を持つ者にとっては面白くありませんし、武士の多くは収入が減りました。また武士が畑仕事に従事するなど論外であると反発する若い武士もおり、ときには命を狙われることもあったそうです。
しかし方谷は自らの信念を決して曲げることをせず改革を推し進めます。その背後には藩主勝静の「方谷の言うことは私の言うことである。」という絶対的な信頼がありました。
方谷自身も改革によって生活が苦しくなりましたが、意にも介しませんでした。
これらの方谷の大改革によって藩財政は立ち直りました。実質2万石といわれた藩の収入は20万石にもなり、10年程度で藩の借金は完済され、さらに10万両の蓄財ができました。
「山田方谷」と備中松山藩藩主「板倉勝静」
備中松山藩藩主、板倉勝静はなぜこれほどまでに山田方谷という人物を信頼したのでしょうか?
方谷が40歳の頃、22歳の勝静を藩校で教育します。勝静は他家からの養子でした。しかもその祖父は寛政の改革で知られる松平定信(さだのぶ)であり、その定信の祖父は8代将軍徳川吉宗です。
おそらくこのような血統背景でお坊ちゃん育ちであった勝静に対し方谷は、厳しくも熱心に愛情をもって「為政者たる者はかくあるべし」と教育をしたことでしょう。
勝静は坊ちゃん育ちでも聡明な人物でしたから、このときに山田方谷という人物への信頼が醸成されたものと思われます。
この頃板倉勝静は論文を書き上げて提出しました。すると山田方谷は「あなたが藩主になってこの論文と異なることをなされたとき、この論文を証拠にご忠告申し上げるのでわたくしに頂きたい。」と言って勝静からこの論文を頂戴したといわれています。
世の中は幕末の混乱した時代を迎えますが、勝静と方谷の信頼関係は決して崩れることはありませんでした。
山田方谷、江戸幕府老中になった板倉勝静の顧問になるも辞退
山田方谷は備中松山藩の改革が成功し、財政難を脱してからも藩の政治を板倉勝静から任されます。
というのも勝静は藩政改革の成功と血統的な背景から幕府の要職に就任しており、江戸に在府することが多かったためです。
勝静は安政の大獄の処理を巡って大老井伊直弼(いいなおすけ)の怒りを買って職を追われます。
これは勝静が方谷の「厳罰に処せば災いの元になる」という進言に従って、捕縛された者たちに対して寛大な処置をするように主張したためでした。
そして方谷の言葉の通り、厳刑をもって臨んだ直弼が桜田門外の変で暗殺されます。すると勝静は幕政に返り咲き老中に就任しました。
山田方谷は勝静の老中就任が藩の財政に悪影響を及ぼすと思い、就任には反対しました。また方谷は時勢を冷静に見つめ、幕府には先がないと考えていました。
このことを方谷は勝静に書面で伝えて再考を促します。しかし将軍家の血を引く勝静は、こればかりは方谷からの忠告であっても受け入れるわけにはいきませんでした。
さらに勝静は方谷を江戸に呼び寄せ自分の補佐役に任命しました。
しかし方谷は幕府での政治への関心が薄かったため、辞任を申し出ます。そして方谷が藩政に全面的に責任を負うことを条件に、方谷は備中松山に帰りました。
明治維新と山田方谷の決断
そして山田方谷が備中松山に帰国してから数年後、ときの15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は政権を朝廷に返還すること(大政奉還)を決意します。方谷は板倉勝静に求められてこの大政奉還の上奏文を起草したといわれています。
そして鳥羽伏見の戦いを発端とする戊辰(ぼしん)戦争が勃発すると、幕府の老中でもあった藩主勝静が慶喜と行動を共にしたため備中松山藩は朝敵とみなされてしまいます。
朝敵となった以上は他藩から討伐軍が向けられることは必至の情勢となってしまいます。
山田方谷は決断します。領民たちを戦火に巻き込むことは断じてならない、と。
方谷は板倉勝静を隠居したことにして、板倉家の一族の者を新たな藩主にたてます。そのうえで新政府軍に降伏を申し入れ、備中松山城を開城します。
しかしこの時点でもまだ勝静は幕府軍の一員として函館にいました。これ以上の事態の悪化を避けるべく、方谷は勝静に使者を送り新政府軍に降伏するよう説得しました。
勝静は半ば強制的に江戸に戻され、新政府軍に降伏しました。この結果、備中松山藩は存続が許されます。勝静は命こそ許されたものの、罪人として蟄居させられることになりました。
方谷にとっては苦渋の決断でした。藩主勝静は方谷にとって自分を引き立ててくれた大恩ある人です。しかしその恩は私事であり、民を救うことを優先するというのは方谷の信念でした。
それから数年後、罪を許された勝静は備中松山に帰り方谷と再会します。勝静は方谷の取った処置について恨み言を言うどころか、藩を救ってくれたことに対する感謝と慰労の言葉を贈ったそうです。
方谷と勝静の信頼関係はこれほどまでに強固だったのです。
教育者山田方谷
方谷は幕末の藩政改革の成功者としてその名が知れ渡っていました。
新政府でも財政を担う人間として、岩倉具視(いわくらともみ)や木戸孝允(きどたかよし)などといった高官から新政府への出仕を求められましたが全て断っています。
理由としては高齢であったこと、領民を守るためとはいえ恩ある主君を罪人にしてしまったからです。なによりも地位も名誉も望まず、方谷は郷土で民を教育したいと考えていたのでしょう。
方谷の名声がいかに知れ渡っていたかを物語る逸話があります。
廃藩置県ののち、旧備中松山を管轄する小田県の県令(現在の県知事)が内務卿大久保利通(おおくぼとしみち)から山田方谷に会ったことがあるかどうか尋ねられました。
この県令は会ったことが無いと回答すると大久保に「小田県の政治をするのに山田先生に会わずしてどうするつもりだ。」と叱り飛ばされたため、慌てて方谷に面会にいきました。
方谷は県令に殖産振興のための政策案を提示し、県令が改めてそれを持って大久保の元に行くと、大久保はその場でその案を実行するように命令したそうです。
大久保という人物は慎重で物事を即決しないことで知られていたため、この県令は方谷という人物の偉大さを思い知ったそうです。
方谷は母の郷里である大佐町(おおさちょう、現在の岡山県新見市)に移住してここでも私塾を開きました。また閑谷学校(しずたにがっこう、現岡山県備前市)でも教鞭を執ります。晩年を子弟の教育に費やし、方谷は故郷の地で生涯を終えました。
方谷没後、かつての長瀬塾の近くに鉄道の駅が開設されることになりました。住民たちの請願の結果、この駅は「方谷駅」と名づけられました。日本で最初の人名が由来となっている駅です。
山田方谷の弟子たち
方谷は教育者として多くの弟子を育てています。このうちの何人かをここで紹介させていただきます。
河井継之助
河井継之助(かわいつぎのすけ)は越後長岡藩の重役で、方谷の成功を耳にして自ら視察に訪れました。
当初継之助は方谷を農民出身として蔑んでいましたが、方谷と接するやそのブレない信念と態度に打たれ、心酔するようになります。
そして継之助が備中松山を去る際には、見送る方谷に土下座をして感謝の意を表したほどでした。
継之助は長岡に帰国すると藩の改革を断行、後に戊辰戦争では幕府側につき新政府軍を苦しめましたが、このときに負った傷がもとで他界しました。
方谷は長岡藩の改革に意気込む継之助に次のような言葉を与えました。
「改革は簡単なことからやりなさい。15年もすれば反対する者もいなくなる。」
残念ながら継之助が改革に乗り出したのは、大政奉還前夜ともいえるような時期です。一定の成果を上げたとはいえ、あまりにも時間がありませんでした。
三島中洲
三島中洲(みしまちゅうしゅう)は牛麓社時代からの方谷の一番弟子ともいえる人物です。政務多忙な方谷の代わりに生徒に授業をするなど、方谷から厚い信頼を寄せられていました。
後に方谷の推薦で備中松山藩の藩士となって要職を歴任し、明治維新後は新政府に出仕して大審院判事(現在の最高裁判所判事に相当)や東京帝国大学教授などを務めました。
退職後には自宅に現在の二松學舍(にしょうがくしゃ)大学の前身ともいえる漢学塾二松學舍を創設し、方谷と同様に教育者として生涯を送りました。
福西志計子
福西志計子(ふくにししげこ)は岡山県に初めて女学校(順正女学校)を創設し、女子高等教育の普及に尽力した人物です。
志計子は幼い頃父親を亡くし、彼女に教育を施すように母親が方谷に懇願しました。まだ江戸時代であったその当時、女子に教育を施すというのは常識にはないことでした。
しかし方谷はこの願いを聞き入れ、牛麓社において他の生徒と区別することなく彼女に学問を教えました。
これらの人々以外にも山田方谷の改革をこの目で見ようと長州藩の久坂玄瑞(くさかげんずい)や会津藩の秋月悌次郎(あきづきていじろう)らが備中松山の地に赴き、方谷と面談をしています。
山田方谷の信念~“至誠惻怛”
至誠惻怛(しせいそくだつ)とは王陽明の言葉で、真心(まごころ)と慈しみの心を指します。方谷はこの言葉を弟子たちにしばしば語ったそうです。
真摯に誠意をもち、さらには慈しみをもって行動せよということです。人間ー特に人の上に立つ者ーはこの二つの心をもって事に当たるべきことを方谷は説いています。
方谷の改革は、借金を短期間で完済した事実ばかりに目がいきがちですが、その根本にあるのは民を慈しむということでした。民に教育を施し、仕事を与え収入がきっちり得られるようにすれば、おのずと経済は上手く回っていくことを理解していたのです。
執筆:Ju
私が山田方谷を知ったのは、長岡藩家老河井継之助に関する本を読み関心を寄せました。
姫路への転勤を幸いに、備中松山城へ旅に来て石垣も感銘しましたが山田方谷の詳細な生き方を解るにつけ更に好きになりました。
以来、「至誠惻怛」は私の座右の銘になりました。
井田のことを調べてみてください。
私は、高梁高校の昭和55年の卒業生です。
歴史と伝統を重んじる温知寮で3年間すごしました。
山田方谷や山中鹿之助の話など、古典の授業とか、卒業式なのどの訓辞とかで聞かされたことが何度かあります。
でもその偉大さは理解していませんでした。
あの時先生が述べていたことは、こんなことだったのかと、当時の校長や、国語の先生の顔を思い出しながら、涙が出てきました。
纏めていただいてありがとうございます。
もっと深くを知り、還暦以降の人生に役立てたいです。
ありがとうございました。
私の家には「山田方谷の文書」があり、以前岡山大学の赤羽学教授に読み解いていただいたことがあります。そこには、教育施設を作るための資金調達の催促が書かれていたそうです。今回、改めて方谷先生の足跡を読ませていただいて、その教育についての並外れた情熱に触れた思いがします。私の実家は現在新見市になっていますが、以前は旧備中松山藩に属していたそうです。その郷土の偉人がまだまだ全国的な知名度がないことに残念な思いをしています。方谷駅の由来も子供のころから聞かされて育ちましたので、先生の顕彰に何らかの力が尽くせたらと改めて感じました。
今現在の状況はまさにお金儲けが行きすぎたためにおきた、現象に他ならないように感じます。その意味において
方谷先生のされたことが、魂的にこの世に生まれてきたのだ。というメッセージにすら聞こえます。産業革命で行き過ぎた経済重視の考え方が今の世を作りだしています。この考え方が、我々の考え方を占めています。経済がすべてでないことを方谷先生は示してくれているように感じます。民衆と偽リーダーの関係に変化が起こるような教育の変化はよほど困らないと変化しないでしょう。それが民衆であり偽リーダーではないでしょうか。お金儲けにのみ固執したリーダーを望むのでしょうか?
山田方谷の知名度は、決して高くはありませんが、その偉大さを、改めて感じました。真の教育の大切さ、痛感します。
コメントありがとうございます。江戸時代後期にいわゆる藩の財政立て直しを成功させた方の多くが教育に力を入れたという事実があります。やはり人材を育てることが政治を長きに渡って公正かつ安定させるということなのでしょうね。特に山田方谷の場合は、武士だけでなく庶民にも教育を施し、さらにはそこから人材登用を行った点で出色だと思います。よろしければ他にも歴史関係のコラムを掲載しておりますので、そちらもご一読いただけると幸いです。
井田と関わったことも調べほしい!