江戸時代の名奉行といえば、「大岡越前」こと大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)か、「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)でしょうか。
この二人は時代劇などで悪い連中には厳しい裁きを、善人には心ある裁きをするヒーローとして取り上げられています。
特に大岡越前は8代将軍徳川吉宗に抜擢されて江戸町奉行として活躍し、小石川養生所の設置や町火消制度の創設などに尽力しています。時代劇で見るような裁判官的な役割ではなく、政治家としての活躍が主でした。
したがって大岡越前の裁きに関する逸話集『大岡政談』は、ほとんどが他から持って来たもので、庶民のための政策を推進した高名な大岡越前の名前をそこに被せたというのが真実のようです。
ではそれらの話はどこから持って来たのでしょうか?
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板倉重宗の父、板倉勝重
徳川家の家臣に板倉勝重(いたくらかつしげ)という人物がいました。板倉家は代々松平家(後の徳川家)に仕える家で、勝重は幼少時に出家し僧となっていましたが、父と兄弟が次々と戦死したため、還俗して徳川家康に仕えるようになりました。
勝重は戦場での働きより内政-特に町奉行として手腕を発揮し、駿府町奉行や江戸町奉行を歴任して、関ヶ原の戦いの後、京都所司代の役目につきます。
京都所司代の役職は、
①京都の治安維持、②大阪の豊臣家の監視、③朝廷の監視と交渉、④西日本諸大名の監視、⑤近畿及び周辺国の民政の総括 など
でしたが、特に重要なのが②と③です。
まず②については、豊臣家の動きを逐一家康に報告し、後の大坂の陣において豊臣家を滅ぼすに至ります。
③については、大坂の陣後に江戸幕府が朝廷に対して課した「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびくげしょはっと)の施行と運用に尽力しました。
また徳川家光の乳母を京の街で公募し、採用したのが勝重であるという説があります。このとき採用されたお福という女性が後に春日局として幕府内で権勢を振るうようになります。
板倉勝重の二人の息子~兄重宗と弟重昌
慎重な兄と積極的な弟
勝重には二人の息子がいました。長男の重宗(しげむね)と重昌(しげまさ)です。共に非常に有能で、重宗は後に勝重の後を継ぎ京都所司代を継ぎます。重昌は家康、秀忠、家光の側近として仕えましたが、島原の乱で戦死します。
勝重が二人の息子にある訴訟について質問をしました。
すると重昌はその場で返答をしましたが、重宗は1日の猶予を求め、翌日に重昌と同じ内容の返答をしました。
周囲の人々はすぐに結論を出した重昌の器量の方が上だと言いはやしましたが、父勝重は「重宗もその場で結論を出していたが、より慎重を期するために時間の猶予を取ったに過ぎない。」と言い、重宗の方が上であると評したそうです。
訴訟で誤った判断を下せば、人の一生を台無しにしてしまうかもしれない、それくらいの慎重さが必要であると言いたかったのでしょう。
父板倉勝重から息子重宗への教え
勝重は、京都所司代を引き継ぐことになった重宗に訴訟に対する心得を教えています。
「訴訟にあっては一方だけの話を聞くと、相手はなんて酷いやつだと思うものである。また一度は納得した話であってもゆっくり聞いてみると何かおかしなことがあると気づくことがある。
一方的、断片的な話をもって全体を判断するようなことをしてはならない。それだけを心得ておけば、他に言うことはない。」
父子二代の名所司代~板倉重宗
重宗は父の後を継ぎ京都所司代に就任しましたが、30年以上在職します。これだけの長期にわたり同じ職に留まるというのは異例で、それだけ重宗の手腕が高く評価されていたのでしょう。
重宗の代になると、その課題も京都の治安維持と朝廷の監視・交渉に重点が置かれます。しかも公家諸法度によって朝廷への統制は行き届くようになっており、前者が主たる任務となっていたものと考えられます。
板倉重宗流裁判官の心得その1
重宗が訴訟の審理をする際には、目の前に障子を立て茶臼で茶を挽きながら相手の言い分を聞いたといわれています。これは目の前に障子を立てることで相手の顔が見えないようにして先入観を排し、茶を挽くことで心を落ち着かせていました。
顔を見てしまえば、どうしても見た目で判断してしまいがちです。またお茶を挽くためには一定の力とリズムでやらなければ上手くいきません。つまり心の平静を保つ必要があるのです。
冷静に、そして公平に裁きをするための心がけだったのでしょう。
板倉重宗流裁判官の心得その2
重宗は死罪を言い渡した相手に対しては「明日刑を執行するが、申し開きがあれば聞こう。」と言って、相手がそれに対し申し開きをした場合には、執行日を延期してでもそのことを徹底的に調べ、言い分が無くなってから刑を執行したそうです。
万に一つも間違いがあっては、人の一生を台無しにすることをわかっていたからこその措置だったのでしょう。
盗賊の心理を読んだ板倉重宗
江戸に盗賊団が出没し、懸賞金を出す旨の立て札を出しましたが、犯人逮捕につながる情報はなく、捜査が難航していました。そこで江戸の町奉行が重宗に相談したところ、重宗は一計を授けました。
立て札の横に誰もが読めるように「懸賞金が少ないので申し出ることができません。この倍の金をいただけるのなら、仲間の居場所を教えます。」と立て札の横に立てさせました。
するとそれを見た仲間の一人が「さては仲間の誰かが裏切ったな。では自分が先に懸賞金をいただいてやる。」と言って、奉行所に申し立てをし、仲間ともども盗賊団は一網打尽にされました。
自分だけは助かりたいという気持ちを逆手にとった策略です。
後任の顔を立てる板倉重宗
京都所司代の職に在職すること30年以上、いよいよ退任することが決まった重宗は、難しい訴訟のいくつかを敢えて自分の手で裁かず、それらについて自分の考えを記した書面を添えて後任に預けました。
後任の所司代は当初皆から不安視されていましたが、その書面の通りに判決を下したところ、周囲の人々は重宗すら裁けなかったものを後任があっさり裁いたと信用が上がり、以後所司代として周囲から尊敬を受けたそうです。
長い間自分が勤めてきたことで、さぞ後任はやりづらいであろうことがわかっていた重宗の心遣いが見えてきます。
板倉重宗のその後
京都所司代を退任した重宗は関宿(現千葉県野田市)に領地を与えられます。江戸幕府では保科正之らの幕閣とともに4代将軍家綱を補佐して政治の一端を担い、大老と同等の発言力があったといわれています。
板倉重宗は落語の祖?
これは政治とは関係ありませんが、重宗は安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)という僧に『醒睡笑』(せいすいしょう)という本の編纂を命じています。
これは笑い話などを集めた本で、後の落語の成立に影響を与えたといわれています。
どのような理由で重宗がこのような本の編纂を命じたのかは不明ですが、笑いが好きな人だったのでしょうか。
老人たちをなだめすかす板倉重宗
これも政治とは関係ありませんが、重宗の調整能力の高さを示す逸話です。
重宗がまだ京都所司代に就任する前、江戸である人の家に招かれました。するとそこには徳川家の戦という戦に参加して手柄を挙げた老武者たちが集まっていました。
彼らは昔の武辺話で盛り上がっていたのですが、次第に話がエスカレートして、記憶違いやらなんやらでいつの間にかお互い罵り合い、ついには刀を抜いて斬り合いを始めそうな険悪な雰囲気になってしまいました。
するとその空気を見て取った重宗はそこに割って入り、
「いやはや、皆様すでにご老年となり子や孫の話ばかり聞かされるものと思っていましたが、武辺争いをなさるとはまだまだお若い。我々のような若輩者の後学のためにも大変ありがたいことです。ささ、いくらでもやってください。」
と言いました。
老武者たちはふと恥ずかしくなり、場の空気も静まったそうです。
これを「年寄りの冷や水」などと直接言えば、さらに場の空気が悪くなることでしょう。そこで重宗は彼らのプライドを重んじつつもたしなめる、心憎いやり方です。
三人目の板倉~板倉重矩
重宗には重昌という弟がいたことを書きました。その重昌も兄に劣らぬ大変有能な人物でしたが、島原の乱に出陣し落命してしまいました。
そのとき重昌の嫡男重矩(しげのり)も従軍していました。重矩は父の弔い合戦とばかりに奮戦し功を立てたのですが、功を焦るあまり軍規違反をしてしまい却って処罰されてしまいました。
しかしその後は順調に出世し、祖父と叔父が務めた京都所司代に就任します。
京都所司代としての板倉重矩
重矩の京都所司代としての在任はわずか2年でした。重矩が着任したころは、京都町奉行という新たな職が設けられ、所司代が朝廷との交渉などの政治を、町奉行が京都の町の民政を行うようになっていました。
したがって重矩の仕事の多くは幕府と朝廷との間の関係改善や調整でした。重矩は関係性が悪化していた幕府と朝廷の間を調整し、その後は意思疎通が上手くいくようになったといわれています。
天顔を拝したく
京都所司代に着任し挨拶のため天皇に拝謁した際、側近の者に御簾(みす)をあげて天顔(天皇の顔)を見せてもらいたいと要望しました。
この当時、天皇に拝謁するときは簾(すだれ)越しに天皇と相対し、側近の者を通して話をするというのが通例でした。
重矩の真意は天皇の顔を知らずして禁裏の守護はできない、万一何かあったとき誰をお守りするのかをはっきりさせるために天顔を見ておきたいのだ、ということだったのでしょう。
媚びない老中、板倉重矩
重矩は京都所司代を辞すると江戸に戻り老中に就任します。
この頃幕閣では酒井忠清(さかいただきよ)が大老の座におり、権勢を誇っていました。
重矩の同僚たちは皆忠清の威勢をはばかりおもねるような態度を取っていましたが、重矩はただ一人そのような態度を取らなかったため、却って忠清から重く用いられたそうです。
小姓と弓~板倉重矩の優しさ
重矩は自宅に祖父勝重から伝わる弓を飾っていました。重矩が留守の際に小姓がこれを折ってしまう事件が起こります。家臣は激怒してこの小姓を監禁して、その旨を恐る恐る重矩に報告しました。
すると重矩はその小姓を許してやるように、と上機嫌で家臣に伝えました。
家臣が重矩にわけをたずねると「小姓なのに武芸に興味があるとは立派な心掛けである。それに小姓ごときが引いて折れてしまうような弓はいざという時に役に立たない。むしろ今それを知ることができたのは幸いである。戦場であったら命を落とすところだった。」と言ったそうです。
板倉重矩、政治を斬る
江戸の牢獄は狭いうえに不衛生な場所でした。そこである幕閣が牢獄を広くするべきだと提案しました。
すると重矩は「それは牢獄の広い狭いの問題ではない。罪人が多いから狭いのだ。罪人が少なくなれば自ずと獄は広くなる。狭いというのはご政道の恥であるから、牢獄を広くするよう心掛けるように。」と諭したそうです。
これは為政者が犯罪を減らすような政治をしなければいけないよ、という忠告なのです。
『大岡政談』の出どころ
さて、話を最初に戻しましょう。
延々と板倉氏三代の話をしましたので既にお気づきかとは思いますが、板倉勝重・重宗父子の手掛けた判例などを記した『板倉政要』という書物から多く取り上げられているといわれています。
もっともこの『板倉政要』にも中国明の時代の話などが盛り込まれており、全てが板倉父子のものではありませんし、当然事実を膨らませた逸話なども多くあるようです。
その中のある有名な話を紹介したいと思います。
三方一両損
左官の金太郎が財布を拾ったところ、中には三両という大金が入っていました。その財布の持ち主はほどなく大工の吉五郎のものだとわかり、金太郎は返しにいきます。
ところが吉五郎は落とした以上もう自分のものではないと言って財布を受け取りません。一方の金太郎も是が非でもこの財布を返すと一歩も引きません。このおかしなやりとりは平行線のまま、ついに奉行所に持ち込まれます。
双方の言い分を聞いた大岡越前は、どちらの言い分にも理があると認め、その上で自分の懐から一両取り出しました。そして合計四両となった金子を二両ずつ金太郎と吉五郎に手渡し、
「金太郎は本来三両もらえるはずだが、二両しかもらえず一両の損、吉五郎は本来三両戻ってくるはずだが、二両しか戻ってこず一両の損、そしてわしはこの裁きで懐から一両出したので一両の損。三人が一両ずつ損をするということで丸く収めんか?」と言い二人を納得させた、という話です。
この話は、落語や講談などで演じられる定番の話になっています。
ちなみに落語では、この後二人に奉行所から食事が出されます。普段ありつけないようなご馳走を貪り食う二人を見た大岡越前が、いくら空腹だからと言って大食するのは体に悪いぞと注意すると、二人は次のように言いサゲになります。
「多くは(大岡)食わねえ、たった一膳(越前)」
『板倉政要』と『大岡政談』が出た背景
江戸時代も4代将軍家光の時代になると戦乱もなく平和な時代になりました。それまで軍人であり政治の担い手でもあった武士たちはその役割が後者に傾き、官僚化していきます。
官僚になると自分の出世が大事で、事なかれ主義になり、上ばかり見て自分の都合以外で下(庶民)を見ることをしなくなります。おそらく江戸時代の町奉行の多くがそうだったことでしょう。町奉行といえば、庶民にもっとも近い位置にいる幕府の役人です。
そんな中で町奉行の理想像を示したのがこれらの書物だったのです。
政治を担う者に庶民の味方を渇望するのは今も昔も変わらないようです。
執筆:Ju
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