杉原千畝(すぎはら ちうね)がユダヤ人を救う
「命のビザ」までの道のり
杉原千畝(すぎはら ちうね)が「日本のシンドラー」として広く世界にその名を知られることとなったユダヤ人を救う「命のビザ」を発給したのは40歳の時のこと。自らの職を賭し、およそ約6000人ものユダヤ人の命を救うまでの道のりはどのようなものだったのか。杉原千畝とはどんな人物だったのでしょうか?
「日本のシンドラー」とまで呼ばれるようになった杉原千畝の物語を追っていきます。
杉原千畝とはどんな人物? 〜外交官を目指すまで〜
杉原千畝は1900年(明治33年)1月1日、岐阜県武儀郡上有知町(現在の美濃市)に生まれる。
税務署の職員だった千畝の父は小学校を全甲(現在のオール5)という優秀な成績で卒業した息子を医学の道に進めたいと希望していた。当時日本統治下の朝鮮の京城に赴任していたこともあり、息子には京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)に進学して医師になることを望んでいた。
しかし、杉原自身は医学に興味はなく、「英語の教師になりたい」と早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。
早稲田大学への進学は父の意に反したものだったので、実家から仕送りなど一切の援助はなく、学費や生活費をまかなうために早朝の牛乳配達などのアルバイトをしたものの、まったく足りずたちまち生活苦に陥ってしまった。
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