豊臣秀長(とよとみひでなが)はあの「天下人」秀吉の弟で右腕、いやそれ以上の存在でした。秀長は兄の天下統一を見届けた直後に亡くなりますが、それは豊臣家終焉のはじまりでした。
よく「秀長が長生きしていれば豊臣家の天下は安泰だった」ということを言われますが、その通りかもしれません。
今回はそんな豊臣秀長を紹介します。
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農民の家に生まれた秀長
秀長は尾張国中村(現在の名古屋市中村区)の農民の家に生まれ、幼少時は小竹(こちく)と呼ばれていたと伝わります。秀吉とは異父兄弟の関係といわれていますが、同父兄弟という説もあります。
秀吉は秀長が幼い頃に家を飛び出しており、二人の間がどれほど親密であったかは不明です。
農家の生活に嫌気がさした秀吉とは異なり、小竹は真面目に働く青年に育ち稲の成長を日々気にする生活を送っていました。
しかし転機が訪れます。
兄秀吉からのスカウト
家を出ていった兄秀吉が突然帰って来たのです。当時木下藤吉郎と名乗っていた秀吉は流浪の生活の末、織田信長の家臣になっていました。
武士として主人に奉公するからには部下が必要です。おそらく秀吉は故郷に錦を飾りつつ、目ぼしい若者をスカウトしに帰って来たのでしょう。あるいは小竹の存在を思い出していたのかもしれません。
小竹は兄の説得に心を動かし兄の下で武士となり、後に木下小一郎長秀と名乗りを改めます。この名は織田信長の「長」と兄秀吉の「秀」を組み合わせたものといわれていますが、事実かどうかは不明です。
(信長が没し秀吉が天下人になってから、秀と長をひっくり返して秀長と名乗るようになります。表記がややこしくなりますので、以後は秀長で統一します。)
武士秀長の仕事
武士になったとはいえ、昨日まで田畑を耕す生活をしていた者がいきなり武士の仕事に馴染めるはずはありません。
当初は戦場や敵の領地に調略に赴く兄の不在を守る仕事をしていました。
秀吉は功を重ねるごとに信長から与力として武将を付けられるようになります。
小六の呼称で知られる蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)、前野長康(まえのながやす)、堀尾吉晴(ほりおよしはる)らです。彼らは幾多の戦場を駆け回った歴戦の勇士です。
また秀吉の妻おね(後の北政所)の姻戚である浅野長政(長吉)(あさのながまさ、ながよしとも)も秀吉に従っていました。彼は高い内政手腕の持ち主です。
さらに信長の美濃攻略で功を挙げた秀吉は配下に竹中重治(しげはる)を迎えます。彼は「竹中半兵衛」の名で知られる智謀の士です。
秀長はこれらの一癖も二癖もある連中をときには兄に代わって束ねる立場です。
当初は農民上がりと馬鹿にされていたかもしれませんが、小一郎は謙虚、温厚で誠実な性格でしたから、すぐに彼らと打ち解けたのではないでしょうか。
そして小一郎は彼らから戦場での将としての振る舞い、兵の進退、内政のやり方などさまざまなことを学んでいったものと思われます。
この間はあまり記録がないため想像でしかありませんが、後に見せる戦闘指揮官として、また為政者としての優れた手腕の基礎をこの時期に学んだのではないでしょうか。
この後、秀吉が姓を羽柴(はしば)に改めると秀長もそれに倣います。
そして物事に慣れてきた武将秀長は、徐々に重要な役割を任されるようになっていきます。
羽柴家第一の将秀長
時が過ぎ、秀吉は信長から琵琶湖畔の長浜に城を与えられ、さらに一軍を委ねられる身分に出世していました。
秀吉が信長から中国地方征伐軍の総司令官を命じられると、秀長も従軍します。
秀長は一手の将として羽柴軍の重責を担うほどに成長していました。その信頼を証明する書状があります。
この頃秀吉は播磨(はりま、現兵庫県西部)で織田家に臣従し、秀吉の中国征伐に協力していた黒田官兵衛(くろだかんべえ)に対して送った書状の中に次のような一節が出てきます。
その方の儀は、我ら弟の小一郎め同然に心安く存じおり候(意訳:あなたのことは弟の秀長と同じように信頼している)
これは秀吉が官兵衛のことを信頼しているよ、ということを伝える一文です。
秀吉はこのようなとき、相手方を最上級の表現でほめちぎることを得意としていました。つまり秀長は秀吉から見て頼もしい弟であるということが前提になっていると考えられます。
羽柴軍は苦戦を重ねたものの、播磨・但馬(たじま、現兵庫県北部)の平定に成功し、いよいよ中国の王者毛利氏との戦いへと突入していきました。
中国大返しと山崎の戦い
そして本能寺の変が起こります。備中高松城で毛利軍と対峙していた羽柴軍は姫路を経由して急ぎ京都に戻り、信長を討った明智光秀の軍と激突します。(山崎の戦い)
秀長はこの戦いで最重要な土地である天王山の守備を任されています。
秀長は秀吉のライバル柴田勝家との賤ケ岳(しずがたけ)の戦いにも参陣しています。その論功行賞で播磨・但馬の二国を与えられ、秀長は数十万石の大名に出世するのでした。
甥をかばう秀長
柴田勝家を滅ぼし天下人への道を進む秀吉の前に強敵が立ちはだかります。徳川家康です。
家康は信長の次男信雄と同盟して、秀吉軍と対峙します。(小牧長久手の戦い)
この戦いでは全軍が激突するような大規模な戦闘はなかったものの、秀吉の甥秀次が失態を犯し局地戦で家康軍に敗れます。
秀吉は秀次の醜態に激怒しますが、秀長が秀次をかばってやったため大きな咎めを受けることはありませんでした。続く紀州(紀伊国、現和歌山県)征伐で秀長は秀次を後見して信頼回復に力を貸しています。
紀州を平定すると秀長は検地を行って安定した税収確保のための基盤を作りました。これが数年後に秀吉が全国的に実施する太閤検地の基礎になったのではないかといわれています。
また家臣の藤堂高虎(とうどうたかとら)に命じて和歌山城を築かせました。
(藤堂高虎についてはこちら:変節漢?忠義者?~「城造りの天才」藤堂高虎もどうぞ)
ちなみにこの頃、名を秀長と改めたようです。
四国征伐軍総司令官羽柴秀長
近畿地方が平穏になり、中国地方は毛利氏が秀吉に恭順しているため、西国で秀吉に敵対する大きな勢力は四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と九州の島津義久(しまづよしひさ)だけになりました。
秀吉は近隣の四国を征伐しようと軍を編成しますが、病に倒れてしまいます。そこで秀長を総司令官に任命して、10万を超える兵を与えて四国に送り込みます。
秀長は勇躍してこの任に就きますが、元親の抵抗は激しく、また毛利氏などとの連携が上手くいかなかったため思ったように軍を進めることができませんでした。
病気が快癒した秀吉は秀長の動きを手ぬるいと感じ、自分が総大将になって四国に出張ると秀長に書状を送りました。
秀長はきっとこれを見て「兄上は相変わらず気が短い…」とため息をついたことでしょう。
秀長は秀吉に対して「必ず自分が元親を降すから、四国に来ることはやめてほしい」旨の返信をします。
態勢を整えた秀長はその言葉通り、元親を降して四国の平定に成功しました。
この功によって、大和(現奈良県)を与えられ100万石の大名になるとともに、官位も大納言(だいなごん)に昇進し、大和大納言と呼ばれるようになりました。
そして郡山城を大改修して居城とし、領国統治の拠点にしました。
豊臣秀長の内政
大和は寺院およびその領地が多い国でした。戦国の世で武士たちに領地を横領されたため土地を返還しろという寺院からの訴えが多発しており、治めることが難しいとされていました。
秀長は多忙な中、それらの訴えを自ら耳を傾け公正な裁決を下したといわれています。その一方で僧兵を擁している寺院には武装解除を進めるなど、硬軟織り交ぜた巧みな政策で統治を進めました。
この他秀長は商工業の保護を行い、彼らに自治権を与え城下町の賑わいを促進しています。現在にも奈良に伝わる「赤膚焼(あかはだやき)」と呼ばれる陶器づくりを始めさせたのが秀長であるといわれています。
九州征伐と忍び寄る病気の影
戦に内政に多忙を極めた秀長ですが、この頃有馬温泉で湯治をしたという記録が残っています。この時期あたりから秀長は体調を崩しやすくなっていたのではないかといわれています。
しかし秀長は働き続け、徳川家康が秀吉に臣従するために上洛すると、自らの屋敷を家康に提供するなど相変わらず重要な役目を果たしています。
そして九州征伐において秀長は日向方面の司令官となり、根白坂(ねじろざか)の戦いで島津軍を破り、この遠征の勝利を決定づけました。
調整役豊臣秀長
秀吉は元来気が短く怒りっぽい性格だったのでしょう。
それまでは寛大に振る舞うことが人気を集める秘訣であることを理解していた秀吉ですが、自分がトップに立つと短気な面が目立つようになってきました。
秀次に限らず秀吉の勘気に触れた者は、秀長にとりなしを依頼して事なきを得た人が多かったそうです。
また四国征伐、九州征伐で敗れた長宗我部元親と島津義久も秀長を通じて秀吉に降伏を申し入れ、寛大な処置がとられています。
九州征伐の前、島津氏の圧力を訴えに来た大友宗麟(おおともそうりん)に対して秀吉は次のように語っています。
内々の儀は宗易(そうえき、千利休のこと)に、公儀の事は宰相(秀長のこと)存じ候、いよいよ申し談ずべし(意訳:秘密のこと、表に出したくないことは利休に、政治については秀長に相談しなさい)
秀吉も政治関係のことは秀長に任せておけば安心だったのでしょう。
豊臣秀長、没す
いよいよ秀吉の天下統一も関東・東北を残すだけになりました。しかしこの頃秀長の体調は芳しくなく、床に伏せることが多くなっていました。
これまで兄秀吉の主要な戦いに必ず参陣していた秀長でしたが、ついに小田原征伐には病のため参陣ができませんでした。
そして関東・東北を平定し天下統一を果たし大坂に凱旋した秀吉の姿を見届けると、秀長は居城大和郡山城で息を引き取ります。兄秀吉の天下取りに尽くした生涯でした。
蓄財家豊臣秀長
秀長は農民出身であったためか、ぜいたくを好まず質素な暮らしを旨とし蓄財に励みました。秀長が没したとき、大和郡山城には莫大な量の金銀が蓄えられていたそうです。
このため一部では秀長を守銭奴と悪口を叩く者もいたようです。
秀長は銭が無ければ戦も政治もできないことをよく理解していました。
例えば鳥取城の攻囲戦では相場より数倍高い価格で米を買い占め、備中高松城の水攻めでは労働者を高い銭で雇うといったように、秀吉軍は金に糸目をつけない方法で戦を進めてきました。
秀吉は金銭を使って兵士の流血を減らす戦い方をすることで、兵士や民衆の支持を勝ち取った面はあったと思います。そして金策という汚れ仕事は秀長の役割だったものと思われます。
秀長亡き後の豊臣家
豪壮華麗な建物も土台が弱くなれば崩壊してしまいます。秀長を喪った豊臣家は没落の道を辿っていきます。
秀長は秀吉を諫めることができる数少ない人物でした。天下人となってすっかり増長してしまった秀吉を抑えることができるのは秀長と利休だけだったかもしれません。
たがの外れた独裁者秀吉は、千利休を切腹させ、甥の秀次とその妻子を惨殺し、無用の戦を起こし人心を失っていく中で世を去ります。
そして徳川家康に天下を奪われ、秀長が没してからわずか20数年後には豊臣家は滅んでしまいます。
自分の地位が高くなっても謙虚な姿勢を失わず、暴走しがちな兄のブレーキ役を務めた秀長。
豊臣政権が短命に終わった理由は、この秀長を失ったためと言っても過言ではないでしょう。
執筆:Ju
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