「杉原千畝」ソ連との交渉で外交的大勝利
満洲国政府外交部で杉原千畝が任された大仕事、それは中国とソ連 が共同所有していた北満州鉄道の譲渡交渉であった。
当初、ソ連の要求額が6億2500万円に対し、日本側が用意していた買収額はわずか5000万円。
実に10倍以上もの金額差だっ た。
交渉は困難を極めたが、その中で杉原は緻密な調査により、ソ連の高額な要求額の根拠を次々と否定。
その結果、北満州鉄道の譲渡額を最終的に1億 4000万円で決着させた。
外務省人事課が作成した文書には、この時の杉原の働きに関して「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせり」 という記述が残されている。
これはまさに日本外交の大勝利といえる成果であった。
しかし、このとき得た名声が後に杉原のキャリアを邪魔することにもなったのだ。
後に本国の外務省に復職し、モスクワ大使館赴任を任命された際、ソ連がペルソナ・ノン・グラータを発動して杉原の入国を拒否。
他国の外交官の入国を拒否するという通達はまさに異例中の異例のことであったが、その理由は北満州鉄道譲渡交渉の時に杉原が見せつけた外交官としての手腕をソ連が恐れたためだと考えられている。
杉原千畝のプライベートでは、1924年(大正13年)白系ロシア人女性クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚するが、1935年(昭和10年)に離婚。同年、菊地幸子と再婚する。
なお、満州時代に杉原はロシア正教会の洗礼を受けている。正教徒としての聖名(洗礼名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」、つまりパウェル(パウロ)である。
この受洗は結婚に際してにわかに思いついたことではなく、実は杉原は早稲田大学の学生時代に早稲田奉仕園の信交協会(後の早稲田教会)に一時期属しており、満洲に赴任する前にすでにキリスト教と出会っていた。
この奉仕園の前身は「友愛学舎」と呼ばれるもので、バプテスト派の宣教師ハリー・バクスター・ベニンホフが大隈重信の要請を受けて設立したものである。
なお、友愛学舎の舎章は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)である。
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