春の風なんか大嫌い!勇猛で優雅な武将蒲生氏郷

若松城(出典:写真AC TECHDさん)
織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将蒲生氏郷
蒲生氏郷像(提供:(公社)びわこビジターズビューロー)

蒲生氏郷(がもううじさと)という武将をご存知でしょうか?
武将としては数多くの武功を挙げ、統治者としては現代にも残る街づくりを行い、文化人としては和歌や茶道に通じた一流の人物で、まさにパーフェクトと呼べる戦国武将です。
こんな人ですから逸話もたくさん残されています。それらのいくつかを氏郷の生涯を振り返りながらみていきましょう。

蒲生氏郷、織田信長に仕える

織田信長で知られる織田家の家紋。信長没後もその兄弟の家系が続いています。
織田家家紋(出典:戦国未満)

蒲生氏郷は近江国日野(現在の滋賀県蒲生郡日野町)に生を受けます。父親の賢秀(かたひで)は当時六角氏の家臣でしたが、六角氏は織田信長によって滅ぼされます。このため賢秀は信長に臣従を誓い、その証としてまだ幼い息子の氏郷を人質として差し出しました。

このとき信長は氏郷を見るなり、こう言ったそうです。

「蒲生の息子の目つきは普通の者と違う。あれはただものではないぞ。将来必ず良い武将になるはずだから、自分の娘を与えてわが婿に迎えよう。」

織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将蒲生氏郷
蒲生氏郷

信長にこうまで言わせた氏郷もさることながら、氏郷の将来を見抜いた信長の人物眼も流石です。
こうして人質として岐阜に行きましたが、その間も勉学を怠らず、また武芸の鍛錬にも励みました。

その頃、こんな逸話があります。

信長は夜になると家臣や小姓たちを集めて、戦場での話をしたり聞いたりするのが好きでした。しかし夜更けになるとまだ幼い小姓たちは眠くなり、ついウトウトしてしまいますが、氏郷だけは目を爛々と輝かせ、一心不乱に話に聞き入っていました。

その様子を見た稲葉良通(いなばよしみち、後に稲葉一鉄と名乗る)という織田家きっての老練な武将は、

「蒲生の息子は尋常な者ではない。あれは将来大軍を率いる武将になるであろう。」

と信長と同様に絶賛したそうです。

信長はそんな氏郷をますます気に入り、氏郷が元服する際には自ら烏帽子親を務め、かつて言ったとおりに自分の娘を氏郷に娶らせました。

先陣を切る男、蒲生氏郷

元服の後は信長旗下の武将として、数々の武功を挙げていきます。自ら望んで織田家中随一の猛将柴田勝家の配下となり活躍します。

氏郷の戦いぶりは、自ら先頭を進むため、部下たちは大将を討たせてはならぬと自分たちも追いかけ必死になって戦い、戦場ではいつも武功を挙げていました。

氏郷は常々、「主将たる者はかかれ、かかれと掛け声を上げる口先だけの指揮をしているようではいけない。主将自らかかるべき場所に行けば、家臣たちはそれを見捨てずついてくるものだ。」と言っていました。

その戦いぶりを表す逸話があります。

あの男に負けるな!

なまず
出典:いらすとや

氏郷は新たに武士を召し抱えるとその者に「わしの軍にはいつも銀の鯰尾(なまずお)の兜をかぶって、陣の先頭に立って戦う男がいる。そいつに負けないように励めよ。」と言っていました。

そう、その鯰尾兜の男こそ氏郷なのです。

ちなみにこの氏郷の鯰尾兜は現存していません。現在岩手県立博物館に氏郷が南部家に婚礼の引き出物として贈った兜が現存していますが、これは燕尾形(えんびなり)と呼ばれる意匠で、なぜか南部家では鯰尾兜として伝えられてきました。それだけ氏郷の鯰尾兜は有名だったのでしょう。(冒頭の銅像は鯰尾兜です。)

そもそもなぜ鯰の尾なのか?当時鯰は地震を起こす生き物として恐れられており(今は地震を予知する生き物と言われてますが)、そこから戦場で敵から恐れられる武将でありたいという気持ちの表れであろうと言われています。

織田信長に仕えた武将前田利家。後に豊臣秀吉に仕え加賀120万石の藩祖となります。
石川県金沢市尾山神社「利家公金鯰尾兜」(出典:写真AC 松波庄九郎さん)

上の写真は加賀百万石の祖前田利家が愛用したといわれる兜で、こちらも鯰尾兜といわれていますが、色は金です。利家も織田家の勇猛な武将として知られており、また氏郷同様、柴田勝家の配下であったことから、その武勇にあやかりたいと氏郷が利家に許しをもらって真似をしたのかもしれません。

氏郷と信長が戦ったら・・・

天下統一後のある日、豊臣秀吉が大名たちを集めて雑談をしていました。
秀吉が「もし信長公が率いる5千の兵と蒲生氏郷が率いる1万の兵が戦ったらどちらが勝つと思う?」と問いました。一同は皆答えに窮していました。

しかし秀吉は次のように即答しました。「わしは信長公が勝つと断言できる。なぜなら氏郷は常に先を駆けるから兜首を5つもとれば、その中に必ず氏郷のものがあるはずである。一方信長公はいつも慎重に戦うので、5千のうち4千9百を討ち取っても信長公はその中にはいないはずである。大将が討たれれば戦の結果は決まったようなものだ。」

義父の死と新しい主

豊臣家の家紋
豊臣家家紋(出典:戦国未満)

天下統一を目前に義父織田信長は明智光秀に討たれます。本能寺の変です。このとき氏郷は父賢秀と協力して、安土城にいた信長の一族を救い出し彼らを自分の居城日野城に保護し、光秀には服従しない姿勢を明確にしました。

このことが評価され、山崎の戦で信長の仇である光秀を討ったことにより織田家中の最有力者になった羽柴秀吉に知られることになります。もともと秀吉と対立する柴田勝家の与力であった氏郷がどのような経緯で秀吉に仕えるようになったのかは不明ですが、おそらく「人たらしの名人」と言われた秀吉がうまく氏郷の心をつかんだのでしょう。

この後は秀吉旗下の武将として天下統一事業に従い、九州遠征や小田原の役などで華々しい活躍を見せます。

それらの功により、伊勢に領地を与えられた氏郷は松阪の地に城を築き、城下町を造り上げます。これが現在の三重県松阪市の原型になっています。

松阪城は蒲生氏郷が造った城で、現在城跡は公園になっています。
松阪城址(出典:写真AC あけびさん)

東北の守護神、蒲生氏郷

豊臣秀吉が天下統一を達成すると、氏郷は東北の地会津に異動を命じられます。松阪では10数万石でしたが、会津では42万石という大出世です。これは東北の地に秀吉の信頼が厚く、かつ武勇に優れた武将を置く必要があったからです。

その理由としては、

  • 東北は秀吉に臣従して日が浅く、乱が起こる可能性があり、
  • 乱が起こった際には、秀吉の本拠地である大坂から遠いので、すぐに大勢の兵を派遣することが難しいため。
  • 野心を持つ伊達政宗がいるため。
  • 関東に日本で最大の領地を持つ徳川家康がおり、その動きをけん制するため。

などが挙げられます。
この他にも、秀吉が氏郷の力を恐れて遠い場所に追いやったという説もありますが、これは後世の作り話でしょう。

また氏郷も最初はこの異動を渋ったといわれています。自分には武功の家臣が少ないという理由で一度は辞退しますが、改めて秀吉から要請があったときはさすがに断り切れず、その代わりに秀吉の命により職を失っている浪人を召し抱えさせてくれるなら、という条件を付けてこの重要な役目を引き受けます。

この時代は奉公構(ほうこうかまえ)と呼ばれる制度があり、大名が他の大名にその武士を召し抱えないよう宣言されるとその者は旧主が許さない限り仕官することができなくなっていました。

この制度は江戸時代になっても続き、大坂の陣で有名になった後藤又兵衛も黒田家から奉公構をされ、他家に仕官できず結果として大坂城に入った人物の一人です。

また異動を渋ったのには別の理由があったことを語る逸話があります。

天下人になりたい?

ある人が氏郷に出世祝いの言葉を述べたところ、氏郷は「会津のような僻地にいては、もう天下人になる望みはなくなった。」と肩を落としていたそうです。

しかしこれは作り話でしょう。いくら氏郷ほど武勇と人望があっても、そう簡単に秀吉に取って代わることはできません。

東北行きを渋った理由が別にあるとするなら、文化人としても一流であった氏郷が当時の文化の中心である京・大坂からはるか彼方の土地に行くことで、他の文化人たちと交流できなくなるのが嫌だったからではないでしょうか。

もちろん武将蒲生氏郷は、そんなことをおくびにも出すような人ではありませんが。

蒲生氏郷が造った街、会津若松

蒲生氏郷が築いた城、若松城、別名鶴ヶ城
若松城(出典:写真AC TECHDさん)

氏郷は会津に移るとまず街づくりに取り組みます。それまであった黒川城を大改修し、その名を若松城と改めます。

この若松の名前の由来は、氏郷の旧領近江の日野城近くにあった「若松の森」と同じく旧領であった「松阪」から採ったといわれています。やはり自分の郷土や旧領への憧れが残っていたのでしょうか。またこの城は鶴ヶ城とも呼ばれますが、こちらの由来は氏郷の幼名「鶴千代」と蒲生家の家紋「舞鶴」であるといわれています。

滋賀県日野町にある若松の森
滋賀県日野町 若松の森(提供:(公社)びわこビジターズビューロー)

氏郷は城下町を造るに際して、旧領の近江や松坂から商人を呼び寄せ優遇したため、若松は商業の町として栄えることになり、こちらも現在の福島県会津若松市の原型になっています。

氏郷は松阪でも若松でも商業を中心に街を作りました。これは義父であり旧主である織田信長の影響を受けたのかもしれません。

若松城は江戸時代に入ってさらに重要度を増し、江戸幕府における東北の鎮守府となります。

3代将軍徳川家光の異母弟で幕政に重きを成した保科正之が会津に封じられて以降、会津松平家(正之の次代以降は松平姓を称します)が江戸幕府の終焉までこの地を治めます。幕末に京都守護職として働いた松平容保(まつだいらかたもり)はその末裔です。(容保自身は他家からの養子ですが)

戊辰戦争のときには幕府側として新政府軍と戦い、白虎隊のような悲劇もある中、激しい攻撃に耐えました。結局開城して降伏しますが、攻め落とされたわけではありません。

氏郷の築いた城はそれだけ堅かったのです。

ちなみにこの若松城は明治時代に作られた歌『荒城の月』のモデルの一つになったともいわれています。(そのコラムはこちら:原曲vs編曲!「荒城の月」の作曲者は?

蒲生氏郷vs伊達政宗~東北の大地で大喧嘩!

東北の戦国大名、伊達政宗の銅像
伊達政宗(出典:写真ACraining_photoさん)

話を氏郷の時代に戻しましょう。
こうして街づくりを始めた氏郷ですが、ここであの男との因縁が勃発します。

あの男、そう伊達政宗です。

伊達政宗の野望

伊達政宗は東北の地に生まれ、戦国大名として近隣を次々と自分の領地にしていきます。一度は会津の地を自らの手に収めます。しかし時はすでに豊臣秀吉による天下統一の完成が迫っていました。
やむなく政宗は小田原を攻略中の秀吉のもとに駆け付け旧領を安堵されましたが、会津は取り上げられてしまいます。政宗は当然不満です。

自分が実力で獲ったものを無条件で手放すなんて冗談じゃない!

だからと言っていきなり若松城を攻めるほど政宗は愚かではありません。

当時の東北地方は、秀吉の命令によって土地を失った浪人が多数存在していました。これらを煽って一揆を起こさせ、それを上手く鎮めれば自分の領地にできると政宗は考えました。一種のマッチポンプにより利を図ったのです。

そして政宗に扇動された浪人たちが立ち上がります(葛西大崎一揆)。しかも勢いが強く、その土地の新しい領主はこれを鎮めることができません。

氏郷出陣!そのとき政宗は

そこで秀吉は氏郷と政宗に一揆鎮圧のために出兵を命じます。氏郷はこの命を受けるとすぐさま兵を動かします。兵は神速を貴ぶのです。しかし一方の政宗はなんだかんだと理由を付けて兵を動かしません。それどころか氏郷の軍が自由に動けぬようけん制してきます。

この政宗の動向に怒った氏郷は、自分一人ででも一揆を鎮めるといわんばかりの勢いで軍を進めます。もちろん伊達軍の動きに警戒を怠りません。

こうなると政宗も秀吉への映り方を考えなければなりません。もし氏郷が一手で一揆を鎮圧したとなれば自分の立場が危うい、そう考えた政宗もやむなく軍を動かしますが、攻める姿勢を見せるだけで、なかなか城を攻め落としません。一方で氏郷には手紙を送り、一揆側の抵抗が激しくてなかなか城が落とせないと弁明をします。

氏郷は政宗がこの一揆の裏で糸を引いていることを確信していました。

そこで氏郷は、「それなら自分がその城を攻撃するから、あなた方は国に引き上げればよろしい。ただ天下のことを専一にお考えなされよ。(秀吉がどう思うか考えたらあなたが攻め落とさないとまずいことになるよ)」と突き放します。

東北の戦国大名、伊達政宗
伊達政宗

氏郷、政宗の腹の底を見透かす

こう言われては仕方がありません。政宗もやむなく一揆への攻撃に本腰を入れ、無事乱は鎮圧されました。一揆を起こした連中こそいい面の皮です。

しかし氏郷はまだ政宗への警戒を一切緩めません。帰国の途中で政宗に攻撃される可能性があると考え、そうさせないために政宗に人質として二人の家臣を差し出すように伝えます。
すると政宗はこれをあっさり承諾するのですが、政宗は一人しか送ってきません。

この政宗の横着な態度に対し、「ここで一人の人質を受け取れば、氏郷は襲われることを恐れるあまり約束より少ない人質で妥協したと言い触らすのであろう。早々に政宗の元に帰って、もう一人の人質とともに参られよ。」と厳しく言ってその人質を追い払ってしまいました。

すると政宗は観念したのか、今度は約束通り二人の人質を送ってよこし、氏郷は無事に若松城に帰ることができました。

氏郷、古今未曽有の大功と激賞される。一方政宗は・・・

織田信長の後を継いで天下人になった豊臣秀吉
豊臣秀吉

氏郷の功績は未曽有のものであると秀吉は大絶賛し、氏郷は領土を42万石から92万石に大加増されます。

一方政宗は乱への関与を疑われ、秀吉に上洛を命じられます。ここで政宗は持ち前の大胆さで秀吉の度肝を抜いて、謝罪には成功しますが領地を削られます。

氏郷は見事に政宗を抑え込み、秀吉の期待に応えました。一方政宗は計画が失敗し、領地を減らされたものの、家の存続には成功しました。氏郷の勇敢さと政宗のしたたかさがよく見える出来事です。

伊達政宗はまだ壮年ともいえる若さであり、領土的野心を捨てきれずにいました。政宗にとってはこれから領地を広げようという矢先に戦国の世は終焉を迎えてしまったのです。

しかし江戸時代に入り徳川幕府が盤石となるや、政宗はその態度は一変させます。野心を捨て、今度は家を守るために振る舞うことを心がけ、幕府の警戒を逸らす努力をします。これはまた次の機会にでも、こちらで紹介させていただければと思います。

蒲生氏郷流家臣統御術~アメと鞭の使い分け

前に書いたように氏郷は戦場では自ら先頭に立って戦うので、家臣たちの命がけの働きが必要不可欠でした。このため自分の家臣に愛情を注ぎ、厚く遇することで彼らと強い絆を作っていったのです。

氏郷は家臣への対応として「知行と情とは車の両輪、鳥の両翼である」と語り、そのどちらも欠けてはならないように努めました。功のあった家臣に恩賞を与えるだけではなく、温かい言葉をかけたり、さまざまな饗応をしたりしていました。

その饗応の一つに氏郷が家臣たちを自宅に招き、自ら風呂を沸かしてもてなしたというものがあります。

この当時、家に風呂があるのは大名クラスの邸宅くらいのもので、そこに客を招き、主が自ら風呂を沸かすというのは客に対する最高のもてなしであったとされています。

家臣たちが感激したのは当然のことでしょう。
氏郷のいかに家臣たちを愛したかがわかる逸話を紹介します。

檜風呂イメージ
出典:写真AC ニシさん

領地が足りない!

会津に移ったとき、氏郷は自ら家臣たちへの領土の割り振りを考えていました。あいつには何万石、そいつには何千石と書き込んでいましたが、つい気前よく割り振ってしまい、これでは拝領した土地では足りなくなってしまいます。

そのことを家臣に相談すると「過分に領地をもらうのはありがたいかぎりですが、それでは国が成り立ちません。どうぞこの件は我らにお任せください。」と言われ、仕方なく割り振りを家臣に任せました。

これを聞いた家臣一同は、氏郷が自分たちに少しでも多くの領地を与えようと考えてくれているのだと大変喜んだそうです。

適材適所を心がける

ある武士が氏郷の御前に出ようとやって来た際に畳のふちにつまずいて転んでしまいました。これを見た近侍の小姓たちはお互い顔を見合わせ笑いました。

すると氏郷は「お前たちはあの男の転んだ姿を笑ったが、あいつが本領を発揮する場は畳の上ではなく戦場だ。まだ戦場の厳しさを知らぬお前らがあの男の畳の上での粗相を笑うなどもっての他である。」と厳しく叱りつけました。

人には向き不向きがあることをよく理解していたからこそ言える言葉でしょう。

次の2つの逸話は氏郷が正直な人物を高く評価していたことがわかるものです。

天下一の卑怯者

言い争いに負け恥をかかされた武士がいました。この男は元来剛直であったため、このことを屈辱に感じ自害を考えたものの、周りが止めたために思い止まりました。それ以来、鎧に「天下一の卑怯者」と書き、戦に出ていました。

この男は「自分はかくかくしかじかによって天下一の卑怯者ですが、氏郷様の下でなら良い働きができるかもしれません。どうかお召し抱えいただけないでしょうか?」と氏郷の家臣に話をしました。

これを家臣から聞いた氏郷は、「隠さずに言うとは正直な男だ。見所がある。」と言い、召し抱えることにしました。この男は氏郷の期待に違わず、戦のたびに功をあげる活躍をしました。

真剣勝負

戦場で抜け駆けをしたとして、氏郷の家中から追放された武士がいました。この男は氏郷と親しい武将にとりなしてもらって蒲生家に帰参を果たしました。

ある日氏郷はこの男を呼び出し、相撲を取ろうと言い出します。この男は剛勇の武士であり、まともに戦えば必ず氏郷に勝てる自信はありましたが、帰参を許されたばかりであり、機嫌を損ねないようにわざと負けた方が良いかと悩みます。

結局、そんな曲がったことをするのは武士の恥であると思い、機嫌を損ねて斬られるなら仕方がないと力一杯に立ち向かい氏郷を投げつけました。

すると氏郷は「残念。もう一番やるぞ。」と向かってきました。周りの家臣たちはこの男に目配せし、暗に負けたほうがいいぞと伝えます。しかしこの男は、そんなことはお構いなしに再び氏郷を容赦なく投げつけました。

氏郷は「見事じゃ。わしの力はおぬしには到底及ばぬ。」と笑いながら言い、その剛勇ぶりと、なによりもその正直さに感じ入り、以前より多く所領を与えました。

相撲をしているイラスト
出典:いらすとや

またこの当時の人心掌握術の一つとして、自分の姓を与えるというものがあります。

これは自分の一族同様に頼りに思っているぞという気持ちを伝えるもので、豊臣秀吉も「豊臣」や「羽柴」の姓を、徳川家康も旧姓である「松平」の姓の名乗りを何人もの武将に許しました。

氏郷も例外ではありません。『Wikipedia』によると蒲生姓の家臣が10人もいます。少々乱発気味にも思えますが、身代が大きくなり新規に召し抱えた家臣も多くなった氏郷としては、それだけ家臣たちの心を獲りたかったのでしょう。

一方で、軍規には大変厳しかったようです。

軍規の緩んだ軍隊というのは武器を持った烏合の衆でしかありません。いざ戦況が不利になれば我先にと逃げだしたり、下手をすれば味方を裏切ったりしかねません。また民に暴行したり略奪したりして民衆からの支持を下げかねません。

幕末の京都で猛威を振るった新撰組
新撰組

軍隊ではありませんが、幕末の京都で猛威をふるった新撰組もその規律は大変厳しいものでした。

新撰組「局中法度」
武士道に背くこと(例えば敵に背をむけるような行為)
局を脱すること
勝手に金策をすること
勝手に訴訟を取り扱うこと
私事で争うこと
これらに違反した者は切腹を命じる。

これは自分たちがもともと武士でない身分の者や浪人の集団であるため、厳しい規律を課さねば烏合の衆と化してしまうことを理解していたからでしょう。

さて、次に出す逸話には氏郷の厳しい一面が見えてきます。

隊列を乱した者は・・・

ある武士が行軍中に隊列を乱す行動をしました。この男はその武勇を氏郷から愛されていましたが、それが軍規を犯した行動であるとして、斬るように命じました。

しかしこれは本当かどうか疑問があります。さきほど挙げた相撲の武士も軍規違反をしたものの、クビになっただけで済み、しかも後日帰参を許されています。

同じような話は中国の故事にもあり、それを参考にして氏郷の厳格な一面を表現したのではないでしょうか。

三国志時代蜀の軍師、諸葛亮孔明
出典:いらすとや

泣いて馬謖を斬る

その故事とは「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」というものです。
三国志の時代の蜀で、宰相の諸葛亮孔明が指揮を執り魏に攻め込み、ある戦場の指揮を自分の愛弟子である馬謖に委ねました。

しかし馬謖は勝ちを焦るあまり孔明の指示を聞かず、その結果大敗を喫して蜀軍は全面撤退を余儀なくされました。

孔明は馬謖が有能で将来有望な人物であることを知り抜いていました。しかしそれ以上に、自分のような高い地位にある者が規律をないがしろにして、えこひいきをしたのでは国が成り立たないことを知っていました。そこで涙ながらに馬謖を斬らせたという話です。

氏郷が実際にその武士を斬ったかどうかはともかく、非常に厳しく軍を律していたのは間違いないようです。

次の逸話は軍規うんぬんという話ではありませんが、人としての在り方について語っているものです。

子供の命と知行

1万石で新規に召し抱えられた武士がいました。

この男はあるとき「10万石くれるなら、自分の子を捨ててもよい。」と語ったところ、それを聞いた氏郷は怒り、「知行のために自分の子の命を軽んじるとは人の道に外れた言葉である。そのような者に高禄を与えるわけにはいかない。」と言って、1万石の約束を取り下げ千石の知行しか与えませんでした。

次にあげるのは氏郷家中にいた、ちょっと変わり種の家臣です。

美少年と歌舞伎

歌舞伎役者のイメージ
出典:いらすとや

氏郷の小姓に名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)という者がいました。山三郎は戦国三大美少年の一人と言われています。山三郎、不破万作、浅香庄次郎の三人で、浅香庄次郎も氏郷に仕えています。山三郎は戦でも派手な衣装に身を包み、先の東北での乱で大活躍しました。

氏郷の死後山三郎は蒲生家を去り、後にかぶき踊り(現在の歌舞伎の原型となった舞踊)の創始者として知られる出雲阿国(いずものおくに)を妻とし、阿国の芸に大きな影響を与えたと言われています。ひょっとすると山三郎を通じて、氏郷も現在の歌舞伎に何か影響を与えているかもしれません。

雅を知る武将蒲生氏郷

このように武将としての有能さ、優しさ、厳しさ、激しさを持ち合わせている氏郷ですが、一方で高い教養を身につけた、優れた文化人でもありました。特に茶道と歌道においては超一流でした。

千利休の愛弟子蒲生氏郷

侘茶を完成させた千利休
千利休(出典:いらすとや)

戦国時代、武家の文化としての茶道が盛んになりました。織田信長は茶を好み、茶道具をしきりに集め、部下たちには自分の許可なく茶会を開くことを禁じていました。

信長がいかに茶道具集めに執心したかを物語る逸話があります。

信長の旗下に松永弾正という家臣がいました。その弾正が信長に反旗を翻したのですが、弾正は「平蜘蛛」と呼ばれる天下に二つとない茶釜を所持しているため、それを差し出すなら許す、と使者を出しました。裏切り者には容赦のない信長が茶釜のためにそこまで妥協しようとしたのです。

茶釜
出典:イラストAC acworksさん

しかし弾正はこの申し出を拒絶し、平蜘蛛の茶釜を粉々に砕いてから城に火をかけて自害しました。(茶釜に火薬を詰めて城もろとも爆発させた、という話もあります)信長が激怒したことは言うまでもありません。

信長の後を継いだ秀吉もまた茶を好み、大坂城には黄金の茶室があったとも言われています。また茶室での密談で政治の方向を決めるようなことも数多くあったようです。

その中で「わび茶」と呼ばれるジャンルを確立したのが千利休でした。利休は最終的に秀吉から死を命じられますが、茶道だけではなく、秀吉の政治顧問的立場にもあった人物であり、その関係からその弟子にはたくさんの武将がいました。中でも氏郷は「利休七哲」と呼ばれる、特に優れた弟子の筆頭に挙げられており、利休からも文武両道の武将であると高く評価されていました。

利休の七哲の一人として知らている武将、細川忠興
細川忠興

七哲の他の人物には、細川忠興、高山右近、古田織部などがいます。
とりわけ前二者とは仲が良かったようで、忠興とはお互い悪口を言い合えるほど仲が良く、また右近とはキリスト教を勧められて最終的に氏郷はこれに帰依し、氏郷が亡くなるときには側に付き添ったそうです。

氏郷にゆかりのある茶道具が現代にも残されており、東京国立博物館をはじめ数か所の博物館、美術館に収蔵されています。

和歌の達人

和歌で使う短冊のイメージ
出典:イラストAC moryさん

以前当サイトのコンテンツで太田道灌を取り上げ、そこで道灌が和歌に精通した教養人であったことを紹介しました。昔から和歌というのは貴族社会において交流を持つうえで必須の教養であり、それは武家が支配階級化していく中でも重要な位置を占めるようになっていきました。

和歌というのは自分の想いや目に見える美しい風景などを制限された文字数の中で表現するという、日本人ならではの文化でしょう。それは殺伐とした戦国の世においても変わりません。いや、むしろ殺伐とした時代だからこそ、その奥ゆかしさというものに惹かれるものがあったのかもしれません。

氏郷もその例外ではありません。それどころかその道においても達人であると高い評価が与えられています。氏郷の和歌に関する逸話をいくつか紹介します。

氏郷、政宗を黙らせる

前にお話ししたように蒲生氏郷と伊達政宗は犬猿の仲でした。秀吉は氏郷と政宗を和解させますが、それでもしっくりとは行かなかったようです。隣国同士ということで、あるとき境界近くの土地の帰属で揉めました。そのときの逸話が次のものです。

政宗が氏郷領の安達ケ原にある黒塚という国境に面した土地は自分の領土であると主張してきました。すると氏郷は「古歌に “みちのくの安達ケ原の黒塚に鬼こもれりといふのはまことか”という句がある。すなわち黒塚は昔から安達ケ原の一部と言われているのだから、黒塚は私の領土です。」と言うと、政宗に二の句を継がせませんでした。

この句は、拾遺和歌集という平安時代に編纂された歌集に載っているもので、いわゆる「安達ケ原の鬼婆伝説」にかけて詠んだ恋の句と言われています。氏郷の和歌への造詣の深さをうかがわせます。

親友の想いに応えたい氏郷

馬に乗る際に使用する道具、鐙
鐙(出典:写真ACphoto-unyさん)

蒲生家には代々伝わる「佐々木の鐙(あぶみ)」と呼ばれる家宝の鐙(馬に乗る際に足を乗せる道具)がありました。親友である細川忠興はそれを見せられて、是非とも譲ってもらえないだろうか、と氏郷に懇願します。

氏郷の家臣は「先祖代々伝わる大切な品ですから、軽々しく人に差し上げてはいけません。似たようなものを作ってそれを差し上げればいかがですか。」と意見をしましたが、氏郷はその家臣に「古歌にこんな句がある。“なき名ぞと人には言いてやみなまし心の問はばなにと答えん”」こう言って、鐙を忠興に快く贈りました。

ちなみにこれは後撰和歌集に収められている恋の句で、直接の意味は「本心ではとても気になっているくせに、あの人のことが好きなのでしょうと人に言われて、ついそんなことはありませんと答えてしまいました。」という心と言葉が裏腹な恋の心境を詠んだ句です。

この場合は、親友が熱望しているのに嘘をついて似たようなものを贈ったら自分は必ず後悔することになるだろう、くらいの意味でしょうか。

この気持ちを知った忠興は氏郷にこれを返そうとしましたが、氏郷は一度差し上げたものだからといって受け取りませんでした。結局氏郷の死後蒲生家に返還されました。

熊本54万石を領した細川家の家紋
細川家家紋(出典:戦国未満)

この細川忠興の子孫にかつて内閣総理大臣を務めた細川護熙(もりひろ)氏がいます。

蒲生氏郷の身に吹いた春の風

話を氏郷の生涯に戻しましょう。

会津に領地を得てからわずか5年後、氏郷は世を去ります。まだ40歳という若さでした。

その死因として、秀吉あるいは秀吉の命を受けた石田三成に毒殺されたなどとする説がありますが、それらは氏郷の武勇を引き立てるための俗説でしょう。

秀吉が氏郷の武勇を恐れたと言われることがありますが、本当に恐ろしければむしろ領土を与えず、自分の目の届くところに置いたはずです。(また江戸時代の書物では、徳川幕府に遠慮して秀吉・三成など前の政権を担っていた人は必要以上に悪く書かれる傾向もあります。)

会津に配置したのは先にも述べた通り、豊臣政権の安定のためには東北の地の安定は必要不可欠なことでした。だからこそ信頼の置ける氏郷に大きな領土を与えたと考えるべきでしょう。

事実、秀吉は自分の侍医を病床の氏郷に派遣したという記録が残っています。

氏郷死後、子が跡を継ぎますが家に内紛が起こり、領地を大きく減らされた上に別の土地に遷されてしまいます。

その後関ヶ原で東軍に付いたことにより会津に復帰を果たしますが、結局氏郷の孫の代に後継ぎがいないということで、蒲生家は断絶してしまいました。

蒲生氏郷の辞世の句

満開になった桜が散る様子
出典:写真ACHiCさん

“限りあれば吹かねど花は散るものを心みじかの春の山風”

この句は「花なんて風が吹かなくてもやがて散ってしまうのに、どうして春に吹く山風は気短かに花を散らしてしまうのだろうか。」という意味で、自らを花にたとえて若くして死の床にいる身の無念を詠んでいます。

よく武士は散り際を美しくなどという言葉を聞きますが、この句は美しい韻律の中に氏郷のこの世への未練が込められている気がして、武将というよりむしろ人間らしさを感じます。

歴史に「たら、れば」はありませんが、もしこの「春の山風」が吹かなかったら、蒲生氏郷は歴史上にさらに美しい花を咲かせたことでしょう。

執筆:Ju

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