太原雪斎(たいげんせっさい)という人物をご存知でしょうか?雪斎は戦国時代の大名今川義元を支えた人物ですが、その本職は僧侶でした。
今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られたことばかりが注目されてしまいますが、「海道一の弓取り」と呼ばれたように駿河(するが)・遠江(とおとうみ、共に現在の静岡県)・三河(みかわ、現在の愛知県東部)を支配した戦国時代を代表する有力大名でした。
その義元を育て、ブレーンとなったのが雪斎です。そんな人物を今回は紹介させていただきます。
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「黒衣の宰相」とは?
「黒衣の宰相」とは簡単にいえば、法体(僧侶)でありながら俗世の政治に関与して大きな影響力を誇った人物のことです。黒衣は僧侶が着る着物を指しています。
日本の歴史においては、平安時代後期に後白河天皇の側近であった信西(しんぜい)や徳川家康の側近であった金地院崇伝(こんちいんすうでん)、南光房天海(なんこうぼうてんかい)が有名です。
当時修業中の僧侶は仏の教えを学ぶだけではなく、広く学問一般を習得していました。そのなかには政治に関するものや兵法に関するものが含まれていたため、それらの知識が重宝されていたのかもしれません。
フランス版「黒衣の宰相」
ちなみにフランスのブルボン朝初期の時代でも二人の聖職者が宰相として腕を振るい、王朝の繁栄の礎を築きました。一人はルイ13世に仕えたリシュリュー、もう一人はルイ14世に仕えたマザランです。
彼らは国王に反抗的な貴族勢力を巧みに抑え込み、三十年戦争などの海外戦争に積極的に介入して王権の強化、フランスの国際的地位向上と領土拡張に貢献しました。
太原雪斎の出自
雪斎は駿河国の豪族庵原(いはら)氏の一族に生まれました。経緯は不明ですが14歳のときに出家して善得院(ぜんとくいん、後の臨済寺)に入寺します。その後京都五山の一つ建仁寺(けんにんじ)で修行を積みました。
この建仁寺での修業時代に秀才ぶりが地元駿河の大名今川氏親(うじちか)に知られるようになり、氏親から帰国して氏親の五男芳菊丸(ほうきくまる、後の今川義元)の教育係をするように依頼されます。
が、雪斎はこの依頼を2度まで断ったといわれています。
これは想像ですが遠く駿河の国主の耳に入るくらいですから、相当な才能の持ち主であったのでしょう。ですから雪斎は僧侶としての道を究めようと考えていたのではないでしょうか。
太原雪斎、今川義元の師になる
しかし再三の氏親からの依頼を断り切れず、雪斎は義元の教育係を引き受けました。雪斎の実家である庵原氏は今川氏を主として仰いでいたので、そちらからの圧力があったのかもしれません。
その後は義元(当時の法名は栴岳承芳、せんがくしょうほう)を教育し、共に上洛して建仁寺や妙心寺で修業を積みます。
このとき雪斎は義元に広く学問を教えたといわれています。その中には兵学なども含まれていました。もちろん後に義元が還俗することになることを考えていたわけではないでしょうが。
義元は幼い頃より雪斎と一緒に過ごしていましたから、師匠の雪斎を父とも兄とも思っていたことでしょう。そのコンビネーションが後に大きく物を言います。
今川義元、家督を継ぐ~ブレーン太原雪斎
前記の通り義元は今川氏親の五男であり、家督を継承することは基本的には考えられないことでした。ですから氏親は義元を雪斎に預けて出家させたのです。
しかし事態が急変します。
氏親が世を去ると長男の氏輝(うじてる)が後を継ぎます。ですが氏輝は実子を残さぬまま急死、さらに氏輝の弟である彦五郎も同じ日に急死したため今川家は後継者が不在になってしまいました。
後継者候補に挙がったのが義元と異母兄で同じく出家していた玄広恵探(げんこうえたん)の二人でした。
この二人の争いは兵を交える事態となりますが、関東の北条氏綱(ほうじょううじつな)の援助を受けることに成功した義元が勝利し、今川家の家督を継ぎました。(花倉の乱、はなくらのらん)
義元は家督を継ぐと雪斎を臨済寺(りんざいじ)の住職に据えて相談役として遇し、いわばブレーンとして雪斎とともに今川家の繁栄を築き上げていくようになります。
外交官、太原雪斎
武田氏との和睦
氏親の代に駿河・遠江を手中に収めていた今川氏にとって、次の目標は三河でした。しかしその前に片付けなければならないことがありました。甲斐の武田氏です。
武田氏とは氏親の代に関係が悪化し、お互いに兵を交えるようなこともしばしば起こっていました。三河に進出するためには背後を固めておく必要があると考えた雪斎は武田氏との同盟を提言します。
義元は雪斎の提言を入れて武田信虎(のぶとら)の娘を自分の正室に迎え、一方信虎の嫡男晴信(後の信玄)に京都の公家の姫を正室に斡旋して同盟を結びました。
しかしこの外交は大きな波乱を呼びます。
花倉の乱で義元を支持した北条氏綱がこの動きに対し激怒します。今川氏と北条氏は以前から友好同盟関係にあり、その対象は武田氏でした。
それを一方的に武田氏と手を組んだ今川義元に対し氏綱は不審の念を持ち、兵を動かし駿河の東地域を占領してしまいます。(河東の乱)
太原雪斎の大局観
北条氏綱の侵攻に対し、雪斎は義元に冷静な対応を提言します。今川一手で対応するのではなく、武田氏及び北条氏と敵対する関東の上杉氏を抱き込んで包囲網を形成したうえで領地を取り返そうというのです。
雪斎は争いごとの焦点だけを見るのではなく、全体を見渡す広い視野をもっていました。
上杉氏や上杉氏に与する豪族たちにとってもこの呼びかけは、長年にわたって北条氏に奪われた土地を回復する絶好の機会です。
この三者の同盟によって北条氏は他方面作戦を余儀なくされ、存亡の窮地に立たされます。しかもこのとき北条氏は氏綱が他界し、若い氏康(うじやす)が家督を継いだばかりでした。
そして万全の包囲網を作り上げた義元は河東に兵を進め奪われた土地を取り戻していきます。北条氏康は兵を出そうにも上杉氏・武田氏の圧力があり、河東に兵を割くことができません。
しかし窮鼠は猫を噛むものです。しかも氏康は後に名将と呼ばれるように鋭い牙をもった鼠でした。
おそらく雪斎は氏康の実力を理解していたのでしょう。今川軍は旧領を奪回するにとどめて、それ以上兵を動かすことはしませんでした。
そして雪斎は武田晴信に仲介を要請し、北条氏が河東の地を今川氏の領土と認めることで三者の間に和睦が成立します。
河越夜戦(かわごえよいくさ)
ここで北条氏康のその後について簡単に触れておきたいと思います。
今川氏・武田氏と和睦をしたことで、氏康は上杉氏を一手に対応できる状況になりました。とはいえこのとき氏康が動かせる兵は1万に満たず、上杉氏及び関東諸侯連合軍は8万以上の兵力で河越城を包囲していました。
奇襲による攻撃しか勝ち目がないと考えた氏康は、敵の油断を誘うため上杉氏に奪った土地を全て返還する旨の偽の講和を持ち掛けます。
これをうかうかと信じた上杉軍は勝利を喜び、酒宴に興じるなどすっかり警戒を解いていました。
好機到来。
氏康はかねてより河越城に籠城していた義弟北条綱成(つなしげ)と連絡をとっており、氏康の本軍が敵陣に夜襲を仕掛けると籠城軍もこれに呼応して、10倍近い兵力を誇る上杉軍を敗走させます。
さらに北条軍は追撃を加えて上杉氏に壊滅的な打撃を与えました。
この戦いによって家の存亡の危機を乗り越えた北条氏の関東制覇は決定的なものとなりました。
太原雪斎、三河に出陣する
話を今川氏と雪斎のことに戻しましょう。
今川義元が北条氏から河東を奪回したのちも両家間の緊張状態は続きますが、刃を交えるような事態には発展しませんでした。
このとき三河西部では尾張の織田信秀(信長の父)がしきりと兵を出し、侵略を繰り返していました。三河の豪族松平氏は単独では対抗できず今川義元に救援を依頼してきます。
松平氏は救援の見返りに嫡子竹千代を人質として義元に差し出そうとしましたが、家臣の裏切りによって竹千代は逆に織田信秀の元に奪われてしまいます。
義元は雪斎を総大将に立て信秀との決戦に挑みます。雪斎は数的優位を生かしたうえ、さらに伏兵を巧みに使って織田軍を撃破します。この雪斎の活躍によって義元は三河での覇権を確立しました。
その後織田氏と今川氏との間で人質交換が行われ、松平竹千代は改めて人質として駿府に送られることになりました。この竹千代が後の徳川家康です。
太原雪斎、竹千代を教育する
人質となった松平竹千代は義元同様、雪斎の下で教育を施されたといわれています。しかしこれには否定論もあり、真偽のほどは定かではありません。
しかし後の家康の辛抱強さや手堅くかつ柔軟な思考法などを考えると、雪斎の影響を受けたものと考えても不自然ではないように思えます。
太原雪斎、甲相駿三国同盟に奔走する
三河を手中に収めた今川義元にとって次なる目標は織田氏がいる尾張(現在の愛知県西部)でした。尾張を制圧すれば上洛への重要な拠点とすることができます。
上洛するということは、後の織田信長を見てもわかるように室町幕府の将軍を補佐して、事実上の天下人として君臨することを意味しています。
そのためには引き続き後方を固める必要がありましたが、このとき武田氏から娶った義元の正室が他界したため武田氏との縁が切れてしまいます。また北条氏とは依然として緊張関係が続いていました。
雪斎は考えます。この当時北条氏は関東、武田氏は信濃、今川氏は尾張にそれぞれ勢力を伸ばそうとしていました。この三者が同盟を結べばお互いに背後が安全になり、目的達成に注力できるようになるのです。
雪斎はこの三者間で婚姻関係を結ぶことにより、同盟を成立させようと動きます。
まずは武田晴信の嫡子義信に義元の娘を嫁がせて、以前からの同盟を維持することに成功します。
次に北条氏康の嫡子氏政に武田信玄の娘が嫁ぎ、最後に今川義元の嫡子氏真(うじざね)に北条氏康の娘が嫁いで三者間の婚姻関係、すなわち甲相駿三国同盟が完成しました。(甲相駿とは甲斐の武田氏、相模の北条氏、駿河の今川氏を指します)
太原雪斎の野望~三国同盟の意義
この同盟が成立したことによって、おのおのが目的に向かって邁進することになります。しかし雪斎が描いたこの同盟は友好関係をつなぐだけではなく、北条・武田を縛ることも目的のうちに含まれていました。
つまり北条氏は今川氏と武田氏が壁になるため、西に勢力を伸ばすことが不可能になりました。すなわち上洛は不可能ということになります。(もっとも北条氏はそもそも上洛を考えておらず、関東において独自の政権運営を考えていたともいわれています)
武田氏は東海道に進出することが不可能になりました。すなわち海を手に入れるためには日本海側を目指すしかなくなってしまいました。その日本海側には上杉謙信という強敵がいるため容易なことではありません。
そして海がないということは、重要な戦略物資である塩を自力で確保できないことを意味しています。(事実、後日武田氏は塩の輸入を止められて苦しむことになります)
今川氏にとってはもともと関東や甲信越にはまるで興味がなく、後顧の憂いを絶ったうえで上洛することがこの同盟の目的でした。「上洛する」ということだけに絞ればこの同盟は明らかに今川氏に一番のメリットがあったのです。
ちなみにこの同盟の成立に際し、今川義元・武田信玄・北条氏康の3名が一堂に会したという逸話がありますが、おそらくこの話は創作であると思われます。
戦国乱世の時代に一国の君主が敵国にのこのこ出向くなどというのは、いくら同盟関係があるからといってもあまりに無防備です。少しでも隙を見せれば命も国も奪われてしまうような時代ですから。
太原雪斎の死とその後の今川家
この三国同盟の成立を見届けたのち、雪斎はこの世を去ります。今川義元にとっては政治・軍事の大黒柱を失った、否、それ以上のものを失ったのかもしれません。
もちろん義元は平凡な武将ではありません。むしろ聡明で指導力のある武将でした。
しかし雪斎が没してから数年後、尾張に出兵した義元は織田信長の奇襲の前に首を授けてしまいます。(桶狭間の戦い)
義元の後を継いだ氏真の時代になると、まず三河で徳川家康が今川氏から独立し、さらに家康が織田信長と同盟を結び今川氏の敵対するようになってしまいます。
他にも多くの家臣の離反が相次ぎ、今川氏は衰退の一途を辿ります。
そして武田信玄が、雪斎が心血を注いだ同盟を破棄して駿河に攻め入り戦国大名今川氏は滅亡します。雪斎が没してからわずか十数年の間のことでした。
軍師太原雪斎
よく豊臣秀吉には二人の軍師がいた、といわれます。竹中半兵衛(たけなかはんべえ)と黒田官兵衛(くろだかんべえ)です。
しかし彼らは織田信長の命によって秀吉の下で働いた武将(与力)でした。彼らがさまざまな献策をしたことは事実ですが、あるときは自分の軍を率いて戦闘を指揮し、またあるときは自分の領国を経営するなど常に秀吉の側にいたわけではありません。
しかし雪斎はその身分はあくまでも僧侶であり、ときには軍を率いることもありましたが、おそらく多くは義元の側近くにあって献策・提言をしていたものと思われ、まさに軍師と呼ぶに相応しい存在でした。
僧侶であった雪斎は俗世の欲を捨てていたでしょうから、冷静な視点で物事を見ることができました。
また雪斎にとって義元は主君でありながらも、自分の愛弟子でもありました。ですからときには義元に対して厳しい言葉を投げかけることもあったことでしょう。義元も師匠である雪斎の言葉であれば素直に聞き入れていたと思います。
この両者の関係が今川家を戦国大名として飛躍させる大きな原動力であったことは間違いありません。
雪斎の一番弟子である義元は天下人にはなれませんでした。しかしもう一人の弟子松平竹千代こと徳川家康は天下人となり、堅牢な国家を築き上げました。
そう、太原雪斎は天下人の師だったのです。
執筆:Ju
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