江戸時代、井伊氏の居城だった彦根城。日本に12か所しかない現存天守閣があり、国宝に指定されています。ご当地キャラクターとしてすっかりお馴染みになった「ひこにゃん」が出迎えてくれることも。「ひこにゃん」が猫をモデルにしている理由や逸話を井伊氏の歴史を振り返りながら見ていきましょう。
徳川四天王の一人、井伊直政
徳川家に仕えるまで
井伊氏はもともと遠江国(現在の静岡県)の豪族で、今川氏の家来でした。しかし桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に倒され、そのとき井伊氏の当主も戦死します。その跡を継いだ直政の父も謀反の疑いをかけられ、今川氏真に誅殺されてしまいます。
そのときまだ直政は幼かったため、直政の叔母が井伊家の家督を継いだといわれています。これが井伊直虎(なおとら)で、数年前大河ドラマのヒロインになったことで知られています。
成長した直政は、当時遠江に勢力を伸ばしてきた徳川家康に小姓として仕えるようになります。美男子であった直政は家康に大変可愛がられたそうです。
仕官してからは戦場で武功を挙げ、家康が織田信長に従い武田氏を滅ぼすと、旧武田家の家臣団を召し抱え、それらに朱塗りの軍装をさせ直政に統括させるようになります。
「井伊の赤備え」と呼ばれる軍団の誕生です。
井伊の赤備え
この赤備えの元祖は武田信玄の家臣飯富虎昌(おぶとらまさ)とその弟山県昌景(やまがたまさかげ)が率いた軍団です。
戦場において赤の軍装に身を包むことは目立つことであり、味方にはその働きぶりがよくわかるのですが、敵から格好の目標にされるという欠点があります。
つまり武勇に自信がなければできない軍装であり、それ即ち精鋭部隊であるということで今度は敵が恐れるという心理的効果もありました。徳川家康も三方ヶ原の戦いにおいて、この「武田の赤備え」に完敗しています。
また大坂の陣で有名になった真田信繁も赤備えで登場し、井伊の赤備えと対決することになります。信繁は徳川家康をぎりぎりのところまで追い込み「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称賛されました。
井伊直政のモットー~己に厳しく、家臣にも厳しく
こうして家康に目をかけられ出世した直政ですが、なにも美男子だったからというわけではありません。とにかくよく働き、実績を残したからです。
直政は徳川家中では新参者です。多くの同僚が先祖代々仕えている、あるいは家康が若い頃から仕えており、そのような連中からは白い目で見られることもあったようです。
こんな逸話があります。
直政がまだ若い頃、ある戦場で食事をしていたのですが、あまりにも粗末なものだったため、食が進みません。それを見た先輩の武将から「ここは戦場だ。兵士たちはこのような食事すらろくにできないのだ。お前が一軍の将になりたいのならこれくらいのことで不満をもつな。」とたしなめられたそうです。
それからというものの、直政はそれまで以上に猛烈に働きます。その証拠に戦場に出るたびに傷を負っていたといわれています。
直政の同僚で、同じく徳川四天王の一人といわれた本多忠勝は戦場で傷を負うことがなかったといわれており、同じ戦上手でも対照的です。
赤備えの軍団を率い、鬼神のごとく戦う直政は「井伊の赤鬼」と呼ばれ、敵から恐れられました。
そしてその徳川家への忠勤ぶりを家臣にも強いたため、わずかな失敗をした者でも手討ちにするような激しいところがあり、家臣の中には逃げ出す者もいました。
このような面がある一方政治手腕は高く、領国では善政を敷き、他大名との交渉を家康から任されることもありました。
天下が統一され徳川家康が関東に国替えになると家臣の中で最大の領地を与えられます。
その勇猛ぶりと巧みな政治手腕ぶりから、毛利家の重臣で豊臣秀吉の信任が厚かった小早川隆景をはじめとする多くの武将たちが徳川家の一家臣に過ぎない直政の器量を高く評価しました。
また秀吉も豊臣の姓を直政に与えるなど、徳川家の家臣というより独立した大名のように扱っています。
井伊直政と関ヶ原の戦い
もちろん天下分け目の一戦、関ヶ原においても活躍します。まずは戦闘前に外交交渉で複数の大名を徳川方に寝返らせ、戦場においてもいつも通り働きます。
しかし退却する島津軍の追撃戦において銃弾を受け重傷を負ってしまいます。このときも傷を負ったことよりも、出血により気を失いかけた自分に憤慨したといわれています。
直政は重傷を押して戦後処理にも活躍します。石田方についた毛利氏、島津氏などは直政を頼って家康から赦免されます。また真田昌幸・信繁父子の助命にも一役買ったといわれています。
このような中、直政は石田三成の旧領である近江国佐和山に領地を与えられます。なぜこの場所かと言えば、京都の朝廷と大坂に存在する豊臣秀頼を監視するという重大な役目があったからです。
しかしこの重傷がもとで、関ヶ原の戦いから2年後、直政は世を去ります。
直政を継ぐ者、井伊直孝
井伊氏の居城、彦根築城
直政は生前、石田三成の居城であった佐和山から別の土地に新たな城を築こうと考えていましたが、実現することなく他界してしまいました。
井伊氏は嫡男の直勝が後を継ぎましたが、幼少のため実際は家老が政務を見ており、家康と相談のうえ彦根に城を築くことになりました。この築城は天下普請と呼ばれるものの一つで、幕府によって12~15の大名が手伝いを命じられています。
この彦根城、多くのリサイクル部材が使われています。廃城となった近隣の城の部材を用いており、天守は旧大津城のものが使われているそうです。また元の居城佐和山城や小谷城、観音寺城、長浜城などからさまざまな部材が持ち込まれています。
これは豊臣氏への対策として、急ぎ城を完成させる必要があったためだと思われます。
大坂の陣と井伊直孝
直勝は病弱であったため、徳川家康にとっては井伊氏に重要な役割を担わせる上で、このことが一番の懸念材料でした。そこで大坂冬の陣が始まると直政の次男直孝に軍を指揮するように命令します。
冬の陣において、井伊軍は同じ「赤備え」の部隊に大敗を喫します。先述した真田信繁率いる部隊です。
真田丸の戦いと呼ばれるこの戦いは信繁の挑発に乗った前田利常らの軍が真田丸と呼ばれる出城に攻めかけたところ反撃に遭い大損害を受けたものですが、前田家と同じエリアに布陣した井伊軍も損害を受けます。
しかし続く夏の陣では、父直政にも劣らぬ働きを見せ家康の期待に応えました。これにより直孝が彦根の本家を継ぎ、直勝は分家を継ぐことになりました。
「夜叉掃部」井伊直孝
こうして井伊本家を継いだ直孝ですが、2代将軍徳川秀忠からの信任が厚く、領地を加増されるとともに、秀忠の死の際には枕頭に呼ばれ3代将軍家光の後見を直々に依頼され、大政参与(たいせいさんよ)という役に就任します。
これが後に大老と呼ばれる幕府最高職のはじまりといわれています。直孝は家光からも信頼され、ついには30万石もの領土を与えられました。
直孝は勇猛で、また寡黙で冷静沈着な人物であったことから「夜叉掃部(やしゃかもん)」と呼ばれました。「夜叉」とは仏教の鬼神のことで、「掃部」は直孝が朝廷から受けた官職名「掃部頭」のことです。
直孝の人柄の重厚さを物語る逸話があります。
老練の武将をひるませる
伊達政宗はかつて家康から与えられた「百万石のお墨付き」と呼ばれる書面を幕府に持ち込み領地の加増を目論みました。
その調停にあたった直孝は重い口を開いて「確かにこの書状は神君家康公から与えられたものに間違いない。しかし今は太平の世となり与える土地はござらぬ。おあきらめなさい。」と一蹴しました。
政宗もそう言われて「今後もよしなに」と引き下がらざるをえなかったそうです。
伊達政宗は秀吉や家康とも丁々発止のやりとりを繰り広げ、戦国の世を生き抜いた武将で直孝よりはるかに年齢が上の人物です。直孝の論理の正当さと迫力に古強者の政宗も思わずひるんでしまったのでしょうか。
もっともこの伊達政宗、江戸幕府が安定してくると自分が警戒されないよう様々な芝居を打っており、この件もわざと無理難題を吹っかけて、結果すごすごと引き下がるよう振る舞うことで警戒を緩めさせる芝居だったのかもしれません。
外様大名の処世術
以前のコラムで伊達政宗が蒲生氏郷との紛争においてしたたかな立ち回りで家の存続を果たしたことを書きました。(そのコラムはこちら:春の風なんか大嫌い!勇猛で優雅な武将蒲生氏郷)
戦乱の世が終わり平和な時代が到来すると、大名たちにとって家を守ることが最大の使命になります。特に大きな領土を与えられた外様大名たちは幕府から警戒の目で見られているため、これを逸らさなければなりません。
これを保身と考え、笑う人もいるでしょう。
しかし大名が取り潰されれば、家臣たちも失業することになり、そのまた家臣たちも同様の目に遭います。家を守ることは即ち家臣たちを守ることなのです。保身には間違いありませんが、自分一人を守るということではありません。
それでは牙を仕舞った大名たちの逸話を紹介しましょう。
金に糸目をつけるな 伊達政宗
伊達家の江戸の邸宅が火災によって一部が焼失してしまいました。一部を建て直せば済む話なのですが、政宗はすべて取り壊して新築することを命じます。
ある家臣はそれを聞き「そのように金を無駄に使うと、戦が起こった際に軍役を務められなくなります。」と政宗を諫めました。
すると政宗は「もう天下は平和だ。戦が起こることはあるまい。もし起きたとしてもその時は幕府から借りればよい。」と笑いました。
およそ戦国武将たる者は有事に備えて倹約に努めたものです。しかし政宗は無駄に金を使うことをアピールして幕府を安心させようとしたのです。
百万石の鼻毛 前田利常
加賀百万石の領主前田利常は、だらしなく鼻毛を伸ばしていたのを家臣にとがめられました。すると利常は「わしがこうして鼻毛を伸ばして(愚か者を装って)いるから、百万石の領地を守ることができ、お前たちを安心して暮らせるようにしているのだ。」と不機嫌そうに答えたそうです。
利常も直孝同様、大坂冬の陣では痛い目に遭いましたが、夏の陣では大活躍し面目を施したといわれています。
井伊直孝と白い猫
話を直孝のことに戻します。
直孝が江戸郊外に鷹狩りに出かけたところ急な雨に遭い、大木の下で雨やどりをしていました。
すると向いにあるさびれた寺院にいる一匹の白い猫が右前足をあげ、こっちにこいと招いているように見えました。直孝はその猫に見入られるようにその寺院の方に向かっていくと、大木に雷が落ち直孝は一命を取り留めました。
(同じように鷹狩りの帰りにある寺院を見ると猫が手招きしているので、それに誘われるように寺院に入っていくと急に雨が降り出して濡れずに済んだうえ、住職からありがたい話を聞くことができた、とも言われています。)
そう、この猫が「招き猫」の元祖であり、「ひこにゃん」のモデルになったのです。
この寺院もその後、直孝から寄進を受けて立派に改築され、井伊家の菩提寺となりました。そして直孝没後その戒名をとって豪徳寺と称します。豪徳寺の方もこの猫のおかげで大檀家を招き入れたのです。
豪徳寺の招き猫
東京都世田谷区にある豪徳寺には現在も「招福猫児(まねぎねこ)」と呼ばれる招き猫が、願いが成就したお礼に奉納されています。
この「招福猫児」は小判を持っておらず、ごくシンプルなものです。これが一般に広がっていき、客を招く、富を招くなど広く解釈されるようになって、小判を持つ猫が登場したのでしょう。人間、欲深いものです。
もっとも招き猫の由来は他にも、室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)が戦勝祝いに奉納した猫地蔵だという説など諸説あります。(太田道灌についてのコラムはこちら:山吹の花と文武両道の名将太田道灌)
ちなみに左手を挙げている猫はメスで人に関する福を呼び込み、右手を挙げている猫はオスで金運や幸運を上げてくれるそうです。
日本人と猫
猫は奈良時代に貴重な経典などをネズミの害から守るために中国から輸入されたと伝わっています。元はこのようにネズミ対策でしたが、次第に愛玩動物としての一面を持つようになっていきました。
平安時代皇位にあった一条天皇は愛猫家として知られ、その様子が『枕草子』に記述されています。
戦国時代には前出の島津義弘が猫の瞳孔で時間を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったという話があります。また豊臣秀吉も大坂城で猫を飼育して可愛がっていたそうです。
江戸時代初期まで、猫はなかなか繁殖しなかったために大変貴重な動物でした。このため猫の絵がネズミ除けのお守りとして売られていたこともありました。
このように愛玩動物としての側面とネズミ対策の益獣(えきじゅう)としての側面があり、後者については書物や穀物、また地方によっては蚕をネズミから守る存在でした。養蚕業が盛んであった現在の宮城県にはたくさんの猫を祀った神社があります。
ですからこの豪徳寺の猫も、現代の野良猫のようなものではなく、住職のペットだったのかもしれません。
井伊氏と彦根城 その後
赤鬼再び
直孝亡きあとも、譜代大名の筆頭として井伊氏は幕府で重きを成します。直孝の後も5人が大老に就任し、他の譜代大名が次々と領地替えをされる中、井伊氏は一度も彦根を動くことはありませんでした。
そして幕末。直弼(なおすけ)が家督を継ぎ、大老に就任します。直弼は将軍家後継者問題、アメリカとの通商条約締結などの難局に直面しますが自らの方針を貫徹しようとし、ついには安政の大獄と呼ばれる反対派の大弾圧に踏み切りました。
この強硬な姿勢に「井伊の赤鬼」という先祖直政と同じあだ名をつけられたそうです。しかしこの強権的な政治が反発を生じ、直弼は暗殺されてしまいました(桜田門外の変)。
直弼は権力をもって反対する者を弾圧したために悪人扱いされることが多い人物です。
しかし直弼なりに先祖代々幕府の重鎮として働いてきた井伊家の人間として、幕府のために尽くそうとしたことは間違いありません。ただやり方があまりにも強引だったのです。
その後の井伊氏と白い猫の再来
そして幕末、長州征伐において井伊隊は家康以来のしきたりにより先鋒を務めます。
しかし井伊の赤備えは過去の輝きを失っていました。大坂の陣の頃と大して変わらない古い軍備の赤い軍団は最新装備の長州軍に完敗を喫します。
時代は変わったのです。
そして直弼暗殺後、藩を冷遇した幕府を見限り彦根藩はいち早く新政府に恭順を誓うことになります。
彦根城も武士の時代の終わりとともに取り壊される運命にありましたが、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため、取り壊しを免れました。
戦時中も彦根市一帯を米軍が爆撃する予定があったらしいのですが、前日に終戦となったため爆撃は実施されず焼失の危機を免れたといわれています。
現在、天守閣などが国宝に指定され、観光地として大変に賑わっています。また世界遺産の登録を目指しています。あの白い猫がきっと幸せを招き寄せてくれることでしょう。
執筆:Ju
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