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「日本のシンドラー」杉原千畝 次なる舞台は?
杉原千畝はベルリンへ向かう列車の出発を待つホームで、助けを求めて追いすがるユダヤ人たちに断腸の思いで伝えた別れ。
「もっと多くの人を救えたのではないか…」
やり場のない感情を抱え、リトアニアを後にした杉原を待っていた運命とは?
「命のビザ」発給の舞台、リトアニアを退去後の杉原千畝
後ろ髪を引かれる思いでリトアニアを退去した杉原千畝は、外務省からの辞令に従いドイツの首都ベルリンを訪れた後、1940年(昭和15年)にチェコスロバキアの在プラハ日本総領事館に領事代理として赴任。
そして1941年(昭和16年)3月にはドイツ東プロイセン州の在ケーニヒスベルク総領事館に領事代理として赴任した。
しかし、亡命ポーランド政府の情報将校たちによる全ヨーロッパ規模の諜報ネットワークの構築に関係したとして、東プロイセンの大管区の長官だったエーリヒ・コッホによりケーニヒスベルクからの即刻退去を命じられる。
後にウクライナのユダヤ人虐殺者、美術品略奪者として悪名を馳せるコッホは、大量のビザ発給でユダヤ人の逃亡を助けた杉原に赴任当初から強い反感を持っていたのだ。
ポーランドと日本の関係
亡命ポーランド政府の諜報活動に協力したとして短期間でケーニヒスベルクを追われた杉原だが、そもそも日本とポーランドとの間にはどのような関係があったのか?
ポーランドはロシア、ドイツ(プロイセン)、オーストリアというヨーロッパの三大列強に囲まれた地理的要因もあり、歴史上何度も他国の侵略を受けている。
18世紀には1772年、1793年、1795年の三度にわたってこれら3カ国による領土分割を受けており、ついに三度目の分割でポーランドの領土は完全に併合し尽くされ、国家が消滅するという悲劇に見舞われているのだ。
このように長い間屈従の歴史に虐げられてきたポーランド人は、自らを支配するロシアに対して積年の恨みを募らせていた。
そんな折、日露戦争が勃発。
日本は当時世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊を海戦史上最も完全に近い勝利ともいうべき日本海海戦において全滅させ、ポーランド独立の足がかりを作った歓迎すべき国であり、また、ロシアの圧政に苦しむポーランドに武器や資金を援助してくれた救世主でもあったのだ。
また、1918年にポーランドがロシア帝国からの独立を宣言した際、ポーランドを国家として最初に承認したのも日本だった。
そしてもう一つ、ポーランド人の心に深く刻まれている出来事がある。
ロシア革命の内戦中にシベリアに抑留されていたポーランド人孤児765人を、1920年(大正9年)と、1922年(大正11年)の2回にわたって日本が救出したのだ。
そもそもなぜシベリアの地にポーランド人がいたのか?
実は、領土分割で国家が消滅して以来、ロシア領となった地域で独立のために立ち上がったポーランド人たちがシベリアに流刑にされており、第一次世界大戦までにその数はおよそ5万人余りとなっていた。
さらに第一次世界大戦ではポーランドはドイツ軍とロシア軍が戦う主戦場となったことから、両軍に追い立てられる形で流民となった人々がシベリアに流れ込んでいったのだ。
そのためシベリアにいるポーランド人の数は15万人から20万人にまで膨れあがっていたといわれている。
さらにそこに追い打ちをかけるように起きたのがロシア革命、さらにその後の内戦。
この度重なる戦火の中で、シベリアのポーランド人たちは食料も医薬品もない中で、餓死、病死、凍死に見舞われるなど、凄惨な生き地獄に追い込まれていった。
このあまりに悲劇的な状況を見かねたウラジオストク在住のポーランド人たちが1919年に「ポーランド救済委員会」を設立し、アメリカをはじめ欧米諸国に働きかけ、ポーランド孤児たちの窮状を救ってくれるよう懇願するも、その試みはことごとく失敗。
最後の頼みの綱として彼らがすがったのが日本だった。
当時の日本政府は救出要請の訴えを聞き、わずか17日後には救いの手を差し伸べることを決断。大変な費用と手間が必要であったにもかかわらず、これは驚くべき即断といえる。
救済活動の中心を担ったのは日本赤十字社だった。
日本に到着直後の孤児たちはチフスを患い、頭にはシラミ、餓死寸前の子もいるという最悪の健康状態だったが、看護師たちの懸命な看護により元気を取り戻し、2年後、1人も欠けることなくポーランドに戻り、終生その体験を語り継いだという。
このようにして日本とポーランドは極めて良好な関係となり、第1次世界大戦後、独立を回復したポーランドは、日本に対して情報戦に不可欠の暗号化技術の基礎とソ連情報を提供してくれたのである。
ポーランドのおかげで日本の暗号化技術は国際水準に達したともいわれている
杉原千畝がリトアニアに派遣された真の理由とは?
こういった経緯を経て日本とポーランドは共通の敵であるロシアに対抗するため、以後も友好関係をあたためてきた。
しかし、両国の良好な関係を一変させる出来事が起こる。
第二次世界大戦の開戦である。
1939年9月ドイツ軍のポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発すると、ソ連軍の侵入を受けたポーランドは独立から20年余りで再び分割支配されることとなり、国を追われた政府首脳は国外に逃れ、ロンドンに亡命政府を樹立し、国内の抵抗運動を指揮した。
日本との関係においては、日本が日独伊三国同盟に加入し米英に宣戦布告したことで、ロンドンにあったポーランド亡命政府とは自動的に敵対関係となってしまった。
しかし形式的には交戦国となった両国だが、諜報活動の協力関係は水面下で密かに続けられていた。
日本は防共協定を結んだばかりのドイツが日本の仮想敵国であるソ連と不可侵条約を結び、協定を事実上白紙化したことに強い不信感を抱いており、ドイツとソ連に関する情報収集力の強化は目下最大の急務であった。
第二次世界大戦勃発の直後に日本人居住者のいないバルト海沿岸の小国リトアニアの首都カウナスに日本領事館が設けられ、その領事代理に外務省随一のロシア通である杉原千畝が任ぜられた背景には、既にドイツ国内に綿密な諜報網を持っていたポーランド軍と接触し、参謀本部の情報将校たちや、リトアニアにおけるポーランド諜報組織、さらにはロンドンの亡命政府の下にある軍事組織と諜報活動の協力関係を築くという重大な任務があったのだ。
一方、情報の見返りには、日本の外交特権で守られた外交行囊(外交使節団の連絡手段として利用される、使者が運ぶ封書のこと)を使い、在ヨーロッパ日本大使館やバチカン(ローマ教皇庁)の支援も受け、スウェーデン経由でロンドンのポーランド亡命政府へ情報を運ぶという情報ネットワークが構築された。
また杉原はカウナスの日本領事館閉鎖が明らかになると、協力関係にあったポーランド軍人二名に対して日本の公用旅券を発行し、それにより一人は駐ベルリン日本陸軍武官室の通訳官として架空雇用され、ポーランド軍諜報部の現地指揮官として活躍。もう一人は杉原がケーニヒスベルクの領事館に赴任する際に同行して情報収集に協力した。
杉原らの動向に以前から不審を抱いていたドイツ防諜部は、密かに周辺の探索を続けていたが、ついに1941年7月上旬に日本陸軍武官室に雇われていたポーランド将校がドイツ側に逮捕されると、ベルリンのポーランド諜報機関は壊滅。
しかしながら、日本とポーランドの協力関係はストックホルムに駐在する小野寺信陸軍武官とその協力者であるポーランド将校に引き継がれ、ポーランドからの情報提供は日本の敗戦まで続けられた。
杉原千畝最後の任地ブカレストへ
ポーランドによる全ヨーロッパ規模の情報網構築に協力していたことが問題視され、ケーニヒスベルクからの退去を命じられた杉原は最後の任地であるルーマニアのブカレストに向かうことになる。
1941年(昭和16年)12月ルーマニアの日本公使館に一等通訳官として赴任した杉原は、この地で終戦を迎える。
日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した1945年8月15日から2日後、8月17日に在ブカレスト公使館で家族と共にソ連軍に身柄を拘束された杉原は、この後1年間の収容所生活を送ることになる。
ブカレストの捕虜収容所へ連行された後、1946年12月にはオデッサの収容所、1947年3月にはナホトカの収容所と、次々と収容所を移動させられながらシベリアを横断するという過酷な日々を送るが、1947年(昭和22年)4月、ウラジオストクから興安丸に乗船し博多湾に到着。無事に帰国を果たすのであった。
収容所を移動するたびに荷物を奪われ、当初30個以上あったトランクも最後には身の回りの物を詰めたボストンバッグしか残らなかったという。
また収容所での検閲により、持っていた本はすべて没収され、カメラや写真も全て押収されてしまったが、唯一手元に隠して残せたのが有名なこの一枚、カウナスの日本領事館前に集まったユダヤ人たちの写真である。
杉原を「命のビザ」発給へと突き動かしたのは?
同盟国であるはずのドイツ国内で諜報活動を行い、名目上は敵国である亡命ポーランド政府の情報将校と協力するという、非情な情報戦の世界に杉原は生きていたのである。
杉原が日本通過ビザを発給した最初の契機は、諜報活動で協力関係にあったポーランドの情報将校を安全な第三国に逃すためのものであり、それは彼らの家族など関係者を含めても多くて600名分のビザで済む予定で、ここまでは日本の外務省も参謀本部も承知のことであった。
しかし、想定外の出来事が発生した。
ナチスの迫害から逃れるためポーランドからリトアニアに流入してきた大量のユダヤ人難民が日本領事館へ殺到してきたことである。
恐怖に怯え、杉原を最後の頼みの綱として助けを求める彼らの目の前にし、ビザ発給の目的は大きく変わってしまった。
一刻を争う状況の中で「自分を頼りにすがってくる人たちを見捨てることなど出来ない」との思いが、杉原を「命のビザ」の大量発給へと突き動かしたのである。
次回へ続きます。
文/ガイドアメディア編集部
編集:Taro
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