杉原千畝 外務省の官費留学生となる
そんな折、杉原千畝は偶然図書館で目にした地方紙広告で外務省留学生試験の存在を知る。
受験資格は「旧制中学卒業以上の満18歳から25歳の者」であったが、その内容は法学・経済・国際法から外国語2ヵ国語という具合で、旧制中学の学修内容とはかけ離れたものであり、実際は杉原のような大学在籍者や旧制高校修了者以外の合格は難しいものであった。
杉原は連日大学の図書館にこもり、猛勉強を重ねた末、難問を制して見事に合格した杉原は早稲田大学を中退し、日露協会学校(後のハルビン学院)に入学。
外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、そこでロシア語を学ぶ。学生の過半数は、外務省や満鉄、あるいは出身県の給費留学生であった。
ロシア語選択は当初の杉原の選択ではなかったが、今後のロシア語の重要性を説く試験監督官の勧めで決めたという。
当時の杉原は、三省堂から刊行されていた「コンサイスの露和辞典を二つに割って左右のポケットに一つずつ入れ、寸暇を惜しんで単語を一ページずつ暗記しては破り捨てていく」といった特訓を自分に課していたという逸話が残されている。
1924年(大正13年)に外務省書記生として正式に採用され、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)3月に満州国政府外交部事務官となる。
順調に外交官としてのキャリアをスタートさせたかに見えた矢先の1931年(昭和6年)、事態が急転する。
日本が経営権を持つ南満州鉄道が爆破されたことを契機に、満州事変が勃発したのだ。
満洲事変とは
1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争のことである。
鉄道の爆破は、関東軍が自ら引き起こした事件だったが、この機に満州を支配した日本は清朝最後の皇帝である宣統帝溥儀を執政に迎え、傀儡国家である満州国の建国を宣言する。
ハルビンの日本総領事館にいた杉原千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で、満洲国政府の外交部に出向。
そこで「ロシア問題のエキスパート」としての立場を確立させる大仕事を任されることとなる。
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