徳川家康の婿殿と孫~池田輝政と光政

姫路城は国宝に指定され、世界遺産に登録されています
姫路城(出典:写真AC 七彩さん)

池田輝政(いけだてるまさ)という武将をご存知でしょうか?

輝政の名を聞いて国宝・世界遺産の姫路城を思い出す方もいらっしゃると思います。姫路城を現在残されている規模に改修したことでよく知られています。

輝政は織田信長の時代から戦場を駆け回り、豊臣秀吉・徳川家康という二人の天下人から手厚く扱われた数少ない武将です。

また輝政の孫にあたる光政は江戸時代を代表する名君の一人として知られています。

今回は天下人たちに大切にされた理由や姫路城のことに触れながらこの武将を紹介します。

池田輝政の肖像画。
池田輝政

織田家重臣池田恒興

池田恒興の肖像画。
池田恒興

輝政の父と織田信長

輝政の父は恒興(つねおき)。恒興の母が織田信長の乳母(めのと)であったため、二人は乳兄弟(乳兄弟)にあたります。このため信長の恒興に対する信頼は厚く、恒興もその期待に応えて戦場で多くの功を挙げています。

本能寺の変前には摂津(現大阪府北部および兵庫県南東部)を領地として与えられて、織田家重臣の一員に名を連ねています。

恒興の次男である輝政は信長の近習として仕え、荒木村重(あらきむらしげ)の謀反鎮圧の戦いに出陣して功を挙げ、信長から感状を賜ったという記録が残っています。

清須会議

清州城の立派な外観。
清州城(出典:写真AC KOU2301さん)

父恒興は本能寺の変後の織田家後継者決定-いわゆる清須(きよす)会議-に際して、同じく織田家の重臣丹羽長秀(にわながひで)と共に羽柴(豊臣)秀吉を積極的に支援します。これによって秀吉は織田家中での実権掌握に成功したといわれています。

織田信雄の肖像画。信雄は信長の次男。
織田信雄

この清須会議から2年後、実質的に信長の後継者としての地位を固めつつあった秀吉と信長の次男信雄(のぶかつ)と徳川家康の連合が対決する事態へと発展します。(小牧長久手の戦い

池田輝政、家督を継ぐ

輝政、小牧長久手の戦場で父と兄を喪う

恒興は秀吉方として息子たちと共に参陣しますが、この戦いで長男ともども討死してしまします。このため生き残った輝政が池田家を継ぐことになりました。

輝政は秀吉配下の武将として持ち前の武勇を発揮、秀吉が天下統一を達成すると三河に約15万石の領地を与えられただけではなく、いちはやく豊臣家の一門に準ずる扱いを受けました。

また秀吉の口添えで徳川家康の娘督(とく)姫と再婚することになります。このことが家康と輝政を強く結びつけることになります。

督姫

督姫の肖像画。
督姫

督姫は徳川家康の次女で最初北条氏直(うじなお)の元に嫁いでいました。しかし秀吉の征伐を受けた北条氏は滅亡、氏直は助命されたものの間もなく病死したため実家に戻っていました。

これを哀れに思った家康が秀吉に頼み込んで輝政に再嫁したといわれています。

当初秀吉は側室淀殿の妹お江(ごう)を輝政に嫁がせようと考えていたそうですが、家康の願いを秀吉が承諾したことで実現したそうです。

(左)淀殿と(右)お江の肖像画。
淀殿(左)とお江

この縁組は後に池田家に大きな利益をもたらすことになります。

ちなみにお江はこの後家康の嫡男秀忠に嫁ぎ、三代将軍家光を生むことになります。

家康の婚姻政策

徳川家康の肖像画。
徳川家康

家康は多くの大名と婚姻関係を結ぶことで自家に味方する者を増やしました。しかし自身の女子は三人だけであり、多くの場合は家臣の娘を養女としたうえで嫁がせていました。

例えば真田信之(のぶゆき)の妻小松(こまつ)姫は家康の養女で、実父は本多忠勝(ほんだただかつ)です。

真田信之についてはこちら:隠れた名将がいた城~松代城もどうぞ。

したがって自身の娘を与えた輝政には、家康のひとかたならぬ期待があったものと思われます。

秀吉が輝政を厚遇した理由

豊臣秀吉の肖像画。
豊臣秀吉

秀吉にとって清須会議で主導権を握ったことはその後の天下取りの第一歩であり、そこで先輩格である恒興の支持を得たことは感謝してもしきれないほどの恩であったと思います。

その後小牧長久手の戦いで恩ある恒興を討死させたことは秀吉にとっては痛恨の出来事だったのではないでしょうか。

ですから、せめて恒興の跡継ぎである輝政に秀吉がその恩を返していた、と考えるのは少々人が好すぎるでしょうか。

もっとも輝政は有能な武将であり、実力的にも見合った処遇であるともいえますが、他の武将たちより丁寧に扱われていたことを考えるとそのあたりに理由があるとしか考えられません。

関ヶ原の戦い

岐阜城攻防戦

織田秀信の肖像画。
織田秀信

秀吉が没すると輝政は義父徳川家康に忠誠を誓います。そして関ヶ原の前哨戦ともいえる岐阜城の戦いにおいては東軍(徳川方)の勝利に大きく貢献しています。

当時の岐阜城の城主は織田秀信(ひでのぶ)。そう、信長の嫡孫にあたり輝政にとっては旧主筋にあたる人物です。

岐阜城の外観。織田信長の天下統一の拠点となった。
岐阜城(出典:写真AC あけびさん)

秀信が敗北を恥じて自害しようとしたのを思いとどまらせたのが輝政による説得でした。

またこのとき東軍の福島正則(まさのり)と先陣を激しく争い、輝政は一番乗りの功を挙げます

しかし正則から苦情が入るとあっさりそれを受け入れて、両者が同時に一番乗りをしたことにするような寛容さを見せたといわれています。

福島正則の肖像画。
福島正則

この戦いで東軍は大いに士気を高め、逆に西軍(石田三成方)は戦略が大きく狂いました。

輝政は関ヶ原の本戦では、内応を申し入れてきた吉川広家らの軍を監視する役割だったため大きな功績はありませんでしたが、戦後播磨(現兵庫県)に52万石の領地を与えられ、姫路城に本拠地を置くようになります

姫路城と池田輝政

輝政、姫路城の大改修に取り組む

国宝姫路城の壮麗な外観。
姫路城(出典:写真AC こいこい71さん)

姫路は秀吉がまだ信長軍団の一司令官に過ぎなかったころに本拠地とし、山崎の戦いの前にも姫路を経由して京都に進軍しています。

秀吉が大坂に本拠地を構えるようになってからも、姫路には弟秀長や豊臣一門の大名が入っていたように山陽道の玄関口として重視されていました。

豊臣秀長の肖像画。秀長は秀吉の異父弟にあたる。
豊臣秀長

天下人になった家康にとって姫路はそれ以上に重要な土地でした。なぜなら巨大な大坂城にいる豊臣秀頼をはじめ西国にいる大名たちの監視の役割があったからです。

家康はその場所に輝政を配置しました。武将としての実力だけでこのような要衝に外様大名を置くような甘い家康ではありません。

義理の息子であることに加えて輝政の重厚な人柄を見込んでの人事だったと思われます。

輝政は姫路に赴くと姫路城の大改修を行います。その城郭が現在に残る姫路城の姿です。

姫路城の奇跡

下から見上げた姫路城の様子。
姫路城天守閣(出典:写真AC naoyuki1563さん)

話は飛びますが、太平洋戦争中姫路もアメリカ軍の空襲にあっています。巨大な構造物である姫路城にも爆弾が落とされ、そのうちの一弾が天守に直撃します。

しかし幸運なことにこの爆弾は不発弾であったため姫路城は天守喪失の危機を免れました。その後平成に入って、奈良法隆寺などと共に日本最初の世界遺産に指定されます。

そして「平成の大改修」を経て、今日美しい姿を見せてくれています。

江戸時代の大名の種別

徳川義直の肖像画。
御三家の一家、尾張藩の祖徳川義直

いわゆる幕藩体制における大名の種別を簡単に説明しておきましょう。

家康の直系男子の血を引く者が大名となった藩が親藩(しんぱん)、家康が天下人になる以前から家臣であった家の藩が譜代(ふだい)、それ以外の大名が外様(とざま)です。

親藩の中でも家康の三人の息子義直(よしなお、尾張藩)、頼宣(よりのぶ、紀州藩)、頼房(よりふさ、水戸藩)が祖となった家が「御三家」と呼ばれ知られています。この御三家は徳川宗家の血が絶えたときに、これらの家から宗家を継ぐ者を選ぶことを目的にしていたといわれています。

徳川幕府8代将軍、徳川吉宗の肖像画。
徳川吉宗

事実、後の八代将軍吉宗は御三家の一家紀州徳川家の出身です。

譜代大名は領地こそ少ないものの交通の要衝に配置され、また幕府の政治を執り仕切る重要な役目を担っていました。

井伊直孝の肖像画。
井伊直孝

外様大名は大きな領地を与えられているものの多くの大名は江戸から遠ざけられ、幕政には参与できないばかりか、常に幕府から監視されるという立場でした。

幕府創成期の例外的な時期で、かつ家康の娘を娶っていたとはいえ、外様大名に分類される輝政がいかに家康から信頼されていたかがこのことからもお分かりいただけると思います。

繁栄する池田家

池田100万石?

(左)池田忠継と(右)池田忠雄の肖像画。
池田忠継(左)と忠雄

家康に優遇されていたのは輝政一人ではありません。

輝政の弟も大名として取り立てられていたほか、輝政と督姫の間に生まれた次男忠継(ただつぐ)はまだ幼少であったにもかかわらず、備前(現岡山県)に領土が与えられます。

また三男の忠雄(ただかつ)も淡路島に領土が与えられています。

もっともこの二人は家康の孫にあたるため、この処遇は不自然なものではありません。とはいえこれによって池田家は一門で100万石近い所領を与えられており、これは江戸時代最大の大名である加賀前田家120万石に次ぐ規模です。

輝政の死

池田光政の肖像画。
池田光政

そして江戸の徳川家と大坂の豊臣家の対立が高まる中、輝政は世を去ります。後を継いだのは長男の利隆(としたか)です。利隆は先妻との子であり家康とは血のつながりはありません。

その利隆は家督継承後数年で没し、その後を光政(みつまさ)が継ぎます。

毒まんじゅう

栗饅頭が二つ皿に乗っている。
出典:写真AC ラテすけさん

上述のように利隆は督姫の子ではありません。このため忠継に本家を継がせたい督姫が利隆に毒まんじゅうを食らわせて殺そうとしました。

しかし空気を察した忠継が兄を守るためにこれを食べて死んだため、利隆は救われます。そしてこの行為を恥じた督姫もこれを食べて自害した、という話です。

確かに忠継の後を追うように督姫も死去していますが、信憑性がない話であるうえ、この手の話は他にもありますので、これは創作でしょう。

名君池田光政の誕生

徳川家康に見込まれた光政

江戸幕府2代将軍、徳川秀忠の肖像画。
徳川秀忠

光政の母は二代将軍徳川秀忠の養女で、その実父は「徳川四天王」の一人榊原康政(さかきばらやすまさ)です。つまり父利隆同様に家康とは血のつながりはありません。

しかし父と共に謁見のため家康のもとを訪れると、家康は幼い光政を自分の近くに招き「三左衛門(輝政の通称)の孫よ、早く立派に成人せよ。」と声をかけたそうです。

徳川四天王の一人、榊原康政の肖像画。
榊原康政

義理の息子輝政の孫とはいえ、家康が直接血縁のない子に対してこのような扱いをするというのは異例のことでしょう。

そして家康はこのときの様子を見て、光政を将来並々ならぬ人物に成長するであろうと周囲に語ったといわれています。

光政はその家康の見立て通り、江戸時代を代表する名君へと成長していきます。

鳥取に転封される池田光政

趣のある鳥取城跡の様子。
鳥取城跡(鳥取県鳥取市久松公園 出典:写真AC fuku41さん)

父の利隆が若くして没したため、光政は幼少の身で家督を継ぎます。しかし要地姫路の君主が幼児であるのは心許ないという幕府内での意見により、光政は姫路を取り上げられて鳥取に国替えされてしまいます。

また石高も姫路時代から約10万石減らされたうえに、鳥取は古くからの領主間の争いが絶えない難しい土地であったため、光政の藩経営は苦しいものであったと考えられます。

しかし光政は城下町の整備などに尽力し、藩政を軌道に乗せることに成功しました。

池田光政、鳥取から岡山に移る

池田氏の系図。池田光政は鳥取から岡山へ、池田光仲は岡山から鳥取へ移っている。
池田氏の系図

先述の通り、岡山は輝政の次男忠継に与えられていましたが忠継は若くして没したため三男の忠雄が後を継いでいました。しかし忠雄も病没し嫡男である光仲(みつなか)は幼少でした。

岡山も姫路同様山陽道の要地であり、光政が家督を継いだ時と同様の意見が幕府内でおこりました。そこで幕府は成長した光政を据えて、鳥取に光仲を移させました

岡山の名君、池田光政

山陽道の要衝として栄えた岡山城の現代の様子。
岡山城(出典:写真AC 月桂樹さん)

江戸幕府は外様大名に対してさまざまな義務(他国の城の整備などの土木事業や参勤交代など。それらはすべて大名の持ち出し。)を課したためほとんどの藩の財政は火の車でした。備前岡山藩も例外ではありません。

そこで光政は産業振興と質素倹約を旨として政治に取り組みます。光政の倹約令は民に対してだけではなく、自らも倹約に努め息子たちが贅沢をしているのを見ると厳しく注意したそうです。

それでも岡山藩の財政は苦しかったものの、年貢の増加をして農民に負担を強いるようなことはほとんどなかったといわれています。

池田光政は「ばら寿司」の祖?

岡山県の名物として伝わっているばら寿司の美味しそうな様子。
ばら寿司(出典:写真AC TSUKI KENさん)

光政が発した倹約令のなかには、豪華な食事を禁じるという項目がありました。いわゆる「一汁一菜」-食事は米とおかず一品とみそ汁などの汁物のみ-を命じました。

しかしそれに対して民は反発し頭をひねります。

そして「ご飯(米)の上に魚や野菜を混ぜれば、これは米だからおかずにはあたらない。」と考えたことから、ばら寿司が生まれたといわれています。(異説もあります)

土佐の名物料理として知られるかつおのたたきの美味しそうな様子。
かつおのたたき(出典:写真AC ガイムさん)

高知の郷土料理であるかつおのたたきも、藩主山内一豊(やまうちかずとよ)が衛生上の理由からかつおの生食を禁じたところ、その目を欺くために表面だけを炙ったことが発祥といわれています。(こちらも異説あり)

お上が禁じたことによって現在我々がいただける美味しい料理が生まれたのだとすれば、当時の庶民の知恵に感謝しなければなりませんね。

教育と池田光政

光政が特に力を入れたのが教育振興です。

まだ光政が鳥取の藩主であった頃に『論語』を読み、民に教育を施すことがいかに重要であるかを知ったといわれています。

熊沢蕃山の肖像画。陽明学者として知られている。
熊沢蕃山

光政は幕府が推奨する朱子学ではなく陽明学を信奉しており、この時代の陽明学の大家中江藤樹(なかえとうじゅ)の弟子熊沢蕃山(くまざわばんざん)を岡山に招きます。

そして日本初の藩校である花畠道場を開校し、武士の子弟に対する教育を行いました。

さらに光政の教育振興は庶民に対しても目が向いていました

子どもが寺子屋で学んでいるイラスト。
出典:いらすとや

光政は藩内に100を超える手習所と呼ばれる小規模な学校を設置します。

しかしこのように分散していては教師の質によって教育レベルに差ができると考えたのでしょう。これらの学校を一つに統合しようと考えるようになります。

閑谷学校(写真提供:岡山県観光連盟)

そして光政は家臣の津田永忠(つだながただ)に命じて、こちらも日本初の庶民向けの学校である閑谷学校(しずたにがっこう)を開校します。

当初はごく質素な建物でしたが、光政は遺言で閑谷学校が長く続くように命じていたため、再整備が行われます。

そして最初に閑谷学校設置を命令してから32年後、現在も国宝として残る講堂を含めたすべての建物が完成しました。

池田光政公、御謀反?

(左)酒井忠勝、(右)板倉重宗の肖像画。
酒井忠勝(左)と板倉重宗

光政が幕府推奨の朱子学ではなく、陽明学の徒であることは先述のとおりです。しかしこのことが思わぬ疑惑を呼ぶことになります。

光政は熊沢蕃山を通じて中江藤樹の教えに触れ、その平等思想に共鳴していたと考えられます。厳しい身分制が支配体制の根底にある江戸幕府にとっては極めて危険な思想といえます。

あるとき幕府内に光政が謀反を起こすのでは、という噂が流れます。このことを耳にした大老酒井忠勝(ただかつ)は光政に陽明学をやめるよう忠告します。

また光政の理解者であり、切れ者として知られていた板倉重宗(しげむね)も光政を諫めます。

このため光政は晩年に陽明学を諦め、自身は仕方なく朱子学に転向したそうです。

朱子学者、林羅山の肖像画。
林羅山

これには陽明学を嫌った幕府の朱子学者林羅山(はやしらざん)らの圧力があったといわれています。

その後の池田家と藩祖の影響

閑谷学校の外観。緑に囲まれている。
閑谷学校(写真提供:岡山県観光連盟)

池田光政が名君と呼ばれたのは、内政に力を入れただけでなく教育の重要性に気付いていたからでしょう。

同じく江戸時代の名君として知られる上杉鷹山(うえすぎようざん)も内政改革の一環として教育に注力しています。

さらに光政の場合は、武士だけでなく庶民に教育を施そうとしていたところが特徴です。江戸時代前期にここまでのことをしたのは光政一人でしょう。

備中聖人と呼ばれる山田方谷の肖像画。
山田方谷

幕末、同じ備前にある松山藩で藩政を任された陽明学者の山田方谷(やまだほうこく)も教育に力を入れていましたから、光政を手本にしていたかもしれません。

ちなみに方谷は晩年、光政が開いた閑谷学校で教鞭を執ることになります。

山田方谷についてはこちら:小さな藩の偉大な聖人~山田方谷もどうぞ。

夜の姫路城の様子。ライトアップされていて美しい。
姫路城(出典:写真AC ジェイクさん)

結局池田家は岡山と鳥取の両家が幕末まで続きました。藩祖池田輝政の威光は270年の長きにわたって輝き続けたのです。

執筆:Ju

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