栃木県宇都宮(うつのみや)市は栃木県の県庁所在地で、北関東最大の都市として知られています。この街にある宇都宮城は長い歴史を誇り、「関東七名城」の一つにも数えられています。
そして江戸時代初期に起きた「宇都宮城釣天井(つりてんじょう)事件」の舞台でもあります。
今回はそんな宇都宮城の歴史を平安から現在までご紹介します。
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宇都宮城
宇都宮城(うつのみやじょう)
江戸時代宇都宮藩の藩庁。
別名、亀ヶ岡城(かめがおかじょう)とも呼ばれる。
明治時代の戊辰戦争、第2次世界大戦による戦火と、その後の都市開発のためオリジナルの以降はほとんど残っていない。(本丸の一部の土塁が当時のまま現存している。)
現在は、宇都宮城本丸の一部などが復元され、「宇都宮城址公園」として親しまれています。
宇都宮城のアクセスと基本情報
宇都宮城址公園
住所:栃木県宇都宮市本丸町1-15
アクセス:JR宇都宮駅から市内バス「きぶな」約20分
開園時間:9:00~19:00
定休日:年末年始
駐車場:あり(12台)
TEL:028-638-9390 (清明館)
多言語観光情報サイト「Guidoor(ガイドア)」|宇都宮城址公園
「宇都宮」の名前の由来 二荒山神社
宇都宮という名前の由来は、この地にある二荒山(ふたあらやま)神社がその元になっています。
この神社が「一の宮」「内の宮」などと呼ばれていたものが訛って「うつのみや」になったというものです。
この二荒山神社は藤原秀郷(ひでさと)、源頼義・義家親子、源頼朝、徳川家康など名だたる武将が戦勝祈願をしています。
また「平家物語」において、源義経の家臣那須与一(なすのよいち)が船の上の扇を矢で射ようとする有名なシーンで与一は「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神」と祈りを捧げています。
ちなみに日光にも同じく二荒山神社がありますが、こちらは「ふたらさん」と読みます。
二荒山神社のアクセスと基本情報
二荒山神社
住所:栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1
アクセス:JR宇都宮駅から市内バス約5分
駐車場:あり(300台、有料)
TEL:028-622-5271
多言語観光情報サイト「Guidoor(ガイドア)」|二荒山神社
宇都宮城の歴史~平安時代から室町時代
宇都宮城は平安時代に藤原秀郷または藤原宗円(そうえん)という武将が造ったといわれています。
藤原秀郷は平将門の乱を鎮定した一人で、「百足(むかで)退治伝説」で知られる武勇の誉れ高い武将です。秀郷は先述の二荒山神社で授かった剣を手に乱を鎮めたといわれています。
藤原宗円は源頼義・義家親子に従い前九年の役に参戦して、功によりこのあたりの土地を与えられ、宗円の孫にあたる朝綱(ともつな)が宇都宮氏を名乗るようになりました。
宇都宮朝綱は、源頼朝から「坂東(関東)一の弓取り」と絶賛された武将でした。数々の武功を挙げた朝綱は鎌倉幕府の有力御家人として名を連ねていました。
これ以降、宇都宮氏は北関東の豪族として鎌倉時代、室町時代を生き抜き、そして戦国時代を迎えます。
宇都宮城と戦国時代
戦国時代になると宇都宮氏は北関東の有力大名として君臨しますが、内紛や後北条氏の侵攻などにより衰退します。一時は宇都宮城を奪われ、滅亡の危機に瀕したこともありました。
しかし豊臣秀吉による小田原征伐が実施されると、ときの当主国綱(くにつな)はいち早く参陣して、所領を安堵されるとともに、宇都宮城への帰還を果たします。
そして小田原征伐に続く、東北仕置(とうほくしおき)において秀吉は宇都宮城に入り、北関東や東北諸大名の参陣を迎え、そしてその後の支配体制を決定しました。
これは源頼朝が奥州藤原氏征討のために二荒山神社に戦勝祈願のために立ち寄った故事に倣ったといわれています。
こうして大名としての命脈を保った宇都宮氏でしたが、1597年に突如お家取り潰しになります。
秀吉側近の大名同士の争いに巻き込まれた、石高を偽って少なく申告していた、宇都宮氏家臣同士の争いが合戦騒ぎになったなど、原因とされるものはいろいろありますが、真相は不明です。
こうして大名としての宇都宮氏は滅び、宇都宮城には新たな主が入ります。
江戸時代初期の宇都宮城
新たに宇都宮城の主となったのは、奥平家昌(おくだいらいえまさ)という徳川家康の家臣です。関ヶ原の戦いを制して天下人となった家康は、家昌に北関東の要衝の地を与えました。
家昌の父は奥平信昌(のぶまさ)、母は徳川家康の長女亀姫です。つまり家昌は家康の孫にあたり、亀姫は秀忠の姉ということになります。
奥平氏は三河国(現愛知県南部)の山間部の小豪族でした。奥平氏が繁栄する契機となったのが、徳川氏への服従と長篠の戦いでの活躍でした。
奥平信昌の父貞能(さだよし)は武田勝頼に臣従していましたが、これを見切って家康に従うようになりました。
これに激怒した勝頼は大兵を擁して奥平氏の長篠城に攻め込み、これが長篠の戦いを誘発します。信昌は長篠城で長期間の籠城を守り切り、織田・徳川連合軍の勝利に大きく貢献しました。
信昌は織田信長から「信」の字を賜り、家康からは名刀「大般若長光(だいはんにゃながみつ、国宝)」を与えられたほか、長女亀姫を与えられて一躍徳川家の重臣の仲間入りを果たしました。
また関ヶ原の戦いの後、京都所司代(京都の警備)に任じられ、ここでも家康から高く評価されました。
話を戻しましょう。家昌が若くして亡くなると、その子忠昌(ただまさ)が後を継ぎます。
幼くして家督を継いだ忠昌でしたが、ある日突然古河(現茨城県古河市)への転封を命じられます。これは北関東の要衝を幼い藩主では治めきれないということになっていました。
しかし実際には忠昌が後を継いで5年後に命が下ったため(藩主の幼少が理由であるなら、後を継いだ時点で命令があるはず)、なんらかの陰謀を疑う声もあったようです。
替わって入封したのが本多正純(ほんだまさずみ)です。
いよいよ「宇都宮釣天井事件」の幕開けです。
「宇都宮釣天井事件」と本多正純
「宇都宮城釣天井事件」(うつのみやじょうつりてんじょうじけん)とは、1622年(元和8年)、当時の下野国宇都宮藩主であり江戸幕府の要職についていた本多正純が、二代目将軍徳川秀忠の暗殺を謀り、宇都宮城に吊り天井を仕掛けていたといわれている事件です。
これにより本多家は改易され、本多正純は流罪となってしまいます。
しかし、宇都宮城に実際には釣天井の仕掛けは無かったとされています。事件か謀略か?このような事件がなぜ起こったのでしょうか?
釣天井とは?
「釣天井」とは縄で釣っておいた天井のことです。標的がその部屋に入ったら綱を切り天井を頭上に落とすことで標的の命を奪う装置です。
本多正純と父、本多正信
「宇都宮城釣天井事件」の概要に触れる前に主役となる本多正純という人物を紹介しておきましょう。
正純の父は本多正信。正信は徳川家康の家臣ですが、武将として戦場を駆け回るタイプではありません。城の奥の間で密談のうえで策を巡らすといった参謀的存在であり、家康から「友」と呼ばれていたとされるほど信頼された人物でした。
正純もまた父同様家康の側近くに仕え、謀臣として重用されていました。このため本多親子は諸侯から恐れられ、嫌われていました。この点は豊臣秀吉の側近であった石田三成と似ています。
家康が亡くなり、その後を追うように正信も亡くなると正純が本多家を継ぎます。
正信は自分の立場が関ヶ原で滅びた三成のそれと同様であり、諸侯の嫉妬や恨みが集まっていることをわかっていました。そこで次のような遺言を正純に残したといわれています。
「自分が死ねば必ず将軍から加増の話があるであろう。3万石までなら加増を受けてもよいが、それ以上は決して受けてはならない。辞退しなければ必ずや当家に災いが降りかかるであろう。」
事実、正信は家康から厚い信任を受けながらも、領地はわずか2万石強の小さな大名に過ぎませんでした。
家康の側近く仕えていることで、ただでさえ妬み嫉みを受ける身であるのに、そのうえ大きな領地を持てば世間の目はさらに厳しくなり、それが讒言となって主君の耳に入れば、身を滅ぼしかねないことを正信はよく理解していました。
本多正純、宇都宮城に入る
家康が亡くなると、正純は2代将軍秀忠に仕えます。すると秀忠は正信の予想通り正純に加増の話をします。
当初は正信の遺言に従って固辞していましたが、最終的にはこれを受け、宇都宮15万5千石に立身します。
本多正純は何故父の遺言に背いたのか?
家康の遺命であったから、あるいは将軍からの申し出であるから、加増を断り続けることは不遜に当たり、却って怒りを買ってしまうと考えたのかもしれません。
この転封によって怒りや恨み、妬みを感じた人たちが少なくとも二派いました。
一つは土井利勝(としかつ)ら生え抜きの秀忠の側近たちです。彼らは若い頃から秀忠に仕えており、先代からの功臣である正純が秀忠に仕えるようになれば、自分たちは正純の下風に立たざるを得ないと考えていました。
もう一つは、押し出されて転封させられた格好になった奥平忠昌の一族です。中でも祖母にあたる亀姫の正純に対する怒りは凄まじかったといわれています。
これは孫のことだけでなく、亀姫の長女が本多親子によって取り潰されたといわれる大久保家に嫁いでいたことも関係していたといわれています。
宇都宮城の改修
本多正純は宇都宮に入ると城の大改修を行い、また城下町の建設にも取り組みました。正純は天守を置かず、2層2階の清明台櫓(せいめいだいやぐら)を設けそれを天守の代わりにします。
また宇都宮は日光に近く、将軍が来訪することがあるために本丸には御成御殿が造られました。
「宇都宮釣天井事件」発生
1622年(元和8年)徳川秀忠は家康が眠る日光東照宮へ家康の七回忌のため参拝し、その帰りに宇都宮城に一泊する予定になっていました。
その秀忠の元に姉である亀姫からの密書が届きます。そこには宇都宮城の普請に不備があるので宿泊を取り止めるように書かれていました。
秀忠は姉からの手紙を無視するわけにもいかず、事の真相を確かめることなく別に理由をつけて宇都宮城の宿泊を取り止めました。
その場はそれで済んだのですが、数か月後幕府の命により東北に出向いていた正純のもとに秀忠の使者が差し向けられます。
その使者は秀忠からの問責の使いであり、鉄砲を密造していた、石垣を無断で修理したなどと並んで、宇都宮城の天井に釣天井を仕掛けて秀忠を殺そうとしたとの一条が含まれていました。
しかし使者下向の前に秀忠の別の使者が宇都宮城を検分したところ不審な点はなく、ましてや釣天井などがあるわけもありませんでした。にも関わらず罪状に挙げられていたのは何故なのでしょうか?
正純はそれらを否定したものの、秀忠の裁定は現在の領地没収、ただし家康の代からの働きに免じて別の場所に5万5千石を与えるというものでした。
しかし突き付けられた罪状について身に覚えがない正純はこの裁定を拒絶したため、秀忠は激怒して正純の領地を召し上げて、さらに流罪にするという厳しい刑が科されたのでした。
これは先の反正純派の二派による陰謀という説があるものの、秀忠も正純には良い感情を持っていなかったのは間違いなさそうです。
秀忠やその側近たちにすれば先代からの口うるさい番頭のような正純は、頭を押さえつけられるような窮屈さを感じており、排除したかったのではないでしょうか。
そしてよく正純は家康の側近であったのをいいことに、周囲に対し横柄に振る舞っていたなどといわれますが、本当にそうだったのでしょうか?
父正信からも注意され、またそもそも鋭い正純ですから秀忠およびその側近たちから好まれていないことには気づいていたことでしょう。そこでそれに抗弁しようとしたところ、秀忠の逆鱗に触れてしまいさらに厳しく罰せられてしまったのでした。
もし秀忠の裁定に従って、幕政から引退したとしても何を言われるかわからない恐怖感が正純にあったのかもしれません。
正純は出羽国(現秋田県)横手城に送られて厳しい監視の下、その地で幽閉されたまま生涯を送りました。権勢の座にいた者としては実に寂しい最後です。
縄で釣った天井を落として標的を暗殺する「釣り天井」。しかい本当にこんなものがどこかに実在していたのでしょうか?少なくとも上述のとおり宇都宮城には存在していませんでした。
もし本当に暗殺するならもっと簡単な方法がいくらでもあると思うのですが…。
しかしこれがセンセーショナルに扱われ、後に講談や歌舞伎の演目にもなり、映画やドラマなどでも取り上げられています。「宇都宮釣天井事件」は宇都宮城を語る上では外せない話として世に広く知られるようになりました。
宇都宮城の歴史~幕末から明治へ
本多正純が改易になったあとは、再び奥平忠昌がこの地に戻されます。その後はさまざまな譜代大名がこの重要な土地に配されるようになります。
そして幕末を迎えます。
大政奉還後、宇都宮藩は朝廷に恭順の姿勢を示しました。しかしそこを乗っ取ろうと旧幕府軍がこの城を襲いました。
「宇都宮戦争」と戊辰戦争
「宇都宮城の戦い」は戊辰戦争(ぼしんせんそう)で起きた戦いの一つです。
戊辰戦争は1868年〜1869年(慶応4年/明治元年〜明治2年)に起きた日本史上最大の内戦です。薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が日本各地で激しい戦いを繰り広げました。
「宇都宮城の戦い」において、旧幕府軍の指揮官は新撰組副長土方歳三(ひじかたとしぞう)、旧幕臣で歩兵奉行などを務めた大鳥圭介(おおとりけいすけ)、桑名藩の立見鑑三郎(たつみかんざぶろう、尚文)らでした。
旧幕府軍は奇襲をかけて宇都宮城を落とすことに成功します。
しかし新政府軍は体勢を立て直し、板垣退助率いる土佐藩兵や大山弥助(巌、いわお)率いる薩摩藩兵などが加わり、宇都宮城奪回に成功します。
敗れた旧幕府軍は多くの者が日光を経て、会津へと転戦しました。
「宇都宮城の戦い」参戦者たちのその後
大鳥圭介と土方歳三はこの後戊辰戦争を戦い抜きます。しかし、土方は函館戦争で戦死してしまいます。大鳥は函館で新政府に降伏し、その後は新政府に仕え、学習院院長や外交官を歴任しました。
立見鑑三郎は北越戦争に参加して、新政府軍を散々苦しめるも降伏。この後その将才を買われて陸軍に入り、日露戦争では第八師団長として参戦し黒溝台において大激戦の末ロシア軍を退ける殊勲を挙げています。
新政府軍の板垣退助は新政府の要職に就きますが、後に野に下り自由民権運動の中心として活躍します。
大山巌は明治の元勲の一人として政戦両面に活躍し、日露戦争では派遣軍総司令官を務めました。
宇都宮城の歴史~明治から現在
宇都宮戦争によって城ばかりでなく街も灰燼と化してしまいました。明治時代になると宇都宮城は民間に払い下げられ、御本丸公園として整備されますが、城門などは取り壊されてしまいました。
また太平洋戦争時に宇都宮はアメリカ軍の爆撃目標にされて街は焼けてしまい、戦後の復興のために城の遺構もほとんどが失われてしまいました。
2003年になって宇都宮市は宇都宮城の復元に着工、2007年に一部が完成すると「宇都宮城址公園」として一般に公開され、市民の憩いの場となりました。
現在は本多正純時代に築かれた清明台と富士見櫓、石垣と土塁などが再現されています。
宇都宮城址公園では、毎年秋になるとお祭りが開催されて江戸時代の参勤交代の様子を再現した「時代行列」を行うなど、大変な盛り上がりをみせています。
是非とも宇都宮城に足を運んでみてください!
その他宇都宮市の観光スポットについては、こちらをご覧ください。
執筆:Ju
面白い宇都宮の昭和の歴史です。
昔、宇都宮三山(さんざん)と呼ばれたモノ?が在りました。一つは二荒山を(二荒さん)と呼び、二つ目は今は無いがデパートを個人名で呼び(上野さん)でした。お中元やお歳暮は東京から進出したデパートとより格上で包装紙がモノを言い、依り高級とされ、贈答品として喜ばれたのです。
三つ目は驚く事に高校の名前でした、現在は宇都宮短大付属高校ですが、創立者の名前から(須賀さん)と呼びました。
記憶に残る人は少ないが、何故か心温まる呼び方ですね。単に田舎町の事と想えば其れ迄だが人情が在ったわが街と信じたいです。
宇都宮の二荒山、二荒山神社は「ふたあらやま」「ふたあらやまじんじゃ」で、ふたらではないですよ
ふたらと読むのは日光の方です