みなさんは「山田耕筰」と「北原白秋」の名前に聞き覚えはありますか?
山田耕筰は数々の童話や歌曲を作った音楽家で、北原白秋は「白露時代」に活躍した詩人です。
耕筰と白秋はそれぞれの創作活動の中交流を深め、作曲者・作詞者として数多くの共同作品を残します。応援歌や校歌(あなたの出身校の校歌も彼らによる作品かもしれません)、そして童謡を作りました。彼らの童謡は近代日本の「童謡」を大いに発展させました。
ここでは二人の経歴を簡単に追いながら、実際に作品を聞いてみましょう。
彼らの作品によって子供の頃を思い返したり、知らないはずの遠い遠い昔のことを懐かしく感じてみませんか。
Contents
山田耕筰(やまだこうさく)ってどんな人?
・東京都音楽大学で学んだ後、ドイツやアメリカに渡り、アカデミーでの勉強や演奏会を経験する。
・詩人の北原白秋たちと組んで、数々の日本語による童話や歌曲を残した。
1886年(明治19年)6月9日に、東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)に医者の父のもとに次男として生まれました。もともとは「耕作」の文字を名前に使っていました。(後に「耕筰」と改名します)
耕筰が10歳の時に実父が亡くなります。彼は昼は工場で働き、夜は学校という生活を13歳まで送ったあと、岡山県の姉夫婦に引き取られました。引き取られるまでは辛い生活でしたが、岡山での新生活は楽しい思い出の一つとなります。養忠学校に通いながら、姉の夫エドワード・ガントレットに西洋音楽を教わったのです。
1904年(明治37年)9月、東京都音楽学校(現在の東京藝術大学)の予科に入学。翌年には本科の声楽部に進級しました。
当時の大学は現在と違い、誰でも予科に入学できる代わりに本科へ進級できるかは予科での成績次第でした。
耕筰は1908年に本科を卒業しますが、研究科に進学したり、分校の補助員(歌唱担当)をしたり、しばらくは東京都音楽学校に関わって過ごします。
1910年(明治43年)に三菱財閥四代目総帥岩崎小弥太の後援を受けてドイツ・ベルリンに留学します。ベルリン芸術アカデミー(当時は「ベルリン王立芸術アカデミー」という名前でした)に入学した、初めての日本人になります。作曲を学び1914年に帰国。その後アメリカへ飛び、ニューヨークを中心に演奏会を開きます。1918年、1919年にはカーネギーホールで演奏会も開きます。
帰国後は日本語による日本の歌を作ることに精力を注ぎ、この時期に北原白秋と知り合います。1921年9月に雑誌『詩と音楽』を創刊するなど、以後、この二人のコンビによる作品作成が積極的に始まります。
北原白秋(きたはらはくしゅう)ってどんな人?
・詩、童謡、短歌、新民謡、など幅広い分野で活躍。
・三木露風と並んで近代日本を代表する詩人であり、活躍した時代は「白露時代」と呼ばれている。
本名は「北原隆吉」。生まれは1885年(明治18年)1月25日に熊本県玉名群関外目村(現・南関町)。家が福岡県山門郡沖端村(現・柳川市)の商家であったため、幼少期はそこで過ごします。
彼は地元の学校に通う傍ら、1899年(明治32年)頃から詩歌に目覚めます。「白秋」の号を用いて同人雑誌に詩文を載せる活動を続けていたところ、記者の河井醉茗(かわい すいめい)に見出され、彼の担当する雑誌『文庫』1904年四月号に白秋の長詩『林下の黙想』が掲載されました。
感激した白秋は地元の中学を中退し、早稲田大学英文科予科に入学します。
上京後、同郷の若山牧水をはじめ、与謝野鉄幹・晶子夫婦、石川啄木など多くの文壇仲間と交流し、雑誌の創刊や処女詩集『邪宗門』上梓などを経験します。
1918年(大正7年)、白秋は鈴木三重吉の勧めで児童雑誌『赤い鳥』の童謡や、児童詩欄を担当します。以降歌謡的な詩風を得意とするようになり、歌謡集や童謡集を発表します。
当時の「童謡」とは子供向けの文学的な作品・詩のことであり、歌のメロディはついていませんでした。童謡詩に初めて歌が付いたのは『赤い鳥』1918年11月号のこと。作曲家の成田為三が西條八十の童謡詩『かなりや』に旋律を付けた楽譜を載せ、大反響になりました。以降、童謡と音楽が密接な結びつきを持つようになります。
白秋と山田耕筰もそういった結びつきの中で知り合い、交流を深めていくこととなったのです。
山田耕筰と北原白秋コンビの童謡を聞こう
ふたりのプロフィールを把握したところで、いよいよ音楽鑑賞といきましょう。
耕筰と白秋コンビによる童謡の名曲を2曲、MIDIや楽譜を用いてご紹介します。
♪「からたちの花」
【音源】
【楽譜】
【歌詞】
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。からたちのとげはいたいよ。
靑い靑い針のとげだよ。からたちは畑の垣根よ。
いつもいつもとおる道だよ。からたちも秋はみのるよ。
まろいまろい金のたまだよ。からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかったよ。からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
前述したとおり、童謡はもともと文字だけで音楽がついていませんでした。1924年に発表した白秋の詩を耕筰が読んで、1925年に歌を付けたという作成順序になります。
耕筰は『からたちの花』の詩に感銘を受け、工場で働きながら学校に通っていた子供時代を振り返ります。彼は『自伝 若き日の狂詩曲』に次の内容を記しました。
秋になると私の眼は輝いた。枳殻の実が色づくからだ。はじめはすっぱくて咽せかえるほどだったが、馴れると仲々よきものだった。殊に生の野菜と一緒に食べると、下手なサラダより数等いい味だった。
工場で職工に足蹴にされたりすると──活版職工は大体両手がふさがっているので、殴るよりも蹴る方が早かった──私は枳殻の垣まで逃げ出し、人に見せたくない涙をその根方に灌いだ。そのまま逃亡してしまおうと思ったことも度々ではあったが、蹴られて受けた傷の痛みが薄らぐと共に、興奮も静まった。涙もおさまった。そうした時、畑の小母さんが示してくれる好意は、嬉しくはあったが反ってつらくも感じられた。漸くかわいた頬がまたしても涙に濡れるからだ。
枳殻の、白い花、青い棘、そしてあのまろい金の実、それは自営館生活における私のノスタルジアだ。そのノスタルジアが白秋によって詩化され、あの歌となったのだ。
実際に曲を聞いてみても、言葉がすっと入ってくるほど詩に寄り添い、良さを最大限に生かすメロディになっていることが分かります。ノスタルジアを感じる名曲ですね。
しかし楽譜を見てみると、曲中で拍子が何度も何度も(4分の3拍子→4分の2拍子→4分の3拍子……)変わったり、通作歌曲(※)であったり、音域が幅広かったりで、難易度が高くそう簡単には歌えません。
【通作歌曲とは…】
歌詞が進むごとに異なるメロディで歌う曲のこと。対となる「有節歌曲」は、繰り返し(リピート)記号を用いて同じメロディを一番、二番、と繰り返しながら異なる歌詞で歌う曲のこと。通作歌曲は歌詞にマッチしたメリハリある曲になる反面、メロディを正確に最後まで覚えるのに時間がかかってしまう。
「童謡」は子供のための作品です。もっと易しいものを、と要望を受けて耕作と白秋は次の曲を作りました。
※音源と楽譜は筆者作。カラタチの花・実の写真は出典:写真AC
♪「この道」
【音源】
【楽譜】
【歌詞】
この道はいつかきた道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてるあの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよこの道はいつかきた道
ああ そうだよ
お母さまと馬車で行ったよあの雲もいつか見た雲
ああ そうだよ
山査子の枝も垂れてる
1931年(昭和6年)の『白秋童謠讀本 尋六ノ巻』に、白秋は”北海道風景です。主人公は男の子です”と注釈をつけました。そのためモデルとなった風景は、「白い時計台」は「札幌市時計台」が、そして「あかしやの花」は市内の街路樹としてアカシアの一種「ニセアカシア」が多くあることからも、北海道の札幌市だとされています。
白秋の「五・七、二・四、五・七」の音数でできたリズミカルな詩に、耕筰が美しいメロディを書きました。まだ拍子の変化は多くありますが、有節歌曲になり、音域も狭くなり、だいぶ歌いやすくなりました。
『この道』は親しみやすくなった旋律で、時代を超えて愛される名曲となります。2006年(平成18年)に文化庁と日本PTA全国協議会が親子で長く歌い継いでほしい「日本の歌百選」に選定されました。
※音源と楽譜は筆者作。写真は出典:ようこそさっぽろ観光写真ライブラリー(札幌市時計台)、写真AC(ニセアカシア)
耕筰と白秋、名コンビの絆
白秋は耕筰との絆を次のように語っています。
耕筰、この人は明朗で、酒にも強く、健康で、才気縦横、而も円転滑脱である。 偉丈夫で、而もまた俊敏軽快であり、座談にまた長じてゐる。私なども明朗闊達のつもりでゐるが 何としても晴天の憂鬱相を自身に感じ、鈍重寡黙であるが、この人の前に出ると何となく愈々に対蹠的となる。 これはどうにもならないものだ。ただ痛飲淋漓となると、これが逆になることもある。要するに音楽と詩との差があり、 その住する世界に於てしかく習性づけられてゐるかもしれない。この二人が些かの争闘もせず、提琴と弓のごとく、太鼓と撥のごとく厚情常に渝るところなきは天の配剤よろしきを得てゐると思はれる。 耕筰をして云はしむれば白秋とは同性の愛であり、白秋が亭主で耕筰は女房だとなつてゐるが、 この女房、時として浮気を遊ばされ、うつかりすると白秋は尻に敷かれる。
『白秋全集 第36巻』の「芸術と生活 山田耕筰」の章より
性格は全く違うのに、天によって配られた太鼓と撥のように変化することのない仲の良さだ、ということです。耕筰が他の作詞者と組んで作品を作ることを「浮気」と表現する部分に芸術家らしいユーモアを感じつつ、仕事のためだけのドライな仲ではなかったようにも思えますね。
白秋は耕筰に「『この道』は『からたちの花』の妹にあたる作品だ」と伝えていたそうです。ふたりは童謡というジャンルを育て発展させた「育ての親」でもあり、『この道』などの名曲のまさに「生みの親」であったことでしょう。
耕筰と白秋による、童謡などの共同作品の作成、もとい交流は20年以上も続きました。
おまけ~「この道」ゆかりの地~
作品にはインスピレーションを受けたもの、モデルとなったものが存在することがあります。ここでは童謡『この道』のゆかりの地を2カ所、ご紹介します。
曲の背景に思いを馳せながら音楽鑑賞をしたり、実際に足を運んでみて芸術家気分を味わってみてはいかがでしょうか。
札幌市時計台
時計台の外観と内部。写真提供:ようこそさっぽろ観光写真ライブラリー
『この道』の詩のモデルとなったとされる時計台です。白秋が旅行で来た際の思い出を書いた、と言われています。
もともとこの時計台は、1878年(明治11年)10月16日に「旧札幌農学校演武場」として作られました。以降130年以上にわたって札幌市民に愛されることになる時計台は、当時の白秋の記憶の中にも強く残ったことでしょう。
白秋生家/白秋資料館
「白秋生家/白秋資料館」の写真。出典:柳川写真館
北原白秋が幼少期を過ごした福岡県柳川市。彼の生家で作品や遺品、資料を見ることができます。白秋が子供時代を振り返る時、この柳川の光景が思い浮かんでいたことでしょう。
また最寄り駅の西鉄柳川駅には、ステンレス銘板の「この道」歌碑があります。
福岡県柳川市沖端町55-1
【営業時間】
9:00~17:00
【定休日】
12月29日~1月3日
【料金】
大人600円、学生450円、小人250円
【公式サイト】
http://www.hakushu.or.jp/
私たちGuidoorメディアが白秋生家/白秋資料館に訪れた際のレポートはコチラ。
執筆:Yo-Ohtaki
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