国内最大の産廃問題に直面した瀬戸内海・香川県豊島<前編>
瀬戸内国際芸術祭の大切な意味、そして世界が注目する豊島という島を知っていますか?
Part1では、いまや世界的に知られる日本の「瀬戸内国際芸術祭」について、その開催までの歴史をご紹介しました。
海と島々を舞台とする現代アートの祭典が始まった背景には、世界有数の多島海──瀬戸内海の小さな島で起きた深刻な環境破壊の問題がありました。
傷ついた島を元気づけ、ふたたび希望の海にしていく「海の復権」という願いが、じつはこの芸術祭には込められているのです。
ですが芸術祭で現代アートを鑑賞することと環境問題を乗り越えることが一体どう関わっているのか、もしかして不思議に思われたかもしれません。
Part2では、この芸術祭の意義というところからまずご紹介してみたいと思います。
Contents
「瀬戸内国際芸術祭」で島々をめぐり現代アートを鑑賞していく意義とは?
きっと多くのアーティストは心を研ぎ澄まし、比類のない多島海の自然やここで流れている独特の柔らかな時間、伝統ある生活文化や食文化、あるいは「交通の大動脈」としての瀬戸内海の歴史などを見つめ、五感で感じながら創造していくことでしょう。
そうして誕生した一つ一つの作品は、モノ・情報の溢れた人工空間で日々時間に追われて暮らしている現代人にとっては何より癒しとなるでしょうし、自己の感性を呼び覚ましていく刺激ともなるでしょう。
📷ここは島の東部の唐櫃(からと)地区、豊島美術館の入口近くからの眺めです。緑の島、青い海と空、白い雲、そして人工物が不思議に調和している世界…。風も心地よく、訪れた人々はここでしばらく時間を忘れて過ごしています。筆者撮影
また、国内外から多くの人が訪れるという芸術祭の催し自体が、長い苦悩の年月、多大な損失を受け続けてきた島の人々にとっては、自信を取り戻して本来のコミュニティ活動を充実させていく大きな後押しともなるはずです。
ですがもう一つ、この芸術祭にはとても重要な意味があるのです。
未来の持続社会への大切な「道しるべ」
島から島へとアイランドホッピングしていくこの斬新な芸術祭──。
世界中の人々から注目され支持されているのは、いまやローカルなレベルからグローバルなレベルまで深刻化している現代社会の問題と、そこでの私たち現代人の葛藤がこの瀬戸内海という場所に凝縮されているからといえるでしょう。
世界のすべての陸地は海に囲まれていて、瀬戸内海の小さな島々はまさに「世界の縮図」としても存在しているのです。
20世紀頃から急激に進んでいった近代化は、人間社会を取り巻く環境をも瞬く間に激変させてしまいました。
地球温暖化(大気温・海水温の上昇、海面上昇、海の酸性化、極端現象…)や海洋のマイクロプラスチック(添加剤による環境ホルモン、有害化学物質の吸着と溶出)の問題など、人間自身の存在をも危うくするという事態に私たちは今直面しています。
📷太平洋の常夏の島ハワイ。オアフ島のダイヤモンドヘッドが見えるワイキキのモアナビーチでも、地球温暖化による海面上昇の問題に近年直面しています。けっしてツバルだけの問題ではなく、日本、そして世界各地で高潮・洪水などの常態化が心配されています。University of Hawai‘i Sea Grant College Programより
最新の科学技術を駆使して大量にエネルギーやモノを生産・消費し、そのまま大量廃棄してきた近代期以降の世界──。
人間自身も自然の生態系の中に位置づけながら「地球の大循環」を維持しなくては、やがて円滑であった循環サイクルが停止してしまいます。
巨大な大都市であっても小さな町であっても、いずれは世界全体がチリのイースター島のように「文明崩壊」という運命をたどってしまうことになるでしょう。
じつは人間社会の側の科学リテラシーと賢明なる技術選択、産業革命や都市化のプロセスでの絶妙なるコーディネーションが必要であったのです。
📕チャールズ・モア/カッサンドラ・フィリップス著、海輪由香子訳『プラスチックスープの海 : 北太平洋巨大ごみベルトは警告する』NHK出版2012年の表紙絵。この絵は、私たちが今どのような状況に直面しているのか、たいへんよく表現されていす。
生命すべてが連続性を有していますし、陸─海─空という三次元の有機的な空間の中で世界が一体化して存在しています。
瀬戸内海の島々で誕生した現代アートは、そうした人間社会を取り巻く大自然の偉大さと繊細さ、そして問題の根本的背景としてある私たち自身の「大自然からの遊離」について改めて考えさせてくれるでしょう。
かつて世界の人々からもその融合的な多島海の景観が絶賛された、類まれなる瀬戸内海──。
この場所であるからこそ、私たちは自らの生きる場を捉える確かなまなざしを取り戻し、未来の持続社会への大切な「道しるべ」としていくことができるのではないでしょうか。
📷豊島美術館のそばに広がっている棚田と森林。ここではすべてのものが有機的に結びついているようです。島のなだらかな稜線と石垣の人工的直線が調和しているのも、人々の細やかな心遣いがそこに確かにあるからでしょうか…。筆者撮影
「豊島(Te-shima)」という、深刻な環境破壊の問題を乗り越えようと、人々がオリーブの木を植えつづけている島を覚えていますか?
そのPart1の記事はこちらへ。 【瀬戸内国際芸術祭と瀬戸内海の島めぐりPart 1】
それでは国際的な現代アートの祭典が始まるきっかけとなった「豊島」について、詳しくご紹介しましょう。
瀬戸内海の豊島──名前通りの「豊かな島」、その豊かさとは?
豊島は香川県の島で、全国的に知られている小豆島の土庄町(とのしょうちょう)に属しています。
島の大きさは14.5㎢、エーゲ海(地中海の東部)に浮かぶギリシャのサントリーニ島の1/5ほどの島で、今は約800人が暮らしています。
小豆島や四国の高松、本州側の岡山県宇野(うの)、宝伝(ほうでん)から高速船・フェリーに乗って30分前後で到着し、便数も多いのでたいへん交通に恵まれた島であるといえるでしょう。
ここは瀬戸内海でもとくに密度の高い多島海域ですから、豊島にいるとどこからでも大小の島々が見えますし、立ち位置によってその形はさまざまに変化します。
日々刻々と色合も変わり、多島海の景観はまったく見飽きることがありません。
📷豊島美術館に向かって小路を歩いていると、木々の間から青い海と空、そしてたくさんの島々が見えてきます。島の形がさまざまに変化していく多島海の景観美は、瀬戸内海ならではの醍醐味です。筆者撮影
豊島の特徴① ── 山と植生と奇跡の水
豊島のまず1つ目の特徴は、標高339.8mの檀山(だんやま)という瀬戸内海では比較的高い山があることではないでしょうか。
日本の「しま山100選」にも選ばれている山で、その展望台から眺める海と島々のパノラマ景(360度)はとても雄大です。
山の高い位置にはシダジイという木が(樹齢250年という木も!)、また山のふもと近くにはクヌギの木が多く自生し、興味深い植生の垂直分布がみられます。
このことから、豊島は山と木々が水を涵養し、きっと水の豊かな島ではないかと想像されたことでしょう。
まさにそうです。本州と四国の高い山地に挟まれてかなり乾燥している瀬戸内海式気候ですので、昔から多くの島々が渇水に苦労してきましたが、一度も途絶えたことのない泉もあるという水に恵まれた珍しい島なのです。
その唐櫃(からと)地区にある「唐櫃の清水(清水霊泉とも)」は、飲み水や生活用水をいただく場であり、人々の大切な交流や憩いの場、そして弘法大師にまつわる篤い信仰の場でもあります。
島ではなんと320を数えるという貯水池が連綿と維持されてきています(山の頂上近くにも!?)。
豊島の特徴② ── 瀬戸内海では珍しい「棚田」のある島
2つ目の特徴として、山の斜面に階段状の耕作地があり、海に向かって広がっていることがあるでしょう。
写真をご覧ください。これが「耕して天に至る」ともいわれる瀬戸内海特有の「段々畑」です。
ここでは「豊島石」というこの島の石が使われ、等高線上に一段ずつ見事な石垣が構築されています。
中世の時代から産出されてきた豊島石は火に強い良質の凝灰岩(ぎょうかいがん。火山性の岩石で加工が容易)で、東京の桂離宮の灯篭もこの島の石であることが知られています。
📷豊島美術館の近くに広がる「段々畑」です。休耕地となっていましたが再生事業が進められ、いまは米・野菜・花が栽培されています。平地ではないので作業にはたいへん苦労が伴いますが、ここで過ごす時間はきっと格別であるはずです。筆者撮影
島─石垣というと、アイルランド・アラン諸島のあの見事なライムストーン(石灰岩)の石垣を思い浮かべた方もおられることでしょう。
豊島の場合は耕作地を確保するための石垣の構築であり、その形態も機能もアラン諸島のものとはずいぶん異なっていますが、海の海藻を活かしながら自給体制を創っていくという島ならではの方法は、不思議にも洋の東西変わらないようです。
ここでは高温と乾燥、長雨にも耐えていく、先人たちの素晴らしい知恵が伝承されていることも忘れてはならないでしょう。
📷アイルランドのアラン諸島の一つ、イニシュマン島です。この島にもライムストーンの石垣があり、防風対策として、また土地の区画や家畜用の柵として長い時間をかけて構築されてきました。アラン諸島は世界的に知られる「アランセーター」の島々です。このセーターの誕生にももちろん石垣が深く関わっています。The Aran Islandsより
豊島ではさらにこの段々畑に水が引かれて「棚田」で米作りもなされてきました。
人々の通年にわたる細やかな作業は、夏場には青々とした階段を、秋には小麦色の階段を創り上げ、周囲の自然環境ともすっかり溶け込んでまるで芸術作品のように思われます。
このほか島には古代から続くという歴史ある米づくりや明治時代に始まった酪農(これも瀬戸内海の島では珍しい!)の区域があり、ふんわりと緑の枝葉を広げたオリーブの木(1万本といいます!)、ミカンやレモンなどの香り高い柑橘類の木も随所にみられます。
山のふもと近くでは苺のハウス、季節の野菜に彩られた自家用の菜園が多くみかけられ、花や植物のほのかな香りに時々ふと気づかされます。
📷豊島の南側、山の斜面に広がっているオリーブの畑。このオリーブ園は栽培面積としては日本で最も広いといわれています。冬季ではありますが、柔らかな太陽の光を受けて木々の生育も良いようです。筆者撮影
このようにこの島ならではの自然条件や資源を最大限に活かしながら、豊島では小さく限られた陸域を長い年月をかけて充実した生産の場、生活の場へと大切に整えられてきました。
ではもう一つ、豊島の大きな特徴をみていきましょう。
豊島の特徴③ ── 海へと広がってゆくダイナミックな島の生活空間
島を歩いていると、重厚感のある立派な木々が並んだ植林地帯があることに気づかれるはずです。
温暖で水に恵まれ、かなり標高のある島ですので、かつては林業もたいへん盛んで(これも瀬戸内海の島では珍しい!)、江戸時代の後期には片山家という西日本でも屈指の材木商がこの島を拠点に活躍していたというのです。
これは島の長所が発揮されていくまさに典型例であり、船への積載が容易で航海術と帆船があればどのように遠い目的地までも縦横無尽に「海の道」が導いてくれます。
船のエネルギーはいうまでもなく風ですから、現在のように燃料高に悩むこともありません(風待ち・汐待ち、それに人間の労力は必要ですが)。
この島でも多くの人々が力を合わせて貴重な木材を船に積み込み、Part1で見た江戸時代の絵図のように真っ白い帆を上げて悠々と瀬戸内海を航海していたことでしょう。
じつはこの片山家には樹齢600年という当時琉球から島に持ち帰ったとされるソテツの木があり、この大きな南国の木は豊島のダイナミックな海の交易とそれを可能としてきた人々の抜群の協力体制について静かに物語っています。
📷豊島の北東側に位置する唐櫃港(からとこう)。島の陸域は小さく限られていますが、この島にいると人々の暮らしが海と一体化していて、生活空間が外へも広がっていることを感じます。筆者撮影
瀬戸内海という豊穣の海はもちろん、豊島の人々に新鮮な魚介類や海藻などの海の恵みもずっともたらしてくれました。
鯛やイカ、太刀魚などの一本釣りをはじめ、さまざまな網漁が昔から盛んでしたし、戦後にはマグロやカワハギ、海苔などの養殖が始まり、この島の大切な生業となっていました。
日本では「森は海の恋人」といわれますが、山や木々が海を育み、人々もまた豊かな藻場が広がる海で「陸地や人の健康に配慮」しながら漁業を維持してきたのです。
そうした小さくとも堅実な家族経営による海の生業は、いま世界が目標としている持続可能な開発目標SDGsの考え方ともまさに一致するものであったといえるでしょう。
📕SDGs(持続可能な開発目標)は2015年9月の国連サミットで採択された2016年-2030年にわたる国際社会共通の目標です。17のゴールと169のターゲットから構成され、いま全世界で「地球上の誰一人として取り残さない(leave no one behind)」ことを目指しています。
島の豊かさや賑わいが、じつは人々と海との密接な関係性のもとで生まれて高められていくということを、この3つ目の特徴はよく示しています。
瀬戸内海とともにある豊島──「本当の豊かさ」のある島
島の自然条件や資源を最大限に活かしながら、協働によって充実した生活空間を形成してきた豊島──。
人々は瀬戸内海という海でも最大限に活動し、ずっと遠い南の島へもネットワークを広げながら、未来へと続いてゆく持続社会の構築をつづけてきました。
小さな規模ではありますが、それがたいへん高度で確かな社会づくりであったことをよく示しているのが、豊島が「先進的な福祉の島」でもあったということではないでしょうか。
戦前に始まっていた酪農によりこの島はよく「ミルクの島」ともいわれるのですが、戦後の混乱期にいち早く乳児院が建てられ、親を失った子どもたちを守り育てていったという話が知られています。
その後も特別養護老人ホームや知的障害者更生施設といわれる弱った人、弱い立場の人を支えていくための拠点がこの島では整えられてきています。
豊島はその名前の通り、人と人、人と島、そして海ともコラボレーションしながら社会を創造していくことができる「本当の意味での豊かな島」であったのです。
📷豊島の唐櫃港に着いたばかりの小豆島からのフェリー(365トン、旅客定員350名)。まっ白い船体にグリーンのラインが爽やかです。船旅をして島に到着すると、そこがいかにありがたく素晴らしい場所であるかということにも思い至ります。筆者撮影
その豊島は、やがて高度経済成長期の1960年代に入ってから思いもよらない事態に巻き込まれ、人々が翻弄されていくことになるのです。
次回は豊島で一体何が起こったのか、ご一緒に詳しくみていくことにしましょう。
Part 3の記事はこちらへ。 【島めぐり~未来の世界への道しるべ、瀬戸内海・豊島の産廃問題】
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