江川英龍(えがわひでたつ)という人物をご存知でしょうか?
江戸幕府後期の伊豆国韮山(にらやま)の代官の家に生まれた英龍は、民政の充実を図るだけではなく、西洋砲術を学び黒船来航前後の幕府海防政策に携わることになります。
また英龍は幅広い人脈を形成し、幕府の重臣から蘭学者、剣術家などと交わりました。それらの人々の中には明治維新の原動力になっていく人たちが多く含まれています。
今回はそんな人物を紹介します。
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江川家ってどんな家?
江川家は鎌倉時代以前から伊豆国韮山(現静岡県伊豆の国市)の地を支配してきた一族で、江戸時代に入ると相模や伊豆など天領(幕府の直轄領)の代官に任じられ、江川太郎左衛門を代々名乗り世襲してきました。
韮山代官と呼ばれたこの職は、江戸幕府に代わってこれらの土地の年貢の取り立てなどの行政や軍の編成などを一括して委任される重要かつ多忙なものでした。
「代官」と聞くと時代劇の典型的な悪人をイメージしますが、江川家は一時期を除いて韮山代官の職を代々務めていますので、そのようなことはなかったようです。(代官職は本来世襲の職ではありません)
江川英龍を取り巻く時代背景
英龍が生まれた19世紀初頭は江戸時代の化政文化と呼ばれた文化爛熟期であり、それは即ち政治が安定していたことを意味します。
英龍は35歳のときに江川家を継ぐのですが、それまでの間学問の習得や剣術の修業のために江戸に出てきています。
このときに生涯の友となる斎藤弥九郎(やくろう)という人物と出会っています。
幕末の志士たちを育てた斎藤弥九郎
英龍と弥九郎は「劇剣館」という道場で修業に励みます。弥九郎は英龍から資金援助を受けて「練兵館」という道場を創立します。「練兵館」は江戸でも屈指の道場となり、「士学館」「玄武館」とともに江戸三大道場と呼ばれるほど繁栄しました。
弥九郎は道場を切り盛りするかたわら英龍の手足となって働いて、ここで得た様々な体験や知識を道場の門人たちに伝えました。
後にこの道場からは桂小五郎(木戸孝允、きどたかよし)、高杉晋作、井上馨(かおる)、伊藤博文ら長州藩で倒幕に奔走する志士たちを多数輩出することになります。
「世直し江川大明神」
韮山代官になった英龍は、まず農民の生活の安定を図るために二宮尊徳(にのみやそんとく、またはたかのり)を招聘して農地の改良に乗り出します。
この他にも英龍は領民のための施策を次々と実施します。英龍は積極的に現場に足を運び、何が問題であるかを自分の目で確かめ、それに適した解決法を打ち出しました。
この結果領内は安定し、領民からは「世直し江川大明神」と慕われたそうです。
二宮尊徳
上記のような像をどこかで見たことはありませんか?薪を背に運びながら、学問をする少年の姿。これが二宮金次郎少年、後の二宮尊徳です。
二宮金次郎を知っていても、何をやった人なのかは知らない方も多いかと思います。
農家に生まれた尊徳は、苦学の末に自分の家を再興して、それがきっかけとなりいくつもの藩から財政立て直しや農村復興などを依頼された人物です。
この金次郎像は戦前全国各地に建てられました。これは明治政府が国家に奉公・奉仕する国民を育てることを目的に、金次郎を滅私奉公の象徴として扱ったためです。
ちなみに現代ではこの歩きながら書を読む姿が歩きスマホのように危険であるとして、石に座って書を読む金次郎少年に変わったとか。真意を理解せず、目に見えるものだけで物事を批判するというのは、あまりに短絡的な気がします・・・。
江川英龍、国防に危機感を抱く
この当時日本近海には外国船が姿を見せるようになっていました。このことは英龍に無関係なことではありません。
なぜなら英龍の管轄域には江戸を防衛する上で重要な伊豆・相模の海岸域が含まれているからです。
そして同じく危機感を持つ人たちと出会い交流を深めます。その中に渡辺崋山(かざん)と高野長英(ちょうえい)がいました。
渡辺崋山と高野長英
渡辺崋山は三河田原藩の家老で、藩の内政改革に大きな実を挙げた人物。高野長英は当時を代表する蘭学者です。
蘭学とは、当時ヨーロッパの国家として唯一日本と交流があったオランダから入ってくるヨーロッパの学問のことです。最初は医学がメインでしたが、医学に関連する書物の翻訳を通じて化学や軍事学など範囲が広がっていました。
長英は最初シーボルトのもとで医学を学んでいましたが、次第にその学識の範囲を広げ、この時代には日本の海防について強い危機感を抱くようになりました。
崋山は蘭学者ではなかったものの、自らの藩政での経験や長英からの影響で思想を同じくしていました。
海防か?開国か?
当時江戸幕府は外国船に対しては大砲で威嚇して追い払えという法を制定していました。(異国船打払令、いこくせんうちはらいれい)
英龍は崋山・長英らと交流することで、肝心の大砲もその運用法についても江戸時代初期と大して代わり映えしない事実を知ったことから危機感をさらに強め、蘭学の知識を習得していくようになります。
崋山と長英はさらに進んだ考え方を持っていました。開国論です。
海防というのは、武力(大砲)で外国船を撃つことによって国を守るという考え方です。(ただし幕府も国際問題になることを怖れ、打払令は廃止されます)
しかし蘭学を習得した長英とその影響下にある崋山から見れば、そのようなことは夢物語であり、むしろ国を開くことによって西洋の文物を吸収して国を守るのが現実的だと考えていました。
この当時、開国論は鎖国をしている幕府の法に反する理論であり、厳しく罰せられる可能性があることでした。
したがって崋山は田原藩の家老という立場上、開国論を開陳するわけにはいきません。そのようなことをすれば藩の存亡につながりかねません。
これが後の蛮社の獄(ばんしゃのごく)という幕府による思想弾圧事件につながっていきます。
幕府の役人(韮山代官)である英龍は、あくまでも幕法の下でいかに外国からの脅威に対抗するかということを考えている海防論者でした。
蛮社の獄と江川英龍
江戸幕府の保守派はこのような動きに対し、幕府の政治を批判した廉で崋山と長英を逮捕、崋山は国許で蟄居、長英は永牢(終身刑)に処されてしまいます。
この二人と交流があった英龍にも逮捕の危機が迫りましたが、老中水野忠邦(ただくに)が英龍を高く評価していたことにより、逮捕されることはありませんでした。
ちなみに崋山は藩の存亡にかかわることとして後に自害して果てます。
一方、長英は脱獄して顔を硝酸で焼くなどして逃亡生活を送りますが、最後は幕府の役人に踏み込まれ激しい暴行を受け絶命します。
江川英龍、西洋砲術に出会う
このような中、英龍は高島秋帆(しゅうはん)という人物と出会い、西洋の最新の砲術を知ることになります。
高島秋帆
高島秋帆は長崎の町年寄(長崎奉行の下で内政を司る役職)に生まれました。鎖国政策の下で長崎は唯一外国と接点のある場所でした。そこで秋帆は西洋の砲術のことを知りがく然とします。自国の砲術がいかに時代遅れであるかを思い知らされたのです。
その危機感から秋帆は出島のオランダ人に西洋砲術を学び、そこに改良を加えた高島流砲術を完成させます。
秋帆は幕府の命で、日本で初めての洋式砲術の野外演習を行いました。
江川英龍、韮山塾を開く
この後幕府は英龍を秋帆のもとに留学させて、洋式砲術の習得を命じました。そして最新の砲術を身につけた英龍は、これを普及させるべく「韮山塾」を興します。
この塾には当時の俊英たちが集まります。佐久間象山(しょうざん)、大鳥圭介、橋本左内(さない)、桂小五郎ら幕末から明治初期にかけて活躍した人物が多くこの塾で学びました。
黒船来航!そのとき江川英龍は
1853年、アメリカ合衆国海軍マシュー・ペリー提督率いる4隻の蒸気船からなる艦隊が江戸湾に現れます。最新の軍艦の前に幕府は為すところがなく、結局1年後の来航時にアメリカの要求に対する返答をすることでその場をしのぎました。
おそらく平素から幕閣に海防についての注意を喚起してきた英龍は「それ見たことか」と臍(ほぞ)を噛んだことでしょう。
しかしペリー退去後、ときの老中阿部正弘は英龍を勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)格に抜擢して海防の責任者としました。
勘定吟味役という職は、勘定奉行所(現在でいえば財務省のようなもの)の監査を司る役で、勘定奉行ではなく老中に直属していました。
この場合は老中に直属しているということが重要で、老中の直接命令の下で本来の職務ではなく海防のための施策の実行を委ねられたのです。
翌年には再びペリーがやってきます。時間が無い中で英龍は奮闘します。
江川英龍の海防施策その1~御台場の建設
英龍は江戸湾品川沖に11基~12基からなる洋式砲台群の建設をはじめます。これらは品川台場と呼ばれ、現在のお台場エリアにはその一部が残されています。
翌年のペリー来航時には第一から第三までの台場が完成していたため、ペリー一行は江戸湾に深く入って来られず、横浜からの上陸を余儀なくされました。
結局、日本は開国へと舵を切ったためいくつかの台場は計画のみに終わり、現在第三(お台場公園)と第六台場が残されています。
江川英龍の海防施策その2~韮山反射炉の建設
当時の大砲は青銅製が主流でした。
青銅は鉄に比べるとコストが高い、重量が重い、強度に劣るなどのデメリットがありました。それらは射出時間や射程距離にも大きく影響してきます。
しかし良質で強度の高い鉄製品を作るためには高度な技術が必要でした。英龍はこの課題をクリアするべく韮山に反射炉と呼ばれるものを建造します。
反射炉とは
反射炉は金属を溶かすための設備で、この当時の最先端のものでした。
鉄はもともと強度の低い金属ですが、溶かすことで不純物を取り除き(精錬)、それによってできた鉄(鋼鉄)は強度の高いものに生まれ変わるのです。
英龍はオランダの書籍だけを参考にして、反射炉を設計しました。
ちなみに韮山反射炉は、世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を形成する一つとして登録されています。
江川英龍の海防施策その3~農兵軍の創設
英龍は農民たちに近代装備を施し、西洋の軍事教練を行って一軍を組織しようと計画しました。
日本では、戦国時代まで農民は兵となっていましたが、江戸時代は大きな戦乱もなかったため農民は農耕従事者として身分が固定されていました。
一方ヨーロッパでは、フランス革命以降徴兵制による軍制が確立しており、その運用法も日々進歩していました。
オランダの書籍から知識を得ていた英龍は農兵軍の組織を提言しましたが幕府は許しませんでした。しかし英龍の没後に幕府も徐々に農兵軍の編成を認めます。
そして長州藩においては「奇兵隊」として実現し、江戸幕府を打倒する戦力になっていきます。
江川英龍、突然の死
さまざまな改革に取り組んでいた英龍は当然のことながら超多忙な日々を送っていました。
そしてふとしたことで体調を崩すとそれが命取りとなってしまいます。二度目のペリー来航からわずか1年後の出来事でした。
英龍は韮山反射炉の完成も農兵軍の実現も実際目にすることはありませんでした。
江川英龍が実行した諸施策
今までは主に英龍の海防に関することを語ってきましたが、他にも主に民政面で大きな実績を残しています。中には現在にも伝わっているものがあります。そのようなものを含めいくつかを紹介しましょう。
種痘の実施
天然痘は飛鳥時代ころに日本に入ってきた疫病で、江戸時代にはしばしば流行し多くの命が失われていました。
そこで英龍は西洋から入ってきた天然痘の予防接種である種痘(しゅとう)を領民に推奨しました。
当時全く新しい予防法であったため、英龍は自分の子供に接種をさせることで領民の不安を払拭しようとするなどして、その普及に努めました。
“パン祖”と呼ばれる江川英龍
英龍は日本で初めてパンを焼いた人物だといわれています。
国防の観点から考えると長期保存が可能な食料はとても重要なものでした。このパンは現在の食パンというよりは乾パンに近いようなものだったそうです。
このことから英龍は、パン関係の団体などでは“パン祖”と呼ばれています。
気を付け!前へ習え!
英龍が西洋式の農兵軍を組織しようとしたことに触れました。英龍は兵隊を訓練するため各種の号令をわかりやすいように翻訳させました。
それらの言葉のうち、「気を付け」「前へ習え」「右向け右」などの号令は、皆さんにも馴染みがあるのではないでしょうか。
江川英龍は新選組の祖?
幕末の京都で猛威を振るった新撰組の主要メンバーは英龍の管轄域である多摩出身者が占めていました。
英龍は日野宿の名主で、後の新選組副長土方歳三(ひじかたとしぞう)の義兄佐藤彦五郎と懇意になり、農兵思想を伝えていたといわれています。
自身も武芸の鍛錬を欠かさなかった彦五郎はこの思想に共鳴して、当地の剣術の流派である天然理心流の普及に尽力したことが後の新選組の結成につながりました。
多言語観光情報サイト「Guidoor(ガイドア)」|高幡不動尊
江川英龍に対する評価
英龍は戦前、幕末の偉人ということで初等教育の教科書に掲載されていたそうです。しかし現在では掲載はありません(高等教育では掲載があるようです)し、また世間一般の知名度は低いようです。
なぜなのでしょうか?
その理由は戦後の占領政策にあります。
日本を占領したGHQ(General Headquarters、連合国軍最高司令官総司令部)は日本から軍国主義を一掃するべく思想改革を行いました。つまり軍国主義的なものは全て抹殺するという徹底したやり方です。
英龍は国防のために活動していたということで、「国防=軍国」とみなしていたGHQは教科書から削除すべきものの中に江川英龍を入れたといわれています。
GHQのやり方は極端であり、日本の言葉、文化、歴史を十分に理解していたとはいえません。また実作業にあたった日本人がGHQに忖度していた可能性もあります。
次に挙げるのは、こんなものも禁止になりかかったという実話です。
え、それも禁止ですか?
日本でお馴染みのボードゲームである将棋もGHQによって禁止されかかりました。
理由は「将棋はチェスと違い取った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法に違反する行為である。」というものでした。
これに対して日本側は「チェスは、取られた駒はもう使えない。それはすなわち捕虜を殺しているということで、これこそが捕虜虐待である。将棋は適材適所で働く場所を与えている。これはそれぞれの能力を尊重する民主主義の考え方ではないでしょうか。」と理路整然と反論したため、禁止を回避することができました。
というように明らかに無理無体な押し付けも敗戦直後の日本にはずいぶんとあったようです。
英龍の偉業をご自身の目で!
話を英龍のことに戻しましょう。
明治維新後、江戸無血開城を西郷隆盛と交渉して成し遂げた勝海舟(かつかいしゅう)や慶應義塾舎(現慶応義塾大学)を創立した福沢諭吉(ふくざわゆきち)ら、幕末から明治初期の時代を客観的な視点で見ることができた人たちは英龍を高く評価しています。
ちなみに韮山代官の江戸屋敷の本館は維新後福沢諭吉に譲渡されたのち、三田に移築され慶應義塾舎の校舎に利用されました。門だけは地元韮山に移築され、静岡県立韮山高等学校の表門となりました。
幕末、幕府の側にも反幕府の側にも雲霞のごとく有能な人材が現れました。
その中にあって江川英龍は実務家として活動し、私塾においても技術を中心に教えて、結果的に明治以降の日本に大きな足跡を残した人物です。
戦後の混乱によって江川英龍の名前と実績が隠れてしまったのは残念ですが、韮山に残されている英龍ゆかりの場所を巡ってもっと深く学んでみませんか?
多言語観光情報サイト「Guidoor(ガイドア)」|伊豆の国市
執筆:Ju
すごくよくわかりました!