戦国の覇者織田信長。時には苛烈な手段を用いて、四方の敵を平らげ天下統一目前のところまで歩を進めました。しかしそんな信長にも苦手なものがありました。
まずは同じ戦国大名の武田信玄、上杉謙信。この両名とは豪華な贈り物などの外交で上手く宥め、その死後に制圧に成功しています。
しかしそのような手段を受け付けない集団がいました。それが一向一揆(いっこういっき)です。
一向一揆は宗教集団であるだけに政略というものが通じず、またその兵も強かったため信長もほとほと手を焼きます。
最終的には10年にも及ぶ抗争の後、和睦ということで信長は「判定勝ち」をおさめました。
今回はそんな一向一揆を今回は紹介したいと思います。
(※この記事の最終更新日2023/10/04)
Contents
一揆とは
そもそも一揆とは身分の低い武士層や農民などが領主に対して年貢の減免などを求めて起こす武装蜂起です。
すでに室町時代初期には頻繁に起こるようになっており、中には応仁の乱後に起きた山城国一揆(やましろのくにいっき)のように領主を追い出して、国人と呼ばれる土着の武士や農民が数年に渡り自治を行うような事態も起こっています。
一向一揆とは、仏教の一派である一向宗が中心となって起こした一揆のことです。
親鸞と一向宗
一向宗とは浄土真宗の一派。その浄土真宗の開祖は親鸞(しんらん)です。教義についてはここでは触れませんが、特徴の一つに肉食妻帯が許されていることが挙げられます。
鎌倉時代の後期には親鸞のひ孫にあたる覚如(かくにょ)が、親鸞の墓所「大谷廟堂(おおたにびょうどう)」を本願寺として寺院にすることに成功し教団の勢力は徐々に大きくなっていきました。
しかしその後は振るわず、室町時代になると他宗に押され衰退の一途を辿っていました。
なぜ浄土真宗が一向宗と呼ばれたのか?
浄土真宗はもともと親鸞の師である法然(ほうねん)が開いた浄土宗の一派であり、他派は親鸞の一派が浄土真宗と称することを嫌ったため、一向宗と呼んだそうです。
親鸞はその教えの中で「一向専念無量寿仏」、つまり「ひたすらに無量寿仏、即ち阿弥陀仏一仏から助けてもらいなさい」ということを掲げていたため、頭の一向をつけて呼ばれたようです。
自分たちではあくまでも浄土真宗と呼んでいましたが、江戸時代になり幕府は浄土真宗のことを一向宗と呼びます。
コラムの便宜上、この後は基本的に一向宗という呼び方で統一させていただきます。
他力本願は後ろ向きの意味ではない!
余談ですが、「他力本願」という言葉をお使いになったことがあると思います。他人任せ、他の結果次第というような後ろ向きの意味として使われることが多いようです。
しかしもともとは浄土宗や浄土真宗において、
自らの修業によって悟りを得るのではなく、阿弥陀仏の本願に頼って成仏すること。(Wikipediaより)
という教えの根幹の部分を説明している言葉なのです。
これをどう解釈するかは難しいところですが、難しく大変な修業などせずとも日々阿弥陀仏のことを信じていれば成仏できる、くらいの意味でしょうか。
そこから大したことをしなくても成仏できる、というように曲解されて現代使われるような言葉の意味が根付いてしまったのでしょう。
蓮如の登場
室町時代中期に蓮如(れんにょ)が宗主となったころは衰退著しく、さらに追い打ちをかけるように比叡山延暦寺とも教義を巡って対立するようになり、ついには延暦寺が本願寺を破却する事態になります。
このため蓮如は近隣の近江(現滋賀県)や三河(現愛知県東部)などを転々とするような羽目に陥りました。
蓮如、越前に赴く
そして蓮如は越前国吉崎(現福井県あわら市)に足を踏み入れます。そしてこの地に吉崎御坊という拠点を築き布教活動を行います。
蓮如は御文(おふみ、注)といわれる仮名書きの法語を発信したり、民衆にもわかりやすく教義を説いたりする活動に励みます。この活動は好評を博し、一向宗の一大拠点に成長します。
(注)御文は東本願寺の呼称、西本願寺派では御文章(こぶんしょう)と呼ばれています。
応仁の乱と守護大名富樫氏
ここで俗世の政治状況を見ておきましょう。
蓮如が越前に入った頃、世の中は応仁の乱の戦禍に巻き込まれていました。
この乱の主な原因は将軍家および有力守護大名家の後継者争いが複雑に絡み合ったもので、越前の隣国加賀(現金沢県西部)の守護であった富樫(とがし)氏も例外ではありませんでした。
時の当主政親(まさちか)は弟幸千代(こうちよ)と家督を巡り対立します。一度は政親が争いに敗れますが、政親は蓮如に協力を依頼して幸千代を打倒して越前守護に返り咲きます。
なぜ蓮如は富樫政親と手を組んだのか?
実は幸千代の背後には、同じ浄土真宗の高田派という別派がついていました。蓮如と高田派は鋭く対立しており、自分の教団を守ろうとしたためです。
“一揆の持ちたる国”の成立
蓮如の力を借りた加賀の守護となった富樫政親ですが、その力をまざまざと見せつけられ蓮如の勢力伸長を怖れ次第に対立していくようになります。
このため蓮如は越前を去り、数か所を退転した後山科本願寺(現京都府山科市)を建立し、本拠地としました。
一方、蓮如が去った加賀は民衆たちが重い税に苦しんでいました。富樫政親は積極的に京都の戦乱に介入したため、その軍費を国衆に押し付けてきます。
また一向宗の信徒たちに対しても弾圧を加えるようになり、ここに加賀の国衆と信徒たちが結合します。
「打倒!富樫」
そして蓮如が北陸から退去してから10数年、ついに加賀で一揆が起こり、富樫政親はこれに対処できず殺されてしまいます。そしてここに加賀の国衆と信徒たちが支配する国が成立したのです。(加賀一向一揆)
蓮如は武装蜂起については否定的であり、この一揆に対しても諫める書状を送っています。
しかしこの後は蓮如の息子たちが加賀に入り、国人衆より上位の支配者層として君臨するようになります。そしてその勢力を拡大するべく越前の朝倉氏や越後の長尾氏と戦いますが、これは失敗します。
その後内紛があったものの再び勢力を盛り返し、16世紀半ばには加賀に尾山御坊(おやまごぼう)という拠点を築き引き続き一大勢力を築き上げたのでした。
徳川家康と三河一向一揆
さきほど蓮如が三河に行ったことに触れました。三河には本證寺(ほんしょうじ、現愛知県安城市)などの寺院が古くからあり、一向宗が盛んな土地でした。
戦国時代、三河を治めていたのは今川家からの支配を脱して独立を果たした徳川家康。
家康と一向宗は些細なことから対立が深まり、ついに武力衝突となります。家康の家臣からも一向宗に味方をする者が出るなど、家康は対応に苦慮します。
ちなみに後年家康の参謀役として活躍した本多正信(ほんだまさのぶ)はこのとき一向宗側に味方し、一揆の終息後に三河を離れ諸国を放浪したのち家康の元に帰参しています。
最終的に家康は一向一揆を鎮圧し、三河での一向宗の布教を禁止して寺院のほとんどを破却しました。
その一方で敵対した家臣たちには寛容な態度で帰参を許したため、徳川家中がまとまり徳川家は大名として地歩を固めることに成功しました。
蓮如以降の本願寺と戦国時代
蓮如は山科に本願寺を建立した約15年後にこの世を去ります。そして子の実如(じつにょ)、続いてその子である証如(しょうにょ)が後を継ぎ、さらにその後を顕如(けんにょ)が継ぎます。
この間に山科本願寺は焼き討ちにされたものの、本拠地を石山本願寺(正式名は大坂本願寺、現大阪府大阪市)に移します。
石山本願寺は堀や土塁、柵などが設置され、寺院でありながらあたかも城郭のような様相を呈していました。
織田信長の台頭と一向宗
ここで顕如が宗主となってからの俗世の政治状況を見ておきましょう。
桶狭間の戦いで東海道の有力大名今川義元を倒した織田信長は尾張を統一したのち、美濃を手中に収めます。さらに足利義昭を擁して京都に入り、義昭を室町幕府将軍の位につけ、飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を伸ばしていました。
しかし自らに権力がないことを悟った義昭は次第に対立するようになり、義昭は諸大名に密かに信長討伐の密書を送り包囲網を築き上げます。
そしてその包囲網の中には2つの宗教勢力が含まれていました。
一つは石山本願寺。もう一つは比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)です。
織田信長による延暦寺焼き討ち!
信長と対立する浅井氏と朝倉氏の兵たちが延暦寺に逃げ込んだため、信長は兵を追い出し中立を守ることを延暦寺に要求しました。しかし延暦寺はこれに応じなかったため信長は焼き討ちにして自分の力を誇示しました。
信長は宗教勢力が政治に介入してくることを極端に嫌いました。
延暦寺や興福(こうふく)寺は僧兵を擁してしばしば政治に干渉し、歴代の為政者たちはその対応に手を焼いていました。信長はそのことを十分に理解していたのでしょう。
そしてその矛先は石山本願寺にも向いていくことになります。
第一次信長包囲網
信長は義昭を奉じて上洛すると顕如に対して天皇の御所を修理することを名目に銭5千貫(現在の貨幣価値で5億円~7.5億円程度)を要求します。顕如はこれに応じました。
信長はさらに石山本願寺の退去や別な名目での銭の要求などをしてきたため、ついに顕如はこの包囲網に加わり信長と真っ向から対立する道を選んだのです。
ちなみに同じころ、信長は商業都市である堺にも銭2万貫を要求します。利に敏い堺の商人たちはこれに応じて信長に従属することでさらなる発展を遂げていきます。
石山戦争
本願寺の強みはなんといっても各地に広がる末寺のネットワークです。このころ一向宗が勢力を張っていた地域は加賀を中心とした北陸地方と伊勢(現三重県)でした。
この当時北陸はまだ信長の支配が及ぶ地域ではありませんでしたが、伊勢は信長の出身地である尾張に近い場所です。
顕如は石山本願寺で反信長の兵を挙げると、このネットワークを活用して伊勢でも兵を挙げさせます。
これに対して信長は朝廷を動かして勅書(天皇の命令書)を出させ、顕如とは和睦を図ります。一方伊勢長島(現三重県桑名市)の一向一揆に対しては自ら兵を率いて武力鎮圧を図ったのですが…
一向一揆に背を見せた織田信長
長島の一向一揆衆はまず信長の弟を攻め殺し、気勢を上げます。これに怒った信長は佐久間信盛、柴田勝家、稲葉一鉄(いなばいってつ)、氏家卜全(うじいえぼくぜん)といった主力を率いて鎮圧に向かいます。
しかし一揆衆はこれを巧みに防ぎ、さらに氏家卜全を討ち取り柴田勝家を負傷させるなど、信長は大敗北を喫します。
一揆衆はその多くが戦闘のスペシャリストである武士ではありません。またその装備も織田軍に比べれば劣ります。(ただし鉄砲は多数装備していました)自ら兵を進めて正面から相手と戦うことは必ずしも得手としません。
しかしゲリラ戦や防御戦という武士が好まない戦法では無類の力を発揮したのです。また「死んだら極楽浄土に行ける」という信仰心は一揆衆を統制のとれた勇敢な兵士にしました。
これは江戸時代初期の宗教反乱である島原の乱でも同じことがいえます。
結局和睦が成立しますが、敗北から2年後信長は再び長島一向一揆を潰すべく兵を動かします。
織田信長、再び苦杯を嘗める
信長は足利義昭を京都から追放し、近江の浅井長政、越前の朝倉義景を滅ぼし勢力下に置いきます。しかし北陸の一揆衆が動き出し、越前に攻め込み織田軍を追い払ってしまいました。
こうして和睦が破れると信長は再び長島に遠征しますが、このときも一揆衆の攻略に失敗しました。さらに一揆衆は退却する信長に鉄砲を浴びせかけるなど、大きな戦果を挙げています。
織田信長、三度の長島遠征
信長はこの翌年、三度長島に兵を向けます。羽柴秀吉、明智光秀を除く一線級の武将をことごとくつぎ込み、その兵数は10万近い大規模なものでした。
そして一揆の本拠地長島城を取り囲むと降伏を許さず、攻め潰しました。またいくつかの支城も取り囲んで脱出ができないようにしたうえで火攻めにするなど、一揆衆を根絶やしにするような残酷な攻撃を推し進めます。
こうして信長はやっと長島一向一揆を鎮圧しました。一揆衆の死者は2万を超えるといわれており、また攻撃側も信長の一門の武将などが数多く落命しています。
織田信長、越前制圧
長島一向一揆を片付けた信長は長篠の戦いで武田勝頼に大勝し、その勢力の弱体化に成功します。すると信長は満を持して今度は越前制圧に乗り出します。
先述の通り一向一揆が越前を支配するようになっていましたが、重い税を課すなどして国衆や仏教の他宗派(天台宗、真言宗、真宗高田派など)だけでなく、同じ一向宗の門徒までもが反発するようになっていました。
このような好機を逃す信長ではありません。信長は3万の兵を率いて越前に侵攻して一揆衆を平らげました。このときも信長は苛烈な処置をもって臨み、1万を超える一揆衆が死んだといわれています。
そして越前に柴田勝家を司令官として配し、その後加賀の一向一揆も制圧されました。
第二次信長包囲網
木津川口の戦い
こうして末寺のネットワークを破壊された本願寺は窮地に陥ります。
信長に京都を追放された足利義昭は西国の毛利氏に身を寄せ、なおも打倒信長に執念を燃やしていました。
義昭は毛利氏と一向宗との間で同盟を結ぶよう働きかけ、さらに一向宗と対立関係にあった上杉謙信と一向宗の間をとりもち和解させ、謙信に信長打倒を決意させます。
信長は石山本願寺を包囲し、経済的に孤立させます。一向宗は毛利輝元に兵糧や武器弾薬の援助を乞い、輝元はそれに応じて村上水軍を中心とした海軍を動かし大坂に向かわせます。
信長にも九鬼(くき)水軍という精鋭の海軍がありました。しかし瀬戸内海を自分の庭とする毛利水軍は倍以上の船を動員して、これを圧倒します。
また毛利水軍は焙烙火矢(ほうろくひや)といわれる火薬を使った兵器を用いて九鬼水軍に潰滅的な打撃を与えて、石山本願寺への輸送を無事完了します。
敗れた信長は水軍の長である九鬼嘉隆(くきよしたか)に燃えない船の建造を厳命します。そして嘉隆が思案の末たどりついたのが、船の外側を鉄で装甲する鉄甲船でした。
当然、この船の建造には莫大な財力が必要でした。しかし信長本願寺を下すためには、毛利からの補給を絶たねばならず、そのためには毛利水軍を叩ける戦力が絶対に必要でした。
信長は金に糸目を付けず、この鉄甲船を6隻造らせました。
翌年再び補給のために毛利水軍が現れます。しかし今度はこの鉄甲船が活躍し、九鬼水軍が毛利水軍を撃破しました。
上杉謙信と松永久秀
こうした動きに呼応するかのように上杉謙信がついに動きます。謙信は領国越後(現新潟県)から越中(現富山県)に出兵し、柴田勝家率いる織田軍を打ち破りました。(手取川の戦い)
これを聞いた松永久秀は再び信長を裏切り、信貴山城に立て籠もります。
しかし冬の時期であったことや関東に出兵しなくてはならない事情などから謙信は上洛をせず、越後に引き上げると間もなく急死します。そして完全に当ての外れた久秀も信貴山城において壮絶な死を遂げます。
この後信長の家臣で摂津に領地を与えられていた荒木村重(むらしげ)が信長に謀反を起こし本願寺包囲網は一時破れますが、信長が謀反を徹底的に鎮圧したことで本願寺は孤立無援になってしまいます。
織田信長と一向宗の和睦
これ以上の抵抗は困難と考えた顕如はついに信長の軍門に下ります。表面的には両者の和議ということですが、実質的には降伏といっていいでしょう。
顕如は門跡を息子の教如(きょうにょ)に譲り、自分は紀伊国鷺森御坊(さぎのもりごぼう、現和歌山県和歌山市)に退去しました。
教如は、一度は信長に反抗する姿勢を見せましたが、最終的には教如も石山本願寺を去り、ここに信長と本願寺の10年の長きに渡る戦いは信長の勝利に終わりました。
なぜ織田信長は一向宗との和睦に応じたのか?
和睦に応じた信長の対応に違和感をおぼえる方もいらっしゃるかと思います。
これだけ自分を苦しめた相手ですから、はりつけにしたり火あぶりにしたり、考え得る限り残忍な方法で命を奪うくらいのことをしそうな信長ですが…
信長は別に一向宗そのものを憎んでいたわけでもなければ顕如を憎んでいたわけでもありません。あくまでも一向一揆という自分に反抗する敵であったから戦ったのです。
焼き討ちにした比叡山延暦寺についても、何度か妥協のための使者を送った後での処置でした。
信長はキリスト教の布教を許すなど、宗教に寛容な面もありました。事実、この10年の戦いの間には2回の和睦の期間があり、信長は寛大な条件でそれを受け入れています。
信長は天下統一を急ぐために和睦という形を取り、実を取りながら相手の顔を立て一向一揆の無力化を図ったのでしょう。
またこの和睦に奔走した女性がいます。この女性は妙向尼(みょうこうに)といい、信長の小姓である森蘭丸の母です。
妙向尼は信長に直訴して、和睦の成立と石山本願寺への総攻撃を止めさせたといわれています。
信長は秀吉の妻であるおねに心優しい手紙を送るなど、家臣の妻や母などの女性には大変紳士的に接しています。ちょっと意外な感じもしますが、場合によっては誰からの意見も聞くというのは信長の長所です。
信長がおねに送った手紙については、こちら:敵は本能寺にはいなかった?~明智光秀の生涯もどうぞ。
その後の一向宗
石山本願寺退去を巡り顕如と教如の間には亀裂が走ります。このため顕如は教如を後継者から外し、異母弟である准如(じゅんにょ)を後継者に指名しました。
この後信長が本能寺で倒され、豊臣秀吉が後を継ぐと顕如に土地を与え天満(現大阪府大阪市北区)に本願寺の建立を許します。その後は京都に土地を与えられその地で没します。
ちなみに秀吉が築いた巨大な大坂城は、かつて石山本願寺があった場所に建てられました。
顕如の後を准如が継ぎます。一方兄の教如は顕如と和解をしたものの、秀吉の命により隠居を余儀なくされます。しかしおめおめと引き下がったわけではなかったのです。
徳川家康と一向宗
秀吉が没すると教如は動き出します。徳川家康に接近したのです。
先述の通り、家康は若い頃に一向一揆に苦しめられたことから自分の領内では一向宗の布教を許しませんでした。しかし一向宗の勢力が弱まったため、後に三河の本宗(ほんしゅう)寺の再興を許すなど寛容な態度を見せるようになります。
そして天下人となった家康は教如に京都の地に土地を与え、寺院の建立を許可します。これが真宗本廟(しんしゅうほんびょう、通称東本願寺)です。こちらが現在の浄土真宗大谷派です。
(上記写真の出典元:京都フリー写真素材)
一方、准如の龍谷山本願寺(りゅうこくざんほんがんじ、通称西本願寺)は石田三成の西軍を支援したものの、家康は取り潰すような手荒な真似はせず存続を認めました。こちらが現在の浄土真宗本願寺派です。
このように本願寺は二つに分裂します。分裂させ対立させることで勢力を抑え込むという、一向宗の力を怖れた家康の老獪な宗教政策といわれています。
憎悪は関係性が近ければ近いほど深くなるものです。
ちなみにこの両派、幕末には東本願寺が幕府を、西本願寺が倒幕派を支援することになります。
両派に教義の違いはほとんどなく、強いてあげるなら西本願寺は「南無阿弥陀仏」を「なもあみだぶつ」と読み、東本願寺派は「なむあみだぶつ」と読むことが一番大きな違いのようです。
戦国時代と一向一揆
応仁の乱を起点とする戦国時代は日本社会の構造を大きく変えました。それまで宗教勢力が政治に干渉することはあっても、実際に国を支配するようなことはありませんでした。
加賀で約100年もの間自治が継続したということは、善政が布かれていたのでしょう。また10年もの間、織田信長相手に戦いを継続した(常に戦っていたわけではありませんが)のは一向宗だけです。そして度々信長を敗走させたのも一向宗だけでしょう。
もし信長が一向一揆の鎮圧にここまで時間がかからなければ、生きている間に天下統一を実現できたかもしれません。
信長はこんな風に思っていたことでしょう。
「信仰の力、おそるべし!」
執筆:Ju
とにかく思うのは、、、宗教というのは他宗派を許容しにくいということかな。簡単にいえば、『お前ら、もっと仲良くせんかい』という感想に尽きる。
ただ、真宗って他宗派の教えには排他的なんですよね。没後に故人に対して彼是祈念するをせず、生前の生き方次第であるということ、信じれば在家でも即身成仏できるということ、逆にそれが無ければ阿弥陀様でも死後のことは如何ともし難いという明快さもありつつ、少なくとも現時点では教えの深淵とは程遠いとこにいる当方です。
大変、実入りのあるトピックでした。執筆者様には感謝。ありがとう。
私は真宗大谷派です。幼少の頃、祖母に教わり言われた通りに信じて暮らして参りました。確か、4~5才だったと思います。分かりやすく、簡潔に教わりました。そんな小さな私でも理解できる教えでした。特に印象に残っているのが、四恩と人にされて嫌な事は人にするなの2つだけです。まあ、実践するのにはいろいろ問題はありましたけど、たいした事ではありませんでしたよ。宗派の歴史について分かりやすく、とても参考になりました。ありがとうございます。