前回のコラムでは、「日本史上最悪の男」として松永久秀を取り上げましたが、今回は日本史において同じく論争の的となっている、足利尊氏(あしかがたかうじ)に焦点を当てたいと思います。
足利尊氏は室町幕府の初代将軍として知られていますが、彼は戦前の日本において謀反人や逆賊として忌み嫌われる存在でした。彼の名前を称賛するだけで国会での追及を受け、一人の政治家は大臣の地位を辞任せざるを得なかったほどです。
しかし、一体なぜ尊氏はそのような低い評価を受けていたのでしょうか?
本記事では、尊氏の生涯と業績を振り返りつつ、その真相に迫っていきます。
また、同時代の武将である佐々木道誉についても触れていきます。
佐々木道誉についてはこちら:婆娑羅な男~佐々木道誉で詳しく紹介していますので、ぜひ併せてご覧ください。
足利尊氏の人物像に迫りながら、彼がなぜ日本史上に名を刻んだのか、その魅力と複雑さに迫っていきましょう。
Contents
足利氏とは?どんな一族だったのか
足利氏はその祖先が河内源氏の棟梁源義家(みなもとのよしいえ)に遡ります。義家は前九年の役、後三年の役などで活躍した武将で、武士の存在を朝廷に知らしめた人物として知られています。
義家の孫にあたる義康(よしやす)の頃に足利氏を称するようになります。義康は鳥羽上皇に仕えて軍功を挙げ、その子義兼(よしかね)は頼朝の挙兵に参加したことにより、鎌倉幕府の有力御家人としての地位を確立します。
足利氏と源氏の系図
足利氏は源氏の将軍家が滅びても幕府で実権を握る北条氏と婚姻関係を結ぶことによりその地位を維持しました。
義兼の子義氏(よしうじ)は北条泰時を補佐して承久の乱を鎮めるなどの功を挙げており、その扱いは北条氏の一門と変わらないものであったといわれています。
そのような家に生まれたのが尊氏です。
尊氏は当初高氏と名乗っていました。高の字は当時の幕府執権北条高時から与えられたものです。そして後の執権赤橋(北条)守時の妹を妻に迎えており、幕府からの厚遇ぶりがよくわかります。
足利尊氏が生きた世界:時代背景と取り巻く環境
元寇の影響による御家人たちの不満
ここで当時の政治状況を振り返っておきましょう。
13世紀後半の元の日本遠征-いわゆる元寇(げんこう)によって、鎌倉殿(幕府)を主と仰ぐ武士(御家人)たちの多くは出兵による経済負担の重さから没落傾向にあり、幕府への不満が高まっていました。
幕府と御家人の関係は「御恩と奉公」、つまり御家人が幕府の命ずる戦闘や役目に(自腹で)加わることによって、その代償として恩賞や領地の保証を幕府が行うというものでした。
しかしこの戦いは防戦であり、得たものがなかったため恩賞が与えられることは原則としてなかったことが大きな原因となっています。
また権力が北条一門に集中していることにも不満が生じていました。
後醍醐天皇の登場
京都の朝廷は2つに分裂していました。「両統迭立(りょうとうてつりつ)」と呼ばれ、幕府の裁定により持明院統と大覚寺統の両派が交代で天皇に即位することになっていました。
大覚寺統から即位した後醍醐(ごだいご)天皇はこのことに不満がありました。
後醍醐天皇による倒幕計画
鎌倉幕府に不満を持つ後醍醐天皇は側近と倒幕計画を立てたものの、それが発覚してしまいます。(正中の変)
このときは天皇の側近が罰せられるだけで済みましたが、後醍醐天皇はそれに屈することなく、今度は実際に倒幕の兵を挙げます。(元弘の乱)
足利尊氏の野望と挑戦:幕府打倒への軌跡
尊氏、京都に出陣する
幕府は元弘の乱の鎮圧に手を焼きます。特に天皇方に味方した楠木正成(くすのきまさしげ)は少ない兵で籠城戦を展開して、幕府軍は多大な被害を受けます。
この状況に危機感を抱いた幕府は尊氏に出兵を命じます。このとき尊氏は父貞氏の服喪中であり出陣の辞退を申し出ますが、幕府はこれを認めません。『太平記』によればこの出来事で尊氏は幕府に不満を持つようになったといわれています。
尊氏は渋々出陣し、はかばかしい活躍はなかったといわれています。
その後、後醍醐天皇は捕らえられ隠岐に島流しとなり、楠木正成は逃亡したため乱は鎮圧されたものの火種は残されました。
後醍醐天皇は配流されると廃位され、持明院統の光厳(こうごん)天皇が即位しました。
尊氏、倒幕の兵を挙げる
元弘の乱は不完全な形で鎮圧となったため乱から2年後、後醍醐天皇が隠岐を脱出すると近畿各地で倒幕の兵が立ち上がります。
河内(かわち、現大阪府)国千早城で楠木正成、播磨(はりま、現兵庫県)国で赤松円心(あかまつえんしん)、大和(やまと、現奈良県)国吉野で護良親王(もりよし、後醍醐天皇の皇子)がそれぞれ挙兵します。
幕府は再度尊氏に出陣命令を下します。尊氏は上洛にあたり所領の一つである三河(みかわ、現愛知県南部)国に立ち寄ったといわれています。そこで祖父家時の置文(おきぶみ)を披露して、家臣たちに倒幕を宣言したといわれています。
足利家には先祖義家が「自分は生まれ変わって七代後に天下を取る」という文が残されており、それにあたる尊氏の祖父家時は自分の代では実現できなかったため、「三代後の子孫に天下を取らせよ」と置文をして自害したといわれています。
足利一門の有力者である今川了俊(りょうしゅん)はこの置文を見たと著書『難太平記』に残していますが、これが実在したかどうかは明らかではなく、どのタイミングで倒幕を決意したのかはわかりません。
尊氏は京都に到着すると討幕軍には向かわず、丹波(たんば、現京都府)国篠村八幡宮に向かい、ここにおいて正式に倒幕を表明します。
そして京都にある幕府の軍事・警察機関、六波羅探題を攻め滅ぼしました。
鎌倉幕府滅亡
一方関東では尊氏と同じく源義家を祖とする新田義貞が兵を挙げて鎌倉に攻め込み、幕府を滅ぼしています。
この戦いには尊氏の幼い嫡男千寿王(せんじゅおう、後の義詮)が参加しており、千寿王の参陣が多数の兵を集めたといわれています。
新田氏は先述の足利義康の兄義重の代から新田を名乗りましたが、源頼朝の挙兵に当初参加しなかったことなどから幕府から冷遇され、義貞の代には所領である田畑を切り売りするなど困窮していました。
また元服と同時に従五位下に任官された尊氏に対し、義貞は無位無官であったように両者は対照的な関係にありました。
後に尊氏と義貞は対立することになりますが、この先祖からの優劣関係が根底にあり、またそれを朝廷に利用される結果となってしまいます。
建武の新政と尊氏の役割
「尊氏なし」の建武の新政
鎌倉幕府が滅ぼされると後醍醐天皇は帰京して、天皇が自ら政務を見る親政を開始します。建武の新政です。
尊氏は勲功第一とされ従三位に叙任、また天皇の諱(いみな)の尊治(たかはる)の一字を与えられ、尊氏と改名します。
しかし尊氏は高い官位は与えられても重要な役職には就いていません。これは天皇が尊氏を敬遠したとも、尊氏が政権と距離を置いたともいわれています。この状況を指して世間では「尊氏なし」と不思議がったそうです。
ただし弟の直義(ただよし)や執事の高師直(こうのもろなお)などは要職に就いており、また尊氏自身が倒幕第一の功労者でしたから政府に対する影響力は大きかったと考えられます。
後に紹介しますが尊氏という人は世俗の栄達などには淡白でしたから前者、あるいは自らが要職に就かないことで周りの人間を栄達させたのかもしれません。
尊氏、動く~建武の新政の崩壊
問題が多かった建武の新政
建武の新政は発足早々さまざまな問題を抱えます。
問題点としては、まず武士への冷遇が挙げられます。
各地の武士たちは北条氏のみが繁栄する鎌倉幕府が倒すことにより自分たちに大きな恩賞が下ることを期待していましたが、望んでいた恩賞を手にした者はごくわずかでした。
例えば赤松円心は六波羅探題攻略に大きな功を挙げたにもかかわらず恩賞はほとんどなく、それを不満として播磨に帰ってしまいました。円心の離反は新政に大きな陰を落としました。
また偽の綸旨(天皇の命令書)が横行したり、恩賞や土地の保証を求める申請が殺到したりするなど行政機関も混乱していました。さらに内裏(だいり、天皇の住居)建設のために重い税が課せられるなど、人々の不満は高まっていました。
そして新政の成立からわずか2年後、関東で北条氏の残党が乱を起こし、その勢いはたちまち関東一円に広がりました。(中先代の乱)当時鎌倉にいた直義と千寿王は窮地に陥ります。
尊氏は天皇に自分が征夷大将軍となって乱を鎮定したいと願いますが、天皇はこれを却下します。尊氏を関東に行かせればそのまま自立すると考えたからです。
結局尊氏は天皇の命に背き、軍を率いて鎌倉に向かい、乱を鎮圧しました。
そして天皇が恐れていたように尊氏は鎌倉に止まり、功のあった武士たちに恩賞を与え始めるなど独自の動きを見せるようになります。これは尊氏の意思というよりは、弟の直義や高師直の考えでした。
尊氏は天皇からの召喚命令も無視して鎌倉を動きませんでした。
尊氏引退?
ついに後醍醐天皇も動きます。天皇は尊氏討伐令を出し、新田義貞を総大将とした討伐軍を関東に送ったのです。朝敵(朝廷の敵)となってしまった尊氏は周囲の反対も聞かず、赦免を求めるため寺に入り断髪してしまいます。
総大将を失った足利軍は士気が低下して各地で義貞の軍に敗れます。
そこで尊氏に従う者たちは策をもって尊氏に翻意を促します。たとえ尊氏が赦免を願っても決して許さぬ旨を書いた偽の綸旨を作り、尊氏に見せたのです。
さらに直義が決死の思いで戦っていることを知ると「直義が死ねば自分は生きていても意味がない」と言って、ついに意を翻して軍の指揮を執るようになります。
すると足利軍は蘇ります。また義貞に従っていた者たちの裏切りもあり、ついに討伐軍を破り(箱根・竹ノ下の戦い)、今度は軍勢を京都に向けたのでした。
軍勢を京都に向けた理由は後醍醐天皇の側に仕える新田義貞討伐のためです。
尊氏と直義
ここでこの兄弟について触れておきたいと思います。この二人は同じ母から生まれており、幼少の頃より非常に仲が良かったといわれています。
器量が大きい兄と頭が切れる弟のコンビネーションが室町幕府を成立させたといっても過言ではありません。
後に尊氏は清水寺に次のような旨の願文を残しています。
「自分は早く遁世して、今生の果報は全て直義に賜り直義が安寧に過ごせるよう願います。」
当時は長子相続というものは確立しておらず、兄弟で相続争いをするなどということは普通に起こりえたことです。しかしこの兄弟に限ってはそのようなことはありませんでした。
この時はまだ…。
尊氏、西国を転々とする
話を戻しましょう。
尊氏は関東の大軍を率いて京都に攻め上ります。これに対して後醍醐天皇は比叡山に逃げ延びます。
しかし東北地方にいた北畠顕家(きたばたけあきいえ)、態勢を立て直した新田義貞、楠木正成らの軍が今度は京都に進軍してきました。そしてこれに敗れた尊氏は京都から逃げ、西国に落ちていきます。
このとき播磨に立ち寄った尊氏は赤松円心と会い、円心から後醍醐天皇の前の天皇であった光厳天皇の院宣を賜るよう進言されます。尊氏はこの進言を受け入れるとともに、勢力の回復を目指して九州まで落ち延びます。
捲土重来~尊氏再び京へ
九州に行きついた尊氏は地元豪族の協力を得ることに成功し、天皇方の軍を多々良浜(たたらはま)で破ると一気に勢力を回復し、京都を目指して進軍を開始します。
そして鞆(とも、現広島県福山市)で光厳上皇の院宣を得て西国の武士を味方に引き入れると、湊川(現兵庫県神戸市)で新田・楠木連合軍を破り、再び入京を果たします。
桜井の別れ
湊川の戦いで楠木正成は戦死します。正成は後醍醐天皇に自ら考えた戦略を提案しますが却下され、確かな戦術眼をもつ正成はこの戦の敗北と自らの死を覚悟しました。
そこで正成は従軍させていた幼い息子の正行(まさつら)に故郷に帰るよう諭します。しかし正行は頑として聞こうとしません。すると正成は自分が討ち死にした後のことを頼むと改めて諭し、父子は涙ながらに今生の別れを遂げた、という話です。
戦前の教科書には必ず載っていたほか、唱歌にも取り上げられていた話です。
尊氏、室町幕府を開く
尊氏は京都に入ると後醍醐天皇と和睦をしました。天皇は光厳上皇の弟光明天皇に譲位することで決着します。しかしその後、後醍醐天皇は吉野に脱出しそこで新たに朝廷(南朝)を開きました。南北朝時代の幕開けです。
一方尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が成立します。
しかし実際の政務は専ら直義に任せていたようです。
後醍醐天皇の崩御と足利尊氏
尊氏が征夷大将軍に就任した翌年、吉野の後醍醐天皇が崩御します。尊氏は追悼のために天龍寺を建立しました。
政見の相違から敵味方になったものの、尊氏は後醍醐天皇を尊敬していたことは間違いありません。
尊氏にはこのような、良く言えば素直で優しい、悪く言えば優柔不断なところがしばしば見られます。
観応の擾乱~足利兄弟の対立
後醍醐天皇崩御の後、北朝が南朝を各地で圧倒し南北朝の統一は時間の問題かと思われました。しかし北朝内部の紛争が、時代をさらなる混迷の中に叩き込みます。
南朝との戦いで軍事的に貢献したのが将軍の執事であった高師直でした。師直は足利一門を中心に政治を行う直義に対して不満を持ち、ついにクーデターを起こします。
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の幕開けです。
この結果、直義は政治から引退させられて、代わって尊氏の嫡子義詮(よしあきら)が鎌倉から呼び寄せられ、師直が後見するという体制が作られます。
しかしこの体制は長続きしません。
尊氏の庶子で直義の養子になっていた直冬(ただふゆ)が九州で反乱を起こしたのです。
尊氏の子供たち
最初に書きました通り、尊氏の正室は北条氏の出身でした。長男は義詮、後の幕府2代将軍です。次男は基氏(もとうじ)、後に鎌倉にくだり初代関東公方(くぼう)となり、関東の支配を委ねられます。
一方直冬は正室からの生まれではなかったため、尊氏からは認知してもらえないなど冷遇されます。直義には子がなかったため、これを見かねた直義は直冬を養子に迎えました。
直冬は当然実父である尊氏を憎みます。
このことをもって尊氏が酷薄な人間であると言い切ることはできません。
なぜなら尊氏の正室は北条氏出身ということで肩身の狭い思いをしていました。このため尊氏は正室から生まれた子供を立てることで彼女の尊厳を守るという配慮をしたと考えられるため、評価は難しいところです。
尊氏・直義兄弟の別れ
直冬の反乱に呼応して引退後幽閉状態にあった直義は京都を脱出、南朝に帰順して反師直の兵を挙げます。尊氏と師直は戦いを挑みますが敗れ、尊氏は直義と和睦します。
これにより尊氏は無事京都に戻りますが、師直は直義の配下に殺されてしまいました。こうして直義は再び政務に復帰します。
しかし尊氏はこの乱はあくまでも直義と師直の争いであると考えており、乱の論功行賞については尊氏に従った者たちを優遇するなど直義とは認識が異なっていました。
もはや尊氏と直義の関係修復は不可能になっていたのです。
今度は尊氏が南朝に降伏して直義討伐の綸旨を得ることに成功し、直義は追い詰められます。そして尊氏との戦に敗れた直義は鎌倉で捕らえられ、直後に急死します。
直義の死は尊氏による毒殺という説もあります。
なぜ尊氏と直義は対立したのか
先述の通り、二人は非常に仲の良い兄弟でした。尊氏は政務を直義に任せ(ただし軍事指揮権や恩賞授与の権限は尊氏が保持していたといわれています)、先述のように直義のことを想う願文を奉納するほどです。しかし最後には対立してしまいます。
その原因は、直義は北条泰時の時代を理想として政治を行い、足利氏の一門を重用したため、これに不満を抱いた高師直を筆頭にした外様の武将達が尊氏の元に集まったことにあります。
もう一つあるとすれば、義詮と直冬の関係でしょう。
直義が幕府内にいれば直冬が重用され、将軍家嫡子である義詮の地位が相対的に下がります。そのような事態を尊氏は恐れていたはずです。だから将軍位の安定のために直義の排除を決心せざるを得なかったのではないでしょうか。
結局本人たちを取り巻く周囲の環境が二人の関係を破壊してしまったということです。
尊氏の死
直義没後も尊氏は南朝と旧直義派の武将との戦いに明け暮れます。そして混乱が収まらぬまま、尊氏はこの世を去ります。
尊氏が他界して、孫の3代将軍義満(よしみつ)が南北朝合一を果たします。その結果、北朝の系統が現在にも至る皇室となりました。
足利尊氏:英雄か逆賊か?
尊氏を逆賊であると評価したのは、「水戸黄門」の名で知られる徳川光圀(みつくに)が創始した水戸学です。
水戸学は朱子学の影響を強く受けており、尊氏が正統である後醍醐天皇と対立して別の天皇を擁立したことは反逆行為であるとして強く糾弾されたのです。
この思想は幕末の志士たちに強い影響を与え、江戸幕府を倒す旗頭として天皇を前面に押し立てました。これによってできた明治新政府は天皇を中心とした政治を標榜しました。
すると必然のように足利尊氏は天皇に反抗した人物として逆賊扱いされるようになってしまったのです。
戦前は天皇に忠誠を誓うことを国民に求めたので、その点で尊氏はわかりやすい批判対象にさせられたということです。
戦後になってようやく政治的呪縛から解放されて、尊氏も正当に評価されるようになりました。
一方湊川で戦死した楠木正成の評価はうなぎのぼりです。水戸学において日本一の忠臣と評価された正成は、明治維新後さらにその評価を高め、現在も皇居前には正成の銅像があるほどです。
ただしその正成も南北朝合一後しばらくは北朝の天皇に反抗した朝敵として扱われ、戦国時代に朝廷に対して正成の子孫が嘆願したことでようやく許されたのでした。(松永久秀が仲介したといわれています)
尊氏の評価が上がれば正成の方は下がり、正成の評価が上がれば尊氏の方は下がる。二人の評価はときの政治に利用されてしまった結果なのです。
足利尊氏という人物
以前のコラムでも触れましたが、尊氏と親交のあった夢窓疎石(むそうそせき)という禅僧が、室町時代の歴史書、または軍記物語である「梅松論」(ばいしょうろん)にて、尊氏を以下のように評しています。
一、心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。
二、生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵すら許し、しかも彼らに我が子のように接する。
三、心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すらまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。
『梅松論』(ばいしょうろん)現代語訳から抜粋
戦場では死を恐れずに勇敢であり、敵にも寛容な態度を持ち、無欲であるというのです。
特に後者の特徴は、人々にとって非常に魅力的な人物像と言えるでしょう。そのため、尊氏が敗北を繰り返しても、彼に従う者たちは恩賞を求めて命を懸けて戦ったのです。
しかしながら、尊氏の寛容さや気前の良さは、室町幕府にとっては足かせとなることもありました。
彼は領地を自由に与える一方で、室町幕府自体が直属の軍勢をほとんど保持できない状況を招き、多くの領主との統制に苦心しました。
尊氏という人物は、他の幕府創設者である源頼朝や徳川家康のような冷酷さや非情さはほとんど見られませんでした。
その代わりに、室町幕府の組織は不安定である傾向がありました。
また、観応の擾乱への対応が南北朝時代を長引かせ、戦乱の時代を終息させることができなかった点に対しては厳しい批判も存在します。
尊氏は源氏の血を引く家柄であり、無欲で心の広い人物として周囲からは絶大な信頼を得ていました。
彼は美しく見栄えが良く、担ぎ心地の良い「神輿」のような存在だったのかもしれません。
執筆:Ju
史料・参考文献
元寇の影響に関連する重要文献
1. 基本的な記述と戦略
- 『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長): 元寇の戦闘を詳細に描いた絵巻物。当時の戦術や戦闘様子が視覚的に理解できる。
- 『鎌倉年代記』: 鎌倉時代全般の出来事を年代記形式で記録。元寇関連の政治的・軍事的事件が詳述されている。
2. 政治的文脈と社会的影響
- 『関東評定衆伝』: 関東地方の評定衆の動向と元寇時の政治的な背景を記録。
- 『福田文書』: 元寇の社会経済的影響に関する文書集。
- 『日田記』: 地域史観点から元寇の影響を記録した文献。
3. 日記と個人的な記録
- 『師守記』(中原師守): 元寇期における日常生活と社会の状況を記した日記。
- 『公衡公記』(西園寺公衡): 高位貴族の視点から元寇時の事件を記述した記録。
4. 宗教的観点からの解釈
- 『調伏異朝怨敵抄』(宗性): 元寇を宗教的な視角から捉えた記録。
- 『善隣国宝記』(瑞渓周鳳): 僧侶による元寇の評価と教訓を述べた記述。
5. 系図と家系記録
- 『武藤系図』、『宇都宮系図』、『龍造寺系図』、『江上系図』、『財津氏系譜』: 各家系の歴史と元寇時の家族の動向を記した系図。
6. その他の重要な記録
- 『鎌倉遺文』: 鎌倉時代の公文書や書状を集めた資料集。元寇関連の行政文書が含まれる。
- 『弘安四年日記抄』(壬生顕衡): 元寇時の出来事を日記形式で記した資料。
『後醍醐天皇による倒幕計画』に関連する重要文献
- 古典資料
- 『建武年中行事』(後醍醐天皇):建武の新政期間中の政策と行事について後醍醐天皇自身が記録した文献。
- 『増鏡』:中世武士の道徳と倫理をテーマにした物語集。後醍醐天皇の政治的動向に関するエピソードも含む。
- 『太平記』:南北朝時代を中心にした武士団の戦いを描いた歴史物語。後醍醐天皇の倒幕計画とその影響を詳細に記述。
- 『新葉和歌集』:後醍醐天皇が編纂に関わったとされる和歌集。時代背景を反映した歌が多数収録されている。
- 『梅松論』:室町時代初期の政治動向を解説する歴史書。建武の新政に関する詳細な記録を含む。
- 主要な学術研究
- 網野善彦『異形の王権』:中世日本における王権の性質と後醍醐天皇の政治戦略を分析。
- 伊藤喜良「建武政権試論―成立過程を中心として」:建武政権の成立過程と政策の展開を検証。
- 内田啓一『後醍醐天皇と密教』:後醍醐天皇と密教との関連性を掘り下げ、宗教が政治に与えた影響を分析。
- 森茂暁『建武政権―後醍醐天皇の時代』:建武政権下での政治、文化、社会の様相を詳述。
- 市沢哲「鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」」:鎌倉時代末期の公家社会と後醍醐天皇の政治的地位に関する研究。
『楠木正成との比較』に関連する参考文献
- 古典資料
- 『太平記』:南北朝時代の戦いを詳細に記述した物語。楠木正成の活躍が多くのエピソードで描かれている。
- 『古事類苑 兵事部』:日本古代から中世にかけてのさまざまな事象が分類されており、楠木正成に関連する兵法や戦いの記録が含まれる。
- 主要文献
- 新井孝重『楠木正成』 (吉川弘文館, 2011):楠木正成の生涯と業績に焦点を当てた詳細な伝記。
- 生駒孝臣『楠木正成・正行』 (戎光祥出版, 2017):楠木正行と共に、楠木一族の歴史と影響を掘り下げる研究書。
- 海津一朗『楠木正成と悪党』 (筑摩書房, 1999):正成がどのように「悪党」としての地位を超えて、歴史に名を刻んだかを解説。
- 植村清二『楠木正成』 (至文堂, 中公文庫, 1989):正成の戦略とその時代背景に光を当てた研究。丸谷才一による解説付き。
- その他
- 亀田俊和 著「【建武政権の評価】2 「建武の新政」は、反動的なのか、進歩的なのか?」 (洋泉社, 2016):建武の新政とその時代における楠木正成の役割と評価に焦点を当てた研究。
- 黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』 (中央公論社, 1965):蒙古襲来の時代背景とそれに続く武将たちの活躍、楠木正成の立場を含む。
足利尊氏に関する参考文献
- 古典資料
- 『梅松論』:足利尊氏の政治行動や幕府の設立過程を詳細に記述している中世の軍記物。
- 『太平記』:足利尊氏の武勇と政治活動に関連するエピソードが多数含まれている古典文学。
- 『源威集』:足利尊氏の政治的影響力及びその時代の政治背景に関する情報を提供。
- 主要文献
- 会田雄次ほか『足利尊氏』 (思索社, 1991):足利尊氏の生涯とその政治的行動に焦点を当てた包括的な研究書。
- 桑田忠親『足利将軍列伝』 (秋田書店, 1975):尊氏を含む足利将軍家の列伝を通じて、尊氏の政治的意思決定を考察。
- 清水克行『足利尊氏と関東』 (吉川弘文館, 2013):尊氏の関東地方における政治活動とその地域への影響を詳しく解説。
- 櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』 (新人物往来社, 2008):尊氏の政治的、軍事的活動全般にわたる総合的な研究。
- 森茂暁『足利尊氏』 (KADOKAWA, 2017):尊氏の政治的行動とその時代的意義を新たな視角から評価。
- その他
- 亀田俊和『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』 (中央公論新社, 2017):観応の擾乱期における尊氏の政治戦略と兄弟間の対立を詳述。
- 呉座勇一『戦争の日本中世史 ‘下剋上’は本当にあったのか』 (新潮社, 2014):中世日本の戦争を通じて尊氏の政治的行動を含む社会的変動を解析。
官軍と逆賊の歴史を見ると、靖国神社が薄っぺらいものに見えてしまう。
靖国以前の戦死者たちは普通に墓で慰霊されてる。
なんで西南や戊辰戦争から神格化して祀らにゃならんのか?
NPO法人・歴史人物学習館 案内役の 安達 弘 と申します。
素晴らしい情報発信をありがとうございます。
現在、小中高生のための「歴史人物学習のためのデジタル教材の案内板」を構築中であり、その 足利尊氏 のページから、貴ホームページ(または貴動画)をリンクさせていただきたいと希望しております。
現状では、以下のような画面を考えております。
https://rekijin.net/%e8%b6%b3%e5%88%a9%e5%b0%8a%e6%b0%8f/
リンクに問題があるようでしたら、取りやめますので、ご連絡いただけたら幸いです。
また表示上、ご意見ご要望がありましたら、ご遠慮なく、お申し付けください。
安達 弘様
コメントありがとうございます。リンク大歓迎です。ぜひご利用ください。感想や「こんなことを取り上げてほしい」などあればお気軽にコメントください。
引き続きよろしくお願いいたします。
大変興味深く拝読しました。
断片的に自分なりに調べ散らして得た尊氏像とほとんど一致し、より厚く深い資料に裏打ちされた内容でした。
好悪や評価は人さまざまでしょうが、戦前の思想統制社会と異なり、各人の自由な考えでの評価を堂々と公言できる現代社会は素晴らしいと思います。
別なところで読んだのですが、楠正成と足利尊氏はお互いを高く評価しており、楠正成は足利尊氏との融和を強く後醍醐天皇に勧め、足利尊氏は湊川の戦いでも何とか楠正成を討ち死にさせたくなくて圧倒的戦力差にもかかわらず優柔不断に戦を進め戦闘終結に長時間要したとか。
真偽のほどはともかく、両者ともにひとかどの人物を表すエピソードとしてはとても良くできた話だと思いました。
足利尊氏は、とても立派な人物でも見上げる大樹でもないのに、なぜか気になって、力になれるなら手助けしたい、と思わせる魅力がある人物だったのではないかと思います。項羽と劉邦の、劉邦に似た「持っている人」だったのではないでしょうかね。
足利尊氏という人物は、それまで中世の武士にはなかったニュータイプな政治家と考えると納得がいく。
後醍醐天皇も鎌倉北条も、観応の擾乱を起こした足利直義も高師直も、武力で相手を捻じ伏せようとして互いに差し違えてきた典型的な中世人だが、これらの反乱を鎮静化させてきた足利尊氏は将軍としての任務を遂行していただけのように思う。
夢窓疎石が評したように、足利尊氏は権力を得るために戦ったのではなく、ひたすら冷静に幕府の本分を全うしただけなのだろう。
歴史はとかく旧体制を倒して革命を起こした人物を評価したがるが、果たしてその短絡的な破壊は正義なのだろうか。
足利尊氏のように、なるべく敵味方の共存をはかり、なるべく政権交代の反動を少なくした、ある意味現代的な政治家はもっと評価されても良いと思う。
同じ題材でも悪意のある解釈によって評価が180度変わる印象操作の典型例として、むしろ歴史学というより社会心理学として興味深い記事と言える。
尊氏は神輿に担がれてはいないんじゃないかな?
家臣や弟の話を聞いているようで結構真反対のことしてるし。全国の武士を率いるリーダー的素質を感じる。
反対に直義は型通りの仕事は得意だけど、幕府を牽引するほどのリーダーではない。
観応の擾乱とか、神輿として足利一門に担がれたのは足利直義の方だと思う。
足利尊氏は政権創始者でありながら、源頼朝や徳川家康とはどこか違っている
その違っているところが独特の魅力であり、弱点でもあるようだ
気前のよさは、室町幕府という直轄の軍事力をあまり保有しない軍事政権という特異な政治体制に行き着く
王朝文化への愛好は公家政治を摂り入れたり、文芸重視したりする姿勢はその後の足利将軍家にも相伝されていく
南北朝という問題の多い時代のなかで結果的に討死も自害も隠遁もしないまま生涯を終えることのできたしたたかさ
生にも権力にもこだわりがなく、それでもやりたいことをやり遂げてきた自由人みたいな生き方は頼朝や家康とは違っていて、そこがおもしろい
まるで教科書を読んでいるような、非常に読みにくい文章でした。こういった良い内容の記事はもっと幅広い世代に読まれて欲しいですが、もう少し分かりやすく簡潔にして欲しいですね
え?読みやすかったけど。漫画しか読めない系ですか?
確かに小学生には難しいかもしれませんね、子供向けの歴史の漫画があるのでおすすめします
そういう言い方するのやめろよw
あなたの方が小中学生に見えてしまうコメントですよ、
人には色々な捉え方があるんだから優しく言いなよw
お前ら全員保育園からやり直せwww
南北朝時代は誰が覇者になってもおかしくない時代、担がれるだけでも只者ではない気がする。
そもそも担ぐという表現が浅はかである。
中世は支えるに値しないと判断されたら簡単に掌を返される。
建武政権は2年で武士から見放され、鎌倉幕府は3代で北条に乗っとられている。
戦国時代は更に顕著で、織田氏、豊臣氏は信長や秀吉が死んだ後、驚くほど多くの武士が去ってゆく。
室町幕府は何故存続できたのか。
ここに着目してほしい。
管領や守護といった幕府を支える体制が尊氏→義詮→義満で構築されたため生き延びたと考えるべきと思う。
この歴史史上最悪シリーズは、執筆者の意図かどうかは分からないが、戦前のプロパガンダと同じ手法をしてしまっていることに気付いた方が良いと思う。
足利尊氏は、真田広之さん演じる「NHK大河ドラマ太平記」で、詳しく認識するようになりました。
今でも、ドラマのイメージが思い出され、武田鉄矢さん演じる楠木正成が、「負けないように戦う」と言って、奮戦していたのを思い出します。
尊氏が、維新後に利用されたのは、やはり南北朝を長引かせてしまい、目立つ存在になったからなんでしょうかね?
自分の都合の良い天皇を立てて、そちらを正当とするのは、平家も、源氏もやっていたような気がするのですが。
自分は、真田さんの演じた尊氏が好印象だったので、悪い人にほあ思えないのもあるかもしれませんが。
そして、尊氏に対しては、粘り強いという印象が強くあります。
尊氏の九州からの東上、中でも尾道における戦勝祈願や海上、陸上の二手に分かれての東上に興味がありいろいろ文献で調べています。尾道では、尊氏並びに武将一同、和歌を奉納したという故事とその歌が浄土寺に残っていること以外には、何の文献も伝説も太平記の記述にも無いようです。どこかに、そのようなエピソード或いは言い伝え、伝説はないでしょうか。御存じの方、聞いた覚えがある方は、小さなことでも発表していただければ有難いです。
日本史上最悪なのは、主家である源家の正統嫡流を滅ぼし、陰険卑怯極まる陰謀で次々と同僚である御家人を陥れ滅ぼした鎌倉北条氏でしょう。
因果応報で東勝寺で全滅しましたが、本当に胸の閊えが下りる壮挙でした。
私が50年以上昔中学生の歴史の教科書に載っていた
写真の武将は源頼朝では無く、足利直義で、馬上姿の写真の武将は足利尊氏で無く、高師直である事に50数年ぶりに恥ずかしながら知りました。
凄く分かりやすかったです。ありがとうございます
とても勉強になりました。ありがとうございます。
経緯説明から考察まで過不足も偏りも感じられない素晴らしい記事でした。
なにげなく、まさに偶然に、このサイトを読みましたが、
執筆者の温厚で人柄の良さが伝わって来た実に良い説明文でした。
世の中を良くするも悪くするもすべては作家とそれに群がる興行師。
つまり見て来たような嘘を作家が書き、これは金になると、映画やドラマ、
そして演劇や本の販売などで商売をする興行師らによって、世の中が変る。
そうやって人々の頭の中に植え付けられた日本の歴史など、90%は嘘だらけ。
現実的に、真夜中に自分の部屋に刃物を持った者らが47人も入って来て家族が全員、逃げまくった上で皆殺しにされてしまった。その戦慄的な恐怖を、美談にして儲けているのが彼らなのだ(笑)
>47人も入って来て
まあ確かにそうなんでしょうが、それ以前に朱子学という支配者にとって素晴らしいセントラルドグマとプロパガンダを強要し続けた政策が、幕府に見事にブーメランとなってますよね。47士は公序良俗を乱すテロ集団でありながら、忠義の孝臣と褒めねばならぬという。実際これらの処断はかなり揉めたそうで。
多分凡ミスだと思いますが、元寇は13世紀末(1274、1281)です。12世紀末は鎌倉幕府成立(1180~1192)ですよ。
Guidoor Media (ガイドア メディア)編集部です。
いつも記事を読んでいただき誠にありがとうございます。
ご指摘いただきました通り、世紀の記載に謝りがありましたので修正させていただきました。
今後もGuidoor Mediaを何卒よろしくお願いいたします。