「優勝旗が白河の関を越えた」などという表現を目にしたことはありませんか?
よく高校野球など県別のスポーツ選手権で東北の代表が優勝すると、このように表現されます。つまり白河という場所が関東と東北の境であることが昔から認識されているのです。
栃木県と境を接する白河は奈良時代から平安時代にかけて関所が設けられていました。
旧令制国下において現在の栃木県は下野国(しもつけのくに)、そして福島県から北は陸奥国(むつのくに)という区分になっていました。
陸奥国は蝦夷(えみし)が住む国であり、彼らは大和朝廷とは異なる文化をもつ人々でした。
このため朝廷は蝦夷を支配下に取り込むための軍事拠点として、そして蝦夷たちの出入りを取り締まるために白河の関を設けました。
その後陸奥国が朝廷の支配下に入ると白河は関所としての役割を終えますが、依然として東北地方への玄関口として重要な役割を担います。
白河は数々の和歌で詠まれており、「歌枕」(和歌の名所)として知られるようになります。平安時代の歌人西行法師も白河を訪れ、句を残しています。
鎌倉時代に入ると結城朝光(ゆうきともみつ)が白河に領地を与えられます。朝光は源頼朝の乳母の子であったため、頼朝から深く信頼されて源平合戦や奥州合戦で活躍し、幕府成立後も側近として頼朝に仕えます。
頼朝が没し鎌倉幕府が北条氏の支配となっても幕府からは厚遇を受けました。
白河は朝光以降約400年に渡り結城氏の支配する土地でした。
しかし戦国時代に入り、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、結城氏は領地を没収されてしまいます。この後会津若松を本拠地とする蒲生氏や上杉氏の領地となり、白河は会津領の支城の役割を果たします。
江戸時代になると1627年に丹羽長重(にわながしげ)が白河の領主となります。
長重の父は織田信長の重臣丹羽長秀で、長重は父の後を継いで大名になりましたが、関ヶ原の戦いで西軍に与したため領地を失ってしまいました。
その後徳川家に仕えるとその実力が評価されて最初は棚倉に領地を与えられ、大名に復帰します。このように西軍に与してその後大名に復帰した例はごく稀なことです。
さらに最終的に10万石以上を与えられたのは長重と戦国時代の名将として名高い立花宗茂の2人だけです。このことは長重の有能さを証明しているといえます。
依然として関東と東北を結ぶ交通の要衝である白河は重要な拠点であると考えた長重は白河小峰城の改修に取り組みます。長重は城造りの名手でした。
4年の歳月を費やして完成した白河小峰城は、東北地方では珍しい総石垣造りを採用し、三重櫓(さんじゅうやぐら)が天守閣の役割を担い、難攻不落の名城といわれるようになりました。
丹羽長重はこの後二本松に転封となり(長重は白河小峰城を造るために領主となったともいわれています)、その後は譜代大名が領主としてこの城に入りました。すなわち幕府も白河を重要な土地と考えていた証拠です。
江戸時代には俳句で有名な松尾芭蕉(ばしょう)も白河を訪れています。芭蕉はその著書『おくのほそ道』においてその感想を述べています。
そして白河小峰城が完成してから約150年後、松平定信(まつだいらさだのぶ)が白河を治めるようになります。
定信は8代将軍徳川吉宗の孫で、この地の藩主であった久松(ひさまつ)松平家に養子に入りました。定信は江戸幕府老中首座に就任すると、幕府の立て直しを図るために「寛政の改革」を断行しました。
寛政の改革は一定の成果を挙げたものの「白河の清きに魚の棲みかねてもとの濁りの田沼恋しき」という狂歌があるように、厳しい倹約と綱紀粛正を求めたため不評を招き、6年で失脚の憂き目に遭いました。
定信は老中を辞任すると白河に帰って内政に力を注ぎ地元では名君として慕われ、1829年に病没しました。
定信は「士民共楽」(武士も民も共に楽しむ)という理念を持っており、それを具現化したものに「南湖(なんこ)公園」があります。南湖公園は日本で最古の公園といわれています。
定信が没してから約40年後、白河の地は激戦の巷となります。明治維新の荒波は白河にも押し寄せてきました。そう、戊辰戦争です。
白河口の戦いと呼ばれる戦闘は3か月近くにわたって激戦が繰り広げられ、新政府軍が勝利しました。この一戦が戊辰戦争の天王山であったともいわれています。
ちなみに明治から大正時代の政治家で「平民宰相」と呼ばれた原敬(はらたかし)は、雅号を「一山」と称していました。この号は、戊辰戦争があったころ新政府軍の一部の人員が東北地方を「白河以北一山百文」(東北地方の山は一つあたり百文の価値しかない)と蔑んで言った言葉が語源です。
原は東北地方出身(盛岡県)で、薩長の藩閥が幅を利かせていた明治政府において、この屈辱的な言葉を心に刻み悔しさをバネにしてついに内閣総理大臣の地位に上り詰めました。
この白河口の戦いによって天守閣は焼失し、その後は公園になったり野球場になったりしていましたが、1991年に三重櫓と前御門(まえごもん)を木造で復元して白河小峰城が蘇りました。
2011年の東日本大震災によって石垣が崩壊しましたが、2019年に修復が完了し、今日もたくさんの観光客で賑わっています。
<アクセス情報>
白河小峰城
住所: 福島県白河市郭内
見学時間:(三重櫓)9:30~17:00(4月10日〜9月)、9:00~16:00(10~3月)
定休日:年末年始(12/29~1/3)
入場料金:無料
駐車場:あり
南湖公園
住所: 福島県白河市南湖
入場料金:無料
駐車場:あり
白河関跡
住所:福島県白河市旗宿関ノ森白河の関
入場料金:無料
駐車場:あり
お問い合わせ先はいずれも(公社)白河観光物産協会
TEL 0248-22-1147
URL http://shirakawa315.com
執筆:Ju
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